信じる者は騙される

  自分を高め世界を変える真正な仏教
 覚醒目覚め超越乗リ越え解放解き放て

肝心なことは信じることではなく、物事を明確に見て識り理解することである。信じるとは本当には物事が見えていない場合に生じるものであり、真実が明確に見えた瞬間には消え去る性質のものである。
得るも騙されるも自己責任の原則の上に生きているのであり、社会には汎ゆる罠が張り巡らされている事を忘れてはならない。
甘言や美辞麗句で誘導されたり.欲望に漬け込まれ騙されたり、権威や舞台に惑わされ洗脳(染脳)される人とは.本当には物事が見えていない事に気付かずに無明(無知)な闇の中を手探りで感覚的に生きているのです。
真実を拠り処として生きる事は、物事が見え.物事を知り.物事が理解できる人にとってのみ可能なことであり、物事の真実が見えない人には不可能でもあり、疑いや戸惑いや.ためらいがある限り.人は先へは進めないにも拘らず何かしらの結論を出そうとする時、信じるか信じないかという丁半博打を打ち大概は世の中に張り巡らされた罠に絡め取られるのである。
疑心暗鬼になってはいけないが、疑いや戸惑いや躊躇い惑いを晴らして.物事の真実が明確に見えない限り疑問が残るのは当然であり、物事の真実を明晰に見るためには信じる事ではなく、疑問をはらしてゆく事が必要であり、疑問を晴らしてゆく為には、物事を明晰に見ることが必要なのである。
だから物事を鵜呑みにしたり.無闇に信じる者は、騙されるのである。
仏教とは信じるとか信心とかとは、本来は無関係であり、仏教でいう信じるとは信頼.確信.明確.真理(真実.事実.現実.実相)に則った信仰なのである。
●悪 夢
人は誰でも間違いであって欲しいと願う怖ろしい悪い夢を見た後.微睡みで夢であって欲しいと願い目覚めて夢で良かったと安堵したり、現実であって欲しいと願うようなそれこそ夢のような夢を見た後.微睡みで現実であって欲しいと願い.目覚めて夢でガッカリした経験があるだろう。
来世とはそのような物であり、因果律(縁起)に遵って消滅の瞬間が次の生起を条件付けながら普段思考しながら生きている、記憶とは如霧如夢なものでもあり事実なのか植え付けられた記憶なのかさえ定かではないもので朝.目覚め出掛けた現実だと認識している世界さえ未だ夢の中かも知れず唯直前の認識記憶を条件として次の思考を生じさせ続けているだけで因果律(縁起)に遵って死という肉体と記憶の断滅を条件として次の目覚め(生起)が現実化された悪夢なのか、現実化された夢のような境遇に居るかなのである。

●記憶喪失
もし仮に、記憶を喪失した貴方は最早、貴方自身ではないと考えるならば、貴方に来世と呼べるものはないだろう
それは表の思考こそが自分だと錯覚して生きている人であり、「我れ思う故に我れ在り」と染脳されて生きている人であり、それは表の思考が改まれば下らない物事.詰まらない物事.どうでも良い物事に捉われる事もないだろうと勘違いしながら煩悩(存在欲)の衝動に翻弄され、潜在意識に操られ下らない物事.つまらない物事.どうでも良い物事に捉われ拘り執着しながらドゥッカを深めてゆく人に他ならない。
 もし仮に記憶を喪失した貴方であっても、貴方自身に違いないと考えるならば貴方に来世はあるだろう、来世とはその様なものであり、今でも毎時.最後の思考瞬間が、次の思考を条件付けながら生起している
全ては現象であり身体も感覚も感情も主観(意識)も条件(縁起ー情報.刺激)に従って現象を結んでいるだけであり、物質的要素と感受機能・感覚・記憶.認知.識別機能・感情.意図(チェータナー)反応要素(サムサーラ)・意識の何れも単独では機能せず互いに依拠して現象として現れているだけに過ぎず、サムサーラ(業カルマという生命エネルギーの性質)が因果律に遵って新たな結び目(集合要素)を形成してもサムサーラ(業カルマ)によって生じさせる現象としての意識こそが赤子にも其々に性質が違うように.喩え脳に障害を持って居ても両手両足を失おうとその人なりの意識を結ぶように正しく自分の意識に他ならないのである。
諸法は無我であり魂.霊魂.霊体などという主宰的.実体的.実相的な存在など無くとも因縁(因果律)に遵った業(カルマ)という性質を帯びた生命は流動てゆくのである。
●サンニャ.サンカーラ(潜在意識の残存印象)
つまりは全ての記憶.パターン.エゴなどはドゥッカ(苦.痛)を生じさせる芽であり、それらが無常であり不要なものであり縛られる必要のないものであると明確に理解するならばドゥッカ(苦.痛)から遠ざかり離れる事が出来る。
物事を在るがままに受け入れ、在るがままの全体に溶け込む時、最早そこには継続の芽が生じる事がない。此れこそが人が純化され渡り難く越え難い死の領域(生死界)を乗り越え彼岸へと至る道である
●自分とは五つの要素の集まり(五蘊)により形成された自分という意識を生じさせているだけであり何処にも固定的.実体的.実相的.主宰的な自分(魂)など存在しない事が理解出来ずに自我意識を深めてゆく。
色蘊 物質的要素 肉体.空間.熱.水.感覚器官(眼.耳.鼻.舌.身.意)
受蘊 感受する感覚(色形.声.香.味.触.法)
想蘊 記憶.識別機能
行蘊 意志.衝動.感情
識蘊 意識.概念.主観
●識蘊で生じた意識(主観.概念)を表層の思考域で客観性.知性.知識.情報.欲.自我などを踏まえてゴチャゴチャと思考しているのであり、その積み重ねが潜在意識に影響を与えてゆく。
●死によって五つの要素の結び目(結合)が解かれる時、肉体(色蘊)は骸となり朽ち果て、受蘊(感受)する機能は失い、記憶.識別機能(想蘊)は消え、意志.衝動.感情(行蘊)という性質を帯びた生命エネルギーは次の何かと再び要素結合(結び目)し次の意識.主観(識蘊)を形成して行く。
人は今という瞬間に集中し留まる事が苦手で
先へ先へと次の瞬間へ向かって何かしら求め続けずには居られない。
つまりはそんな衝動に突き動かされ今という瞬間に顕貴(ときめき)奥深く味わう事が出来ない
そんな人達はいつもゴチャゴチャと、どうでもいい物事.詰まらない物事.下らない物事に何気なく捉われ妄想したりしていながらも、難解で煩雑だと心象する物事は避けようとする。それが例え.一見どうでもいい物事であったとしてもよく眺め.分析し.思惟し.吟味し.検証し.現れていない真理(真実)を理解すれば自ずと智慧は顕現するもの。
今という瞬間々々を真理(真実.現実)に基づいて真に味わい深く顕貴(ときめき)かせる為には意志と信念が必要であり、自らが前向きに克己し啓発し努力し智慧により目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され.観自在な心で叡智を顕現させて行かなけれはならない。

信じる者は騙される
無思考に、権威に騙され.世評に騙され.伝統に騙され.欲望に騙され.風説に騙され.肩書に騙され.人は真理(真実)を見ようとはしない。
社会をつらつら眺むれば今まさに真の仏教思想を説く事の重要性を痛感せずには居られない。
釈迦尊(ブッダ)の教えを紐解けば、先ず世の中には汎ゆる欲望の罠が張り巡らされている事を認識し欲望に駆られて疑う事を忘れ無闇に受け入れたり鵜呑みにして信じる者は凡そ罠に絡め取られ騙されるものであり、いっけん整えられ化装されてはいても世の本質は弱肉強食に変わりないない事を忘れてはならないのである。
仏教とは物事を鵜呑みにしてはならないと説く教えだと言え、例え仏典であっても釈迦尊(ブッダ)が説かれた教えであろうと、権威あるものでも.皆が揃って正しいと評価している物事であってもそのまま鵜呑みにして信じ込む妄信を戒め、自ら冷徹によく眺め.分析し.思考し.検証し.確証を得て信じる正信により真理(真実.現実.事実.実相)へと向かうのである悪者共の味方をする理由ではないが、騙されるのは騙される方も悪いという論理にも一理あり、巧言令色鮮し仁と言われるように元来、性善説を唱える人や国ほど相手の隙に付け込む帰来があり、それは相手の油断を誘う手口なのではないかとさえ思われる節がある。
もし人が賢明であって騙される者が居なければ悪人共は自然淘汰され駆逐されてゆくものなのだが、現実は見事に人を騙し味を占めた悪者共に更なる悪事へと向かわせる力と欲望を提供してしまい悪人共を増殖させ蔓延らせてしまってゆく自己責任は否めない。
かと言って疑心暗鬼になって物事を疑うばかりなのも不毛な事であり折角の進歩やチャンスを取り逃がす事にも成りかねない。
主観的な欲望や嗜好で物事や知識.情報を鵜呑みにし受け入れ信じる者が騙されるのは当然な帰結であり、悪人共は人々の欲望.嗜好に沿って汎ゆる罠を仕掛けていて欲望や嗜好に魅入られ執着する者達は例へ荒唐無稽な事柄であっても否、それが荒唐無稽で在れば在る程に興味を唆らせ染脳を阻む理性(客観的思考)を自ら脱落させてしまうからに他ならない。
戦後日本を奇跡の復活と言わしめた発展や発達は自由で豊富な創造性や柔軟性や培われた利他の精神により達成され、又、今のイノベーションを喪失した日本を造り出したものが硬直した盲目的な「当たり前」[常識」思想であり、浅薄な常識や正義という言葉に対する無思考な錯覚であり、情報3行(マスコミ.TV.ラジオ.新聞.出版.コマーシャル.インターネット)が垂れ流す作為があり.偏ったり誤った情報や惹句に騙され染脳され、権威や伝統に阿った作為があり.偏ったり誤った見解や情報や惹句を鵜呑みにして真実(事実)だと思い込み、固定観念.既成概念.先入観.錯覚.捏造.幻惑を造り出し、自ら深く眺め.観察し.調べ.分析し.思惟し.検証し.確証を得て信じる事を怠り、何も真実(事実)を知らないにも関わらず感覚的に理解したつもりになっている人々を増殖させ、日本人の精神を劣化させ、凡骨化(ポンコツ化)させた一部勢力による遠謀な作為さえ疑わずには居られず、欲深い人が増え.自分勝手な人が増え.クレイマーが増え.不満だらけの人が増え.NIMBY(not is  My back.yard)な人が増えて来たのも、社会に溢れ返る作為あるものや偏ったり間違ったりした情報や知識を無思考に鵜呑みにして信じ込んだ無明な愚か者を増やし、ひいては日本人を劣化させ、劣化した親により更に劣化した子孫を生み出してゆくのではなかろうか。
自然と四季に恵まれた島国日本に暮らす民ゆえの島国根性とも言うべき長所でもあり短所でもある特性を自覚すべきであり、
★ほぼ単一民族的でもあり協調性に優れる反面、多様性を受け入れる度量.
土壌がない。
旧来の村八分被差別部落問題を始め、近年の子供達による外国籍の同級生へのいじめや虐待など社会不満により劣化した親や劣化した教育者により更に劣化を深めた子供達を造り出している。
★配慮.緻密さ.正確さ.責任感に優れる反面、視野が狭く閉鎖的な社会が築かれ、失敗に対しても責任論に終始し失敗の原因の追及.分析.改良を優先し次の糧へと昇華させない繋げらず、結果として失敗を隠したり責任を押し付けたり責任から逃げたりする(過ちを改めるに憚る事なし)
★農耕民的自然観により情感が深い反面、情に流されやすい(簡単に言うと脇が甘く騙されやすい)
★探求心や緻密さに優れる反面、井の中の蛙となり尊大となり驕り高ぶり自浄作用が働きずらい(驕れる平家は久しからず)
〇これは日本仏教界にも言える事であり、伝統と権威に阿り偶像礼拝を民衆に容赦なく強要し自らは戒律を蔑ろにし自己の繁栄に忙しく民衆の救済を怠り自らその存在意義を否定した事を原因とする明治政府の廃仏毀釈政策の下で衰退の途にあった日本仏教界に対し、世界神智学協会は仏教再興運動の一環として明治政府に働きかけたり日本仏教界の近代化や復興の為に多くの講演.啓蒙運動を行い衰退した日本仏教の復興に尽力された折り、その堕落した戒律を指摘されても全く自浄作用や改革は現れず緩んだ箍は締らず、修行する存在が僧侶であるにも関わらず本山で1~2年の基礎修養を施された以後は読経や葬儀に勤め修養を怠る僧とは呼べぬ者ばかりとなり能書き.戯れ言.美辞麗句(プラパンチャ)を無思考に語る存在と成り下がったまま今日を迎えている次第である。外力である黒船や進駐軍による改革はあっても自ら改まる事が出来ず「いざという時は神風が吹く」と潜在的には妄想し続けているのも島国根性の内と言えるのではあるまいか。
😁ミロバランの実の喩え
真の仏教には得体の知れない神仏への信仰や信心などには関知しない。
信仰とか信心とか信じるとは物事が見えていない場合に生じるものであり、本当は見えて居ないにも関わらず欲心から見えていると錯覚.妄想.,思い込む無明な行為であり、物事が見えた瞬間には信仰.信心.信じるとは消え去る性質のものである。仮に「私は握り締めた手掌の中に宝玉を隠し持っている」と言ったら貴方には見えない以上、私の主張が本当か嘘か、信じるか信じないかという問題が生じ、もし私が手掌を開き宝玉を見せれば貴方は宝石を現認する事となり信じると信じないという問題は存在しない。神がいる.仏がいる.そのご利益があるから疑わずに信じなさいと主張する事も同様であり、その真偽は手掌を開いた瞬間には消え去る故に、握り締めて在る.居る.信じろと主張する決して開く事が出来ない手掌なのである。
「掌の中の訶梨勒(ミロバラン)の果実を見るように、真実を見よ」
😀釈迦尊(ブッダ)は方便を廃した
大乗にも通じるバラモン教や信仰と言うものは人を諭し救う方便だと宣い、得体の知れない神仏や力に救いを求める道を強制しようとするが、釈迦尊(ブッダ)はそれら方便に依存して心を慰めようとする不毛で愚かで無明で不安定な依り処(精神的支柱)への依存を否定され、堅固で安定的な真理(真実.現実.事実.実相)と言う依り処(精神的支柱)への依存を説かれた唯一無二の偉大なる方なのである。
若者の宝は柔軟な発想と自由な創造力と失敗を怖れぬ挑戦心(チャレンジ精神)であり、社会改革や発展(イノベーション)はそんな柔軟な発想と自由な創造力を持つ若者達により成し遂げられるのであり、老害とも言える自分の地位と権力に捉われ頑迷と我執という枷や軛に縛られた年配者が主導し「失敗は発明の母」であるにも関わらず失敗を許さず、柔軟な発想や自由な創造力やチャレン精神を踏み躙り、服面追従するイエスマンを重用し新しい発想を枯らし駆逐し発展と改革を阻害した剛直した社会を出現させる。
そんな社会に張り巡らされた罠
[ 無 明 ]
先入観.思い込み.見当違い.固定観念.既成概念.誤解.錯覚.常識.当たり前.偏り誤った情報や知識.社会通念.権威.世評.価値観.迷信.学説.風評.世評.染脳.頑迷.無思考.捏造.作為.誘導.無明.頑迷.色眼鏡
「色のついた色眼鏡.レンズの歪んだいびつな眼鏡を取り外し、在るがまま成るがまま現実世界を見通す力こそ、如来の教えであり,苦(ドゥッカ)からの解放である。」