承認と期待

最大の味方であると共に…
最大の敵でもあるもの…
それは自分なり…
世の中の毀誉褒貶に、塗れず.気を取られず.惑わされず.捉われず.拘らず.執着せずに.在るがままに.善の法香を放ち続ける…     
多くの人は毎日の生活の中で.或いは仕事の中で[私のこの努力を人に認めて欲しい]と他人からの承認を欲したり期待したりしながら[貪瞋痴思考]で生きているのですが、それは期待が外れたり、理解が得られないと、[自分はこんなに頑張っているのに人は何で解ってくれないんだ]とか[こんな筈じゃないのに…]とか、ドゥッカ(苦しみ.不満.怒り.哀しみ.悩み.虚しさ.憂い...)を生み出し続け.しかもそんな思いを積み上げながら生きていく事となります…
こういった承認欲求とは.幸せの三階層(精神性・絆.関係性・所有)の内の二階部分の絆.関係性.距離感に由来する欲望だと言え、期待とは三階部分の所有(思惑)に由来する欲望だと言え、多くの場合、殆どの人達は日々の暮らしの中で、周囲の人や社会や環境に、過度の期待や理解.承認を欲していないでしょうか?   
他者や環境.社会などへの過度の期待とか理解.承認は、自分で自分を窮屈にさせ.息苦しくもさせてゆくだけであり、因果律(縁起)に従って刻々と変化生滅してゆく此の世界に於いて.そうそう毎度、自分の思い通りに物事は運ばないものなのに、[努力は必ず報われる]などと短絡的な思考で猪突猛進したりと頑迷に生きれば、良し悪しの間を流れながら、いつか必ずドゥッカ(苦.不満怒り哀しみ憂い…)へと行き着いてしまうのです…
 仏教では[諸行無常][因果律(縁起)]と此の世界や私達の姿(実相)を現わしているように此の世の全ては留まる事なく常に移り変わっており、原因や条件が相互に関わりあって存在しているのであり、そんな中においては、この私の身体も感覚も感情も精神作用さえも常に変化し続けており、固定した私という実体的な存在などないのです…

しかし私たちはこの[在りのままの真実]に気づくことができず、常に自分の欲望の赴くままに自分の好き嫌いや、少しでも自分が楽になるように、自分が得するようになどと利己的で自己中心的な考え方でのみ物事を捉えてしまっている現状があります…

 他者(環境)に対する期待は、「恒常不変な私が存在する」という思い込みや全てを自己中心的に見てしまう我執(執着心)から生じています…我執があることで貪瞋癡(とんじんち)をはじめとする欲望が生まれるのだと仏教は教えています…

貪は貪り貪欲,瞋は怒り,癡は愚かさや妄想を意味します。例えば,期待をして(貪)応えてもらっても、自分の思いと違えば期待外れとなり不愉快に感じ(瞋)[何もわかってもらえない][地獄へ堕ちろ〜](癡)となります。まずはそんな自我意識(自己)から離れ、たとえ自分を認めてはもらえなくとも.相手を受け入れ相手を認めていく事が大切であり、そうすることで物事の本質に近づけるのではないでしょうか。

[この身は無常なり、受想行識もまた無常なり、無常なるものへの執着は即ち苦(ドゥッカ)なり]

「承認を期待しない」という考え方で日々を過ごしてみると、思うような結果にならなくとも、その原因を自分自身に探し出す習慣がついてゆくのではないでしょうか。言い換えれば[周りを変えてゆこうというスタンス]から離れ、先ず.少しでも周りから認めてもらえるような自分になれるように.冷静に現状を見つめ直して、今、身の周りで起こっている事や、当たり前(本当は当たり前ではない日々)だと錯覚している物事に気付き、感謝してゆく事から.たとえ凡俗に認められずとも真に価値ある自分を築いてゆく機会として頂きたいと願って居ります…

 


燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや…

目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)