路傍の如来の説法−5〈残暑の頃の集い①〉

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上野の森の木々も隙間を塞がんとするが如く精一杯に繁り.まだその勢いの衰えを見せぬ日差しは大地を焦がすが如く照り付け.時折り吹いてくる涼風が仏衣の裾を揺らし、行く夏を惜しむかの如く鳴き交わす蝉の声に.秋の足音を感じる残暑の頃、人々は別段に示し合わす事もなく再び導かれるように集まってきた。上野駅の不忍口を出ると.いつもと同じように辻に立たれる[路傍の如来]を拝し.その湧き上る歓喜を抑えつつ近づき低頭合掌し.路傍の如来の持鉢に僅かな施与をすると.路傍の如来が微笑み指し示す空地へと右回りに移動して路傍の如来が行を上げられるのをお待ちした。
昨晩降り続いた雨の湿気で蒸し暑さを感じながら、皆それぞれに前の集いを思い返しながら前の集いからの気付きや疑問やその間に出現した問題を振り返っていた。中には人伝てに今回初めて来た者や友人に連れられて今回初めて来た者も多く、不思議な縁に導かれて今回初めて訪れた者達も前回に増して訪れ路傍の如来の説法を聞き逃すまいと前回の集いより更に多くの人達が集まっていたが、それぞれ深く静かに息を調えていたので、風に揺れる枯れ草の音と蝉の声しか聞こえなかった
太陽が天中を過ぎたころ、路傍の如来は顔前でゆったりと鈴(りん)を三度打たれた。
高く鋭い音が空気を引き締め.空間を浄めるが如く、人々の胸に染み入った。
路傍の如来は、低頭合掌され人々の平安と幸せを祈る願文を唱えられると、集まった人々の元へと歩を進められた。

集まった人々の元に立たれると路傍の如来は.人々に向かって何も仰らずに.ただ微笑まれていた。
すると待ちきれなかったのか.我れ先にとばかりに一人の青年が立ち上がると.直ら路傍の如来に話しかけた。
「私は今日初めて友人に誘われて集いに参加させて頂く佐藤と言うものです。
我が家は父母を始め家族全員が.ある仏教系の宗教組織の信者ですが、その教団で指導される仏教の教えと.友人から伝え聴いた仏教の教えとが.どうしても一致せず、其々は幸せ.安心.安全.成長という同じものを説いている筈なのに、まるで違う宗教としか思えないほど違っていて.同じお釈迦様が説かれた教えとは思えない位なのですが、それは[現世の利益]の追求か[来世の利益]の追求かというような違いなのでしょうか?
路傍の如来よ、どうぞお教え下さい。」

その青年の話を、お聞きになられていた路傍の如来は静かに話し始めた。
疑問を持つのはよいことだ。
疑問を疑問のままにしていては.先には進むことなど出来ないのだから。
疑いは真理を明確に理解し.精神的に進歩する為の妨げになると言われるが.疑心暗鬼に陥る事は得るべき物も得る事が出来なくなるしかし疑問.躊躇い.戸惑いがある限り進歩する事は出来ず、物事が理解.得心がいかず.物事が明晰に見る事が出来ない限り疑問が残るのは当然である。
どうでもいい物事、詰まらない物事、下らない物事に構けている暇があったら、疑問は放置せず無くしてゆくことが肝心であり、真実へ向かう為には絶対に不可欠なものだとも言えよう。
疑わずに.ただ信じるとは、本当は物事が見えていないという事である
ただ信じるとは無思考に.盲目的に追従する事に他ならない
真実が見えた瞬間には[信じる]とは存在せず.信じるも信じないもなく、[事実.真実]が在るだけなのだ
如来は[真理]を説くものであり、信仰とは[情緒的]なものである。信仰と仏法とは本質的には真逆な性質のものである。
故に仏法を学ぼうと信仰に触れる者は、何やら違うと面食らい、信仰に縋ろうと仏法に触れる者は、何やら違うと面食らうのだよ。
人は情緒に偏る事なく.真理(論理)にも偏る事なく.情緒と真理(論理)とを超越した処(中道)にあれ…
では如来や僧侶が何故、出世であり俗世ではないのだろうか?
如来や僧侶とは、人々を正しい方向と導く道標であり、苦(ドゥッカ)から離れる方向へと導く道標であり、真に幸せな方向へと導く道標であり、自らが実践によりその目的地を知っているから人々を導くことが出来る導師であり、[知識]とは喩えるならば[次の角を右に曲がって、次の次の交差点を左に曲がって、100m先に風呂屋がある]という伝聞しただけの情報を披露しているようなものに過ぎず、本当にそこに風呂屋があるかどうか実は解らないのに根拠もなく.もっともらしく主張しているだけの無責任なものに他ならず、自分が理解できない単なる知識を.人様に説いても本当に正しい方向へ導いているのか疑わしいもので、却って他人様を惑わしたり.間違った方向へ誘導してしまうものなので、仏教ではこれを[プラパンチャ・単なる知識.戯れ言.能書き.綺麗事]と言い、固く戒めてもいる。故に、自らの実践の中に目覚め.覚醒し.乗り越え.超越し.捨て去り.捨離し、解き放たれ.解放される[出世]の道を歩くのだよ。 単なる知識を集めて論理的に語るだけだったら.俗世の教師や.学者や.気の利いた小利口な者のほうが遥かに優れているかもしれない、だから俗世には得体のしれないもの.無責任なもの.眉唾で怪しげなもの.作意的で染脳的(洗脳)なもの.単なる推測にすぎないもので溢れ返っていて.多くの人々が翻弄されている…
情緒に偏ろうとするのは人間のもつ本質的な不安定性(ドゥッカ・生きる苦しみ.恐怖.不安.不完全さ.無常さ.無明さ.空しさ…)から、安全.安心.守護.恩恵を渇望し.何かしら依存する[拠り処]を必要とするからであるが、それらは飽くまでも心情的.感覚的.感情的.主観的.盲目的な虚妄であり.それは真理(真実.事実.現実.実相)への方向性とは真逆な性質のものである

路傍の如来の仰ることに合点がいかなかったのか.青年は重ねて話し始めた。
「路傍の如来のお話は.私には実に曖昧に聴こえます。結局は路傍の如来の説かれる仏教と.私が学んでいる仏教と.どちらが正しくて.どちらが間違っていると仰るのですか?」
路傍の如来は.青年に微笑まれながら仰った
どちらが正しく.どちらが間違っているという話は不毛である。
如来が説いているのは幸せへの道であり、それは正邪を争う論争でも. 衒学的な単なる論理や推論に過ぎない形而上学的なものや.歴史.伝統.文化.風説.伝聞.学説.外観や浅薄に導き出された可能性など .衒学的な単なる論理や推論に過ぎない形而上学的なものに裏打ちされた権威によってでもなく、この世に於いても.彼の世に於いても.来世においても揺るぐ事のない真理(真実.事実.現実.実相)に裏打ちされた堅固な安定性がある事を説いているのであり、情緒からも.真理(論理)からも超越した中道にこそ.真の平安.安寧.悦楽.歓喜.静逸.幸福がある事を説いているのであり、感覚的.所有的な幸せとは常ならざる変化生滅により、移り変わりドゥッカ(苦.悩み.不満.空しさ.儚さ..後悔……)へと行き着く性質のものに過ぎないのだ。
しかし世間と言うものには、事実を素直に認める性格は持ってない。
伝統的なこと.権威.信仰.迷信.先入観.文化的価値観...などが優先的に信頼され、人々に事実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うもの…

人が自分の範疇において.何を信じ.何を拠り処とし.何を生き甲斐としようが.それは個人々々の自由なのだ
私の説のみが真実であり、他の説は劣った説であり間違ったものであると主張する事は、単なる偏りに過ぎない。この世も来世も自業自得であり、自因果応報であり、ただ心を浄め、心を磨き、心を育て、無明の闇を打ち払い、目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放される道を、如来は憐れみの心.慈悲の心により説くだけである。
路傍の如来の話を座って拝聴しいていた件の青年は少しの間を置いて.やおら立ち上がり平身低頭して合掌すると「ブッダが説かれた仏の御教えに帰依します。ブッダの説かれた仏の御教えを正しく説かれる路傍の如来に帰依します」と三度繰り返し口ずさんだ。