プラパンチャ(戯れ言)

如来の前に如来なく.如来の後に如来なし…

 

真理の法は一法なれば...
一因に縁らず.一法に立せず…
然し明々歴々.一因一法を晦まさず...
仏教とは偏った極端な修行を避けるよう戒めています…その一端は怠惰な道であり.もう一端は苦行の道です…

しかし中道とは苦行と怠惰の中頃と言う意味ではなく.それは両極を乗り越え超越した究極の道の存在を示しているのです…
お釈迦様はその為には.実践に依らない[プラパンチャ]という単なる論理.能書き.戯れ言.観念論.空論.綺麗事に陥らないよう注意するよう仰ったのです…

それは世の中と言うものは実践による事実を素直に受け入れて認める性格を有して居ないものであり.論理.観念論.妄想的仮説とか伝統的な物事.思い込み.権威.信仰.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観.風格...などが優先的に信頼され.実践的事実や真理を包摂しようとさえする風潮があり.人々に単なる思い込みや仮説が.事実や現実を包摂することなど有り得ない事を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものであるからに他ならないのです…


例えば[無一物]にしても.負担のない安らぎの心境を.短絡的な人達はそれを[苦行]だと勘違いして忌嫌い怖れて.それがドゥッカ(苦)を生み出していると気付く事もなく所有に余念がなかったり.また変化生滅してゆく流れの中での.単なる無常な本質のものに過ぎない所有による喜びや幸せを.堅固なものと勘違いしたりしない為に.無一物であっても堅固な喜び.幸せ.悦楽の中に在る事が出来る事を.実践的に実証的に検証するのです…
⚫たとえ得るものが少なくとも不満を抱かず.清らかで勤勉な生活を送る者こそ讃うべき修行者である…

無一物の境地に至れば.苦悩はもう生じようがないのですから…


もし空気を失えば空気が如何に有難く甘露なものか心から気付くでしょうし.自ずと[お互い様とお陰様]の意味も見えてくるものなのです…
水の中に暮らす魚には.外の世界を理解することなど出来ないように.単なる観念論や戯れ言を美辞麗句で見事に修飾しながら.巧みに宣いながらも.その実は凡俗に馴染んでいては遂には真理に到達するもなく真理をプラパンチャ(戯れ言)となし.酔生夢死する結果となるのです…

因みに.折角.人の身に生まれながら欲望の充足に魅入られて[酔生夢死]してしまうような愚行は.輪廻の理法により微生物から捕食の関係性に則り転生を繰り返す事となるのですから…
[たとえ多くを語るにしても.その様に生活して居ないのであれば.彼れは修行者の部類にも入らない…]
今でも新たな在家組織や新興宗教やらが.正道から落ちこぼれた僧侶たちを巻き込んだりしながら雨後の筍の如く増えていますが.そもそも大乗仏教なるものを紐解けば.往時のそんな在家組織から発展している信仰集団なんですから…
真に仏教を理解せんと欲するなら.自己を啓発して.せめて五戒ぐらいは守っていく位の自覚が必要なのではないでしょうか…
●[何とかにも三分の理]と言われるが、その三分の理を乏しい根拠として自己正当性を主張.肯定して八正道を語るは論ずるに値しない…
それは煩悩(自戒.存在欲)による貪瞋痴思考に他ならず、愚か者であっても真実に準拠することもなく先に進む為に[自分は正しい][自分は間違ってない]と自己暗示を掛けながら生きているのである…しかしその先にあるのは真理(真実.事実.現実.実相)を蔑ろにした[何でも有り]の偏った世界なのだから…
維摩経勝鬘経などは凡そ釈迦尊(ブッダ)の教えと相反する教義を編纂した新興宗教団体が.それでも釈迦尊(ブッダ)の権威と名声には阿ろうと捏造した経典であり、仏説とは言い難く、それは多くの日本人が愛して止まないほど大好きな般若心経などにも窺えるのである…
[自分を真に救うものは自分だけ]であり、それを人々の救いを優先するという美辞麗句はプラパンチャ(戯れ言.能書き.観念.空論.綺麗事)に他ならない…
そしてそれらを盲信する人とは、本当には物事が見えていない人だとも言えるのです…
もしプラパンチャ(戯れ言.能書き.形而上観念.空論.綺麗事…)で人が真に救われるという人が居るとするなら、それはヤクザ映画でも見た後に肩を怒らして歩いている愚か者の錯覚を.真に強くなったと勘違いする事にほかならず.それらの理解した.救われた.目覚めた.乗り越えた.解き放たれた.覚ったという錯覚など、現実の前には無力なものであり、故にそれらを[寝呆け]とか[酔っ払い]と表現するのです…
折角の人生…酔生夢死する事が.果たして幸せな人生と言えるのでしょうか…


寝呆け.染められ.縛られたバイアスに気付き、

目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)