妄縄自縛

妄縄自縛(もうじょうじばく)
妄想.雑念に気を盗られ、在りもしないドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.悔い.怖さ.迷い.哀しさ.淋しさ.憂い.飽き.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無常さ.欲.不満.失望.無明…)造り出し.果ては自らの妄想に捉えられ.拘り.雁字搦めに縛られて躁鬱.分裂病へと至るもの多し、そんな自分に気付き.目覚め.乗り越え.解き放たれる為には.妄想.雑念が入り込む隙を与えず、行為に集中し行為の一つ一つを自覚して自分(自我意識)が生ずる隙を与えない事こそが妄縄自縛から解き放たれる法なり。
自縄自縛とは無明(本質的無知)による自らの行い心掛け言葉などに自らが縛られる事を指し、妄縄自縛とはそれらが単なる思い込み.錯覚.自己暗示.誤解.妄想などに起因する五集合要素(五蘊)という精神作用により蓄積された感覚.記憶の残滓.感情.主観により形成された潜在意識に束縛されている事であり、五集合要素による分別と分断による認識であり、決して真理(真実.現実.実相)を映し出さないものである。
⚫自らを縛り付ける、自らの妄想の縄.
それは自らの妄想という格子により、自らの心を牢獄に縛り付け、自由という快楽.歓喜.平安.自由.静逸を自ら奪い去る..
目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放された世界こそ、涅槃(ニルヴァーナ)である。
⚫自分を縛り付け.自由を奪う主な妄想
①社会生活を送る為に.守らねばならないもの
社会ルール.法律.礼儀.思い遣り.…
②妄想的な自縛
承認欲求.期待.目標.理想.渇望.見栄.虚像.得体の知れない神.仏や眉唾な力.神託.御利益.加護.運命.単なる仮説.空論.形而上の観念論.感覚.感情.主観的概念...
●妄想(Vikalpa・ヴィカルパ)とは主観的なものであり分散し暴走し深まってゆくものであり、創造とは客観的なものであり、人は現実と理想とのギャップにより妄想を造り出す。
良悪.清濁.優劣.善悪.何れも一如なもので併せ持っているのが人間なのに、愚かな人はそれに気付き制御コントロールする事は怠りながらも理想的自分像を妄想し理想から外れた自分像を嫌悪し否定し目を背け打ち消そうと試み現実の自分を受け入れる事が出来ない。例えどんな理想像を演じても.そうではない現実を前にしてドゥッカ(不安定さ.不完全さ.生存苦.心痛.悩み.悔い.哀しさ.怖れ.迷い.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.不満.欲.渇き.無明)を深めてゆくだけの現実から逃避した無意味な妄想世界の住人となってゆく。
「貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好き嫌いと身の毛のよだちも自身から生ずる。
諸々の妄想も自身から生じ心を投げ打つ。
それらは愛着から起こり自身から現れる」
「自分を真に助けるものは自分だけ」であり自分を冷静に客観的に見つめ自分の良い処も悪い処も優れた処も愚かな処も併せ持つ本当の自分を受け入れる事が出来てこそ「己の愚を知るが賢者」であり、良い部分は育て.悪い部分は制御コントロールし意欲.活力の源泉(エネルギー)にして妄想に捉われる事なく在るがままの自分が.在るがままの世界で.在るがままに生きる事こそが平らかに静かに悦楽と歓びの中を幸せに生きる道なのである。

釈迦尊(ブッタ)は明確にそして適切に仰った
「もし人が一切の妄想から離れる事が出来れば、人は汎ゆる苦悩から完全に解放される」
釈迦尊(ブッダ)が到達された真理(真実.現実.事実.摂理.実相)は見がたく.理解しがたく.世の中の潮流に逆らうものであり高遠で深く微妙で難解で冷厳なこの真理(真実.現実.事実.摂理.実相)は欲情に打ち負かされ無明の闇に包まれた者達には見えず受け入れられないだろうと人々に説かれる事を躊躇われそのまま涅槃(煩悩を克服し執着を捨て去った平らかで静かな歓びの境地)に入ってしまおうと為されたのも、世の中の人々が妄想から逃れられずに絵空事や迷信や得体の知れないものに振り回され而も自分自身の本質的なドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.痛み.迷い.怖れ.悔い.哀しさ.不満.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.実質のなさ.無常.惨めさ.無明.欲)と煩悩(存在欲)に起因する自己防衛と自己保存の為の保護.安全.安心.恩恵.救済への根深い渇望から、それら絵空事や迷信や得体の知れない妄想されたものを、大切なもの無くてはならないもの離れては生きて行けないものだと錯覚している多くの人々により造られ潮流ともなっている世の中には理解出来ず受け入れられもしないだろうと考えられたからに他ならず、現に見難く理解し難く世の中の潮流に逆らい高遠で深く微妙で難解な真理(真実.事実.現実.実相.摂理)が理解出来なかった脱落僧や無明な者達や無思考な者達によって妄想的.迷信的な縄で縛られた大衆迎合的な新仏教や新興宗教やカルティズムな信仰宗教が数多く生み出されている。
●人は在りもしない縄を妄想し、自らを縛りつけ苦しみ悩み迷い悔やみ恐怖し争っている。枯葉のざわめきを魑魅魍魎と恐怖し、有りもしない敵を捏造し、根拠なく自惚れて自らを高く見せようと飾り立て、これから切り開く道が既に定められて居るように錯覚や妄想や自己暗示により自縛してゆく。
自分の言動などが自分を縛って自由に振る舞えずに苦しむことを自縄自縛というが、自ずからの妄想により自分を縛ってしまう無明(無知)を妄縄自縛(もうじょうじばく)と説く。
「もし人が、一切の妄想を離れる事が出来れば、あらゆる苦悩から完全に解放される。」
そして人を縛りつけ、人を苦しめ、人を真の平安.安楽.静逸.歓び.幸せ.満足から遠ざけ重くのし掛かるのが自我の妄想であり、自我の妄想により自己中心的に物事を見て考え行ない、自分に拘り自分に捉われ自分の都合で物事を考え欲し推し量ろうとすれば無常(常ならざる)この世界ではそうそう何時も自分の意に沿うものではなく、結果として苦しみ悩み怒り満足されず不満を愚痴りながら生きていく事になる諸悪の根源なる妄想だと言え、自我の妄想により世界平和など幻想と化し、自我の妄想により疑い怖れ争い闘い傷付け破壊し憎み恨み哀しみあいながら絶望している。自我の妄想による自分への捉われ拘り我欲から離れれば離れるほど心は解き放たれ自由となり、自我意識と言う自らを縛る縄から解き放たれた自在なる心こそ平安.安楽.静逸.歓喜.安堵.幸せ.満足を得て叡智を顕現させる入り口である。
そして到達する涅槃(ニルバーナ)とは、叡智により啓かれるのである叡智こそ涅槃への羅針盤なり。

【妄想】(Vikalpa・ヴィカルパ)
快楽への渇望による感情(行蘊・サンカーラ)により形成される主観により生じる妄想と、知性(理性)による客観的思考・想念によって形成される空想・想像とを分類しなければならない。
両者は似て非なる真逆な性質のものであり、妄想は現実化への欲望により自我意識(エゴ)を強めて妄想記憶の蓄積により人を欲深くさせてゆく。
一方、知性・理性による空想・想像は創造へと向かい、他者・社会・世界の利益(利他)を目的として為されてゆく。
多くの人は執着という縄に、雁字搦めに縛り付けられている。  所有の次元の事物(金財・地位・名誉・権力・異性・承認・理解・見解・自意識・健康・長寿・・)への執着に縛られ、在りもしない苦労を自らが妄想し、苦しみ、悩み、怖れ、怒り、迷い、心を痛めてなが自らが懸命にドゥッカを生みだし続けている事に気付く事が出来ない
金に執着する人は金で苦労し、異性に執着する人は異性で苦労し、他人や他人の目や他人の評価に執着する人は他人や他人の目や他人の評価で苦労し、自分に執着する人は自分により苦労し、地位に執着する人は地位で苦労し、権力に執着する人は権力により苦労し、自分の見解に執着する人は見解により苦労し、健康や長寿に執着する人は健康や寿命に苦労しながらも、執着という縄による自縛を解き放って(解放)自由になることが出来ない。
それは本質的な苦が「楽」という姿をとって先ず現れるからであり、負担量は除々に増してゆき何れは本質的な苦という正体を現す性質なのだが妄想的に誑かされてしまいながらも快楽的本質であると錯覚し、更に執着を深めてゆき自らを雁字搦めに縛って行くのである。愚かな人々は所有の次元の事物に雁字搦めに縛られてる事に気付く事がないばかりか所有の次元の事物を精神的支柱(拠り処)として崇め敬い陶酔し自ら苦労を積み重ねながら幸せを探し求めて止まない
「放てば手に満ちて」とは禅語では縛り付けられた価値感から解き放たれ、真の自分の価値感を見つけなさいと説かれているが、これは所有の次元の事物への執着にも言える事であり、これは大事なものだと握り締めている手を披いてみなければ真の価値感を見出す事など出来ず、命の次に大事なものだと妄想し錯覚し、自ら心を貧しくさせている現代人に必要な教訓であり、金だ財産だと執着するから貧しい心根となってゆくのであり、金だ財産だという執着の縄による自縛を乗り越え(超越)、自縛から解き放たれ(解放)、真の価値感に目覚め(覚醒)、心豊かな富貴を得る事が出来るのであり、それこそが本当の幸せなのです。そしてあらゆる執着という縄による自縛か解き放たれ自由になる事が「解脱」であり、感覚や感情や概念や見解に縛られず在るがままに今という瞬間を味わい尽くす事が涅槃(ニルバーナ)なのです。
自我意識により言わされ妄想され錯覚される「悟り」とは何かしらの気付きか世俗諦でしかなく不安定状態の一時的安定は得られるが、条件により生起しているだけのものであり、やはり条件により消滅してゆく性質(縁起)のものでしかなく、実存的な涅槃(ニルバーナ)という目覚め(覚醒)を大悟(勝義諦)ではなく、悟りという甘露な境地の所有への執着に縛られ妄想する人が陥り易い寝呆けた境地であり故に「悟りなど求めるな、悟りなどない」と言われるのです。
「もし人が、一切の妄想から離れることが出来れば、あらゆる苦(ドゥッカ)から完全に解放される」           
「あらゆる苦(ドゥッカ)は渇愛を原因とし渇愛は妄想より生じる」   
渇愛への執着が制御されたならば、煩悩(生存欲)は制御され所有欲への執着も消え去る、煩悩が制御されるなら感覚への執着が制御され感情や主観や自我は制御され、見解の汚れは浄まってゆき、雑念や妄想は制御され、心は五集合要素(五蘊)に刺激を求めず心は自ずと解放される。仏道の修養とは八正道であり、妄想に陥るな(八正道その内の四念処)から始まり一に止まり(正)、雑念に気付き妄想に陥らないよう啓発してゆく事から始まり理性(客観的理解認識能力)を育成してゆくことだと言っていいだろう。
八正道を三種の徳目に分類すれば①倫理・モラルの育成②心的規律の育成③叡智の育成であると言え.これら三種を同時に育成してゆくことが求められる。
人類の歴史は思考による無限なる想像力により創造と発展を成し遂げてきた。一方で思考は感覚・感情により主観的になり雑念に入りやすく主観による雑念が深まると妄想へと陥る。今、思考していると気付くのは理性(客観的理解・認識能力)であり理性に制御され思考・想像してゆけば創造を生み、思考が理性の制御から外れ雑念となり妄想へと陥るとき煩悩の衝動により基づいて、馬車馬の如く暴走を始め妄想は更に深まると妄想を現実と錯覚さえしてゆき、人を欲深く自分勝手にさせ中には重症化させ幻視・幻聴・幻覚を現実と錯覚し見紛う人とはある種の現実逃避であるとも言え妄想夢幻の中を生きて行き、命を心置きなく味合わうことが出来ない憐れ。     
そのメカニズムは、思考が想像や空想に入った時「今、空想を始めた。」と気付かせてくれる理性による客観的思考を失わず、思考を感覚と感情に執り込まれた主観的思考や雑念に気付き(ゴチャゴチャ考えない)、妄想へと陥らないように制御する自覚が必要であり、思考が感覚に囚われた雑念に入った時、その雑念を気に入り妄想へと深めさせてゆくものは感情(貪瞋痴-渇き)なのであり、自我が絡んだ妄想へと陥ると思考を客観的に認識し制御している理性は吹き飛んで他人や社会を破壊してでも自我の欲求を叶える自己中心的な妄想へも容易に陥るものである事を自覚して行かねばならない。更に妄想が深まると妄想を現実の如く捉え、在らぬ見解や錯覚や捏造された認識による幻想を真実の如く宣う狂気な人間を自己染脳(洗脳)により造り出し易いのが、偏った知識や情報が氾濫する現代社会である事も自覚して行かねばならない。
人間のもつ本質的な無知や弱さや怖れや渇きが、子が親に依存するように保護・安全・安心・恩恵を求めて神や仏や超越的な力への強烈な依存を欲するのであり、この根深い依存の欲求に付込むようにして、世間で言われる得体の知れない絶対神とか神や仏や預言者やそれらの生まれ変わりだと称する者達は現れるのであるが、無力な人間が本能的に宿す大宇宙(現象世界)への畏怖や無知や崇め敬い讃え感謝する精神を、妄想により捏造した得体に知れないものが取込んで、その座にちゃっかり治まっているのだと言えよう。神や仏が人間を造ったのではなく人間が神や仏を妄想したのである。予言や迷信やカルトな思想なども人の妄想が造ったのであり、空理空論や詭弁と能書きで正当化を図り、人の感情に訴えようとするが理性で思考するならば容易に判断できる筈なのだが、世人は元来が感情(貪瞋痴)が感受する刺激がお気に入りなので妄想により捏造された幻想に魅入られ易いのである神や仏そして悪魔や鬼が何処にいるのかと問うならば、それは皆の心の中に居るので在り、外界には存在し得ないのである。それを諸行無常と説かれ、この世の中の凡そ全ての事物は常ならず変化生滅の中に在り、変化生滅しないものは存在できない世界である事を言い、永遠普遍な実体である超越的な神や仏など得体の知れない眉唾なものは存在しえ得ないのだが、無知(無明)であるが故の不安定な本質による精神的支柱(拠り処)への渇望が神や仏などを妄想させ、しかも煩悩は神秘的な永遠を夢見させてくれる事物を気に入っていて中々離れようとしない、故に信仰は麻薬だとも言われるのであるが、世の中に罠を張り巡らした悪意ある者や妄想症(パラノイア)な者はプロパガンダと染脳(洗脳)により煩悩に訴えかけ善良で心の弱い人達を捕りこみ作為ある価値感を押し付け、其々の人が持っている本来の価値感を除々に殺してゆくのである。そして諸法無我とは固定的実体としての自分(我)など存在せず、それは五集合要素(五蘊)の錯覚に過ぎず、自我意識の妄想による本質的な魂・霊魂・霊体など存在していない事を内観により観察し検証し理解し確証を得なければならない。これら得体の知れない眉唾な神仏や超能力者や預言者などと、永遠的で実体的な魂・霊魂・霊体などへの根深く無知(無明)の闇に根ざした「信仰」を完全否定されたのが釈迦尊(ブッダ)であり真の仏教であり、現実主義に基づく教えなのである。    
まさに理性に優る神や仏は居らず、悪感情(不善処)に勝る悪魔は居おらず、叡智により育まれた情緒に優る如来は居らず、自我に勝る鬼など居らず、よく調えられた、その身こそが仏なのである。
『妄想とは、煩悩(存在欲)から生じる感情(貪瞋痴)による感覚から生じ、雑念から妄想へと陥り、妄想により自我は形成され、自我により妄想は深まってゆく、故に「雑念に気付き妄想へと陥らせない」⇒「自我に気付き妄想へと陥らせない」⇒「妄想の制御に依り感覚を制御せしめ」⇒「感覚の制御によりて感情(貪瞋痴)を制御せしめ」⇒「感情(貪瞋痴)の制御により煩悩(存在欲)を制御せしめ」⇒制御され調った煩悩(存在欲)は安定化を得て執着や渇愛から解き放たれ真の生きる意味をも悟る。故に「雑念を制御できずして集中するは能わず」⇒「自我を制御できずして、妄想を制御するは能わず」⇒「妄想を制御できずして、感覚や感情(貪瞋痴)を制御するは能わず」⇒「感覚を制御できずして、感情(貪瞋痴)を制御するは能わず」⇒「感情(貪瞋痴)を制御できずして、煩悩(存在欲)を制御するは能わず」⇒煩悩(存在欲)を制御できずして、生死の軛から解き放たれ解脱し梵住するは能わず。 これ以外に涅槃に至る道はなし、もしこれ以外に涅槃へ至る道があると宣う者皆、邪見なる者である。正観すれば厭離の心を生じ、悟りは自ずと啓かれる。これ全ての悩みや苦しみから真に解き放たれる唯一の道なり。  
雑念に気付き制御する事が出来なければ妄想へと陥り、妄想は暴走してゆき暴れ馬の如く振る舞い、感情に主導され自己中心的な自我による妄想へと深まって妄想を現実の如く錯覚させもする。妄想が更に深まると幻視・幻聴・幻覚さえも現れる事さえあり、妄想とは人を欲深くさせ本覚思想やカルト思想や神秘的で非現実的な物事に魅入られるのは欲深くなった感情(貪瞋痴)による妄想が理性を凌ぐからである」雑念の中に閃き在り、しかし殆どの雑念は妄想へと陥らせる。   雑念を雑念だと確かに気付き、妄想を妄想だと確かに気付くならば、雑念や妄想とは呼ばず想像なのである。     
妄想により人生を誤る者多く、妄想により心を病む者多く、妄想により現実より逃避する者多く、妄想により貪瞋痴を深め苦悩の中を流れる者多し。     
妄想に陥らない法、それは自ら今という瞬間々々に気付く事だけであるが、人は煩悩に急かされゴチャゴチャとアレコレと雑念してしまい踏み止まる事だ出来ずに妄想へと陥ってゆく。       
普通の人達の認識している世界とは、五官(眼耳鼻舌身)から入ってくる情報「意」で捏造して受け取り妄想して、妄想により達した結論や主観を真理であり事実であると錯誤してしまい偏ったり誤まったり歪んでしまった見解を積み上げてゆく。
ストレスの多い現代社会に於いて増えてしまったのが躁鬱症やそれを重症化させた精神分裂症などの心の病であるが、現代医療では根治を放棄して対処療法に終始して、その指導する内容は症状を和らげる事を目的としていて、根治させる方向性からは却って症状を固定化させたり重症化させてしまう治療を行ってしまっている事は、そのような症状をお持ちの方たちが真正な仏教を学ばれると次第に症状を軽減させ根治させてゆく事からも明らかな事であり、今の状態を主観を交えず客観的に眺め観察し理解し納得し心のシステムや秘密を識ることが必要なのだと思っている。