ドゥッカ(不安定)とスカ(安定)

生きるとは不安定さ(ドゥッカ)からの安定化(スカ)運動であると言え、この不安定さ(ドゥッカ)からの安定化(スカ)運動が、幸せや喜びを欲するのです…
この安定.幸せ.安楽.喜びを意味するスカ(sukka)とは、車輪(チャクラ)の軸穴を意味し、良く造られた軸穴(スカ)によって回転してゆく車輪は、円滑に.そして快適に自分を運んでいってくれるのです…

例え、ためになる事を多く語るにしても、それを実践しないならば、その人は怠惰な愚者に過ぎない…
牛飼いが他人の牛を幾ら数えても、自分の牛とはならないように、その人は修行者の部類にも入らない…
いくら修行を積んだ徳の高い僧侶と尊称され
徳の高い説法をしていても、そのように生活していないのならば、その説法は飯の種の詭弁に過ぎない…

♢プラパンチャ(戯れ言.能書き.詭弁.空論.…)

 

♠匹夫もて応えん…
 功徳を積まずして、何の成仏やあらんと
          如来品正師
功徳とは
善根を積むことによって得られる功能.福徳や、現世.来世に幸福をもたらす元(原因)となる善行.布施
●効能/功能 とはよい結果をもたらす働きやきき目.はたらきや人の質
●吝嗇りんしょく
もの惜しみ けち 粗末 価値がない人 心が卑しい 心が貧しい人 心が狭い人

 

世間の人が喜びだと言うものを、如来は苦しみと観る…

世間の人が苦しみだと観るものを、如来は喜びと観る…
世間の道と出世の道…この二つの道が向かう先は真逆なのですから… 

一つの道は僅かな利益と名声を追い求める無常な道であり、もう一つの道は「心の安らぎ」に至る真理の道…本当の幸せや喜びとは心の安らぎなのですから…

どちらの道も.充足を求めてゆく道なのですが[心の充足]と[欲望の充足]とは.実は真逆の道であり、しかも心の充足は無明の闇を晴らす心の育成で到達できる堅固な[実像]ですが、欲望の充足とは永遠に到達できない[虚像]だとも言えるのです…

つまり[幸せや喜び]とは[心の充足][心の安らぎ]に他ならないのです…

そして[心の三要素]でも解説したように、[心を充足させる要素].[心を安らげる要素]は3階層構造であり、[一階部分]の存在の次元の事物である精神性.人格.度量.人間性がしっかりさえしていれば、[二階部分]の他の生命との良い絆や関係性も[三階部分]の所有の次元の事物(金財.持ち物.地位.名誉.承認.権威.権力.知識.情報.健康…)も最低必要量以上には必要とせず、却って心の一階部分が脆く.不安定なのに、二階.三階部分の比重が増せば、一階部分の精神性.人格.人間性を歪ませたり崩壊させる事ともなるのですから…

つまりは自分自身の[幸せや喜び]を得るために、精神性や人格を高めてゆくのであり、心に安らぎが現れ.心が充足してくると不満は消え去り、たとえ無一物であったとしても.満ち足りた日々を送ることが出来るのです…ですから心の貧しい人格の低い人間は、満たされる事のない不満な心が、尊大に振る舞ったり、物事に難癖をつけたり、クレーマーになったりして、自分の不満を発散しようとしながら益々、人格を下げてゆくのです…それは争いの修羅界から、動物なみの畜生界、餓鬼界、地獄界(自業苦界)まで何処までも堕ちてゆき.苦しみ藻掻くことも自分の[心の安らぎ]の問題なのです…

誰でもが.幸せになりたい…楽しくいきて行きたいと思いながら懸命に生きているのです…


折角の命なのですから苦しんで生きたいと思っている人など居ないのです(一部の変態者やストイックな人が行なう自虐的な行為にしてさえも.幸せ、喜びの為の行為に他ならないのですから)

しかし、人生を幸せに生きるのも.楽しんで生きるのも、現実はそう簡単にはいきませんね…

何故、生命が現れて約そ40億年、人類へと進化して約そ10万年.これ程切望して.これ程探し求めているというのに、手に入れるのは短命で.不安定で一時的で無常でしかない僅かな幸せや喜びと、引き換えに多くの悩みや苦しみなのではないでしょうか…

人類の社会.科学.哲学.心理学.思想も、この幸せや喜びというものを追求し.頭を悩ませ.発展もしてきたとも言えるのですが、結果的には.こうすれば幸せや喜びを得られると宣いながら、得体の知れない物事とか.無常な物事への執着を深めさせるだけでしかなく、欲望の炎を煽り.人々を苦しみ.悩み.恨み.哀しみ.虚しさで焼き尽くしただけに過ぎないのではないでしょうか…

仏教では.それを無明(無知)と言うのです…

つまりは本当の幸せや喜びというものが何なのかも解らずに幸せや喜びというものを切望して探し廻りながら、それを手に入れた時に短命.一時的.無常ではあるけれど.幸せな気分や喜びの感覚を与えてくれる.手近にある所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権威.権力.称号…)という僅かな幸せや喜びを得ることは出来るが、それと共に.苦しみ.悩み.虚しさ.飽き…という副作用を伴う事物の所有および所有量こそが幸せや喜びだと錯覚しながら、苦しみや悩みを深めていることに気付けない、それは真実という灯す明かりがないまま暗闇の中を手探りで幸せや喜びを探し求めて、手近な便宜的で.付随的な価値のものでしかない所有の次元の事物を目的物と勘違いして盲目的に握り締めようとする無知を無明というのです…

一般的に「楽しみだ」と思われているもののすべてが、我々をだますからくりです。たとえば財産があれば楽しいと思う人がいるとします。財産は、空からは降ってこないのです。大変苦労して獲得しなくてはならないものです。どんなに苦労しても、成功する場合もしない場合もあります。 財産を得たとしても、その管理にずっと苦労しなくてはいけないのです。 結果として、わずかな楽しみがあっても、その本人が財産の奴隷になってしまいます。


 

平和な家族があれば幸せだろうと思う人がいるとします。 しかし、自分の性格に、また好みに、ぴったり合う相手がそんなに簡単に見つかるでしょうか。家庭を作って子供が生まれてからも、育児は楽しみだけの仕事でしょうか。 家庭の平和を守るために、一生苦労して生活しなくてはならないでしょう。 自分一人の気持ちだけでは、何の行動もできなくなるでしょう。

家族だけでなく、親戚や隣人のことも考慮して、行動する必要が出てくるでしょう。

平和な家庭を作るために努力する人が、結局、家族の奴隷になる羽目になります。

また、健康と長生きを幸せの基準にする人がいるとします。 生きること自体が、とてつもなくおもしろいものであるのなら、健康も長寿も意味がありますが、健康で長生きしたいと思う人自身が、何のために生きているかということをわかっていないのです。 たとえ生きることがおもしろくても、健康と長寿はまったくあてにならない不確定なものです。 健康を維持しようとする努力自体が苦しいものであって、その苦労はまた歳とともにエスカレートしていきます。 努力の結果健康でいられるかもしれませんが、維持する苦しみも増えていくのが現実です。

財産があれば幸せ、健康・長寿であれば幸せだと、多くの人達は短絡的に考えるみたいですが.
財産があまりない人は不幸なのでしょうか?

失なう心配、騙し取られる心配、減らす心配もなく気楽に生きるのは果たして不幸なのでしょうか?

ジャングルで何の財産も持たないで生活する人々は不幸なのでしょうか?

では何故、そんな彼らのほうが不満もなく笑って暮らしているのでしょうか?
家族を持たない人は不幸なのでしょうか?

家族の為とか子供の為に生きて、それが果たして自分の幸福な生き方だと言い切れるのでしょうか?
長生き出来ない人は不幸なのでしょうか?

充実して50年生きるより、無駄に100年生きるほうが果たして幸せでしょうか?
そのように生きる人の中にも、幸せな人はたくさんいます。財産、長寿、遊ぶことなどを、幸せの基準にする考え方は差別的です。なぜならば、皆が平等には得られないものだからです。結果として、人類の一部を不幸だと決めつけているからです。 結局のところ、幸福か不幸かということは主観的な見解にすぎません。

 

人間は一向に理解しようとしないのですが、幸せの本当の意味は心の安らぎです。心に悩み苦しみがない状態です。 嫉妬・怒り・憎しみなどで、病んでいない心です。
ものではありません。ものをいくら追っても、心が病んでいるなら、そこにあるのは単なる苦しみだけです。 心の安らぎは万人に得られるものです。それに、誰かと競争して誰かを負かして勝ち取る必要はないのです。

人類は、幸せに対して盲目です。 幸せと一向に関係のないものが幸せだと勘違いしているのです。我々は日々歳をとっていくのです。 知識も体力も衰えていくのです。 必ず病気に襲われるのです。 いつどこで死んでしまうかわからないのです。これらは、決して避けられない事実です。

それなのに、本当の幸せとは縁も関係もない物質(所有の次元の事物)を追いかけているのです…

覚醒し目覚めれば、人類はずっと錯覚していて物質に振り回され、追いかけられ魅入られる結果になり、物質の奴隷となって自由を失って生きている事実に気付くでしょう…

しかし軟弱な豆腐などが.拠り処(支え)とはならないように、夢幻な妄想的なものも堅固な[心の安らぎ][心の充足]とはなり得ないのです…信じるとは物事が本当には見えていない事でもあり、物事が明確に見え.知り.理解できて初めて疑いなく信じる(信頼する)ことが出来るのですから…

如来 沙門に問う            人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、数年の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う       

人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、数日の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う        人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、飯食の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う       

人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、呼吸の間なり…      如来いわく、汝、道を知れり…