信仰と宗教

世界には宗教に分類される幾多の信仰が存在しますが、その中にあって唯一無二の得体の知れない神仏や精霊およびその使徒などから啓示を受けた存在であると主張しなかったマトモな人間が釈迦尊(ブッダ)なのです…
故に仏教の中に信仰を探すならば人間ブッダと万物への思慕と畏れと感謝.尊敬.崇拝という信仰が見い出せるのである。
本来、宗教とは人々を正しい生き方(死生観)へと導くものであり、信仰とは無明な人の心を慰めこそすれ.現実から目を背けさせ.その盲目性を深めさせたり.惑わせたりする実逃避的なものであり、宗ねとなる教え(宗教)とは.現実を直視し
真実を見い出す事が求めらめられ、その為にその見識の色眼鏡やくもりを拭い.思い込み.固定観念.勘違い.錯覚.洗脳(染脳).自己暗示.偏ったり間違った知識や情報.主観などから解放される必要があるのです…
社会では[宗教]と[信仰]とが区別されず同じ次元のものと受け止められていて.仏教も神道も耶蘇教もイスラム教も新興宗教やカルト教でさえもが同じ宗教(信仰・信心)として括られ、中でも信仰宗教とも言われる新興宗教などは染脳(洗脳)とプロパガンダにより.超越的な存在や力からのご利益や加護や救いを無責任に謳い善良な民衆を誑かすものに他ならず.決して宗(むね)となる教えとは言い難いものなのです。(折角の有難い人の身を.無駄に酔生夢死しても構わないのでしたら別ですが…)
大概の宗教(信仰)には[宗教の部分]と[信仰の部分]とが混在していて、宗教としての仏教においては信仰対象とは得体の知れない神仏や霊魂とか怪しげな力や.それらに選ばれた者とか生まれ変わりだとパラノイアな倒錯した主張によるのではなく、自分を生じさせ.育んでくれた両親や恩や人格を育んでくれた恩師や恩人や家族や友人とか万物を崇拝対象(六方崇拝)とするのであり、決して信仰などではなく現実的な物事に対する崇拝と感謝と死生観を宗(むね)とした教えであり、仏教では①倫理・道理・徳目の育成②心的規律の育成③叡智の育成の三項目を八正道により啓発してゆく事を目的としていて、自らを救い高めるものは自らの行いと言葉と心であり、外的な神や仏や怪しげな力などを頼りとせず、それらの価値観に翻弄されてはならないと説くのである。
まず宗教と信仰とを混同せず整理して考える必要があり、本来は宗教とはセクトとしての宗派を言うのではなく「宗(むね)となる教え」を宗教というのであり、人が人として生きる為に主として持つべき第一義的な宗(むね)を教えるものであり、それは道理、徳目、倫理であり、精神的・知的完成に向かい、人の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)の向上をはかるもので無くてはならず究極の実存、完全な自由、真の幸せ、平和への道へと至る道を説くもので在らねばならない。
得体の知れない神とか仏とか、妄想に侵された預言者が神掛ったと主張し宣う偏った観念を信仰する事で救われると説くものは、生命が求めても決して得られない儚い幻想でしかない「不死(イモ―タリティ)」に他ならない。得体のしれない神や仏が無責任に約束する「不死」「永遠の命」という存在欲を刺激する耳障りのよい文言により人の理性を惑わし、死から逃れるという儚い幻想に陶酔させるからである。
人は誰でも本質的には「愚かで未熟で虚しく、つまらない物事に彷徨されたり、どうでも良い物事に拘ったり、下らない物事に捉われたりしている存在」でしかなく、そんな無知、弱さ、恐怖、愚かさ、欲望などを精神投射させたものが信仰であり、信仰への盲目的な信心により安定を得ようとする妄想にであり、確信的な信頼は成立せず、確信的な信頼とは真理によって得られる性質のものであり、故に存在の次元に於いて信仰は成立し得ないのである。信仰とか信心というものは「握られた掌の中には宝石が入ってますよ。それを決して疑ってはいけません、信じなさい。」と言っている事に他ならず、掌を開いた瞬間に信仰・信心という信じるというものは存在しえないのである。
天空の彼方に神や仏を幻想したのは愚かな人間の妄想であり、決して神や仏という存在が宇宙を造り人間を造ったのではなく、人間たちが神や仏と言った得体の知れない妄想されたものを生み出したのである。そんな妄想されたものとそれを作為する者達が編み出した価値観に振り回されるのではなく、天地自然の摂理(物理方則)により造られた人間こそが至高な存在である事に気付き自らを高めてゆく為に必須な宗教(宗となる教え・道理・徳目・倫理・礼儀・真理)を失う事なく、妄想された信仰に惑わされる事な神秘的幻覚に陥ることなく、此の世界も生物も物理法則(天地自然の法則(摂理)と因果法則)により存在している事実を受け入れなければならないのである。しかし今の世のように得体の知れない神や仏や預言者や霊能者だと主張する者への信仰や信心の喪失とともに、宗教という人を理性的に向上させてゆくのに必須である宗となる教えさえも喪失させている事を嘆かずには居られないのである。
信仰は迷信的な時代において征服民を服従させる為に権力者が君臨する正当性を神さん等に付託して利用せんが為に編み出した得体の知れない神仏の残滓でしかなく植え付けられた選民思想からも目覚めなければならない。
人は森羅万象と天地宇宙の法則により生かされているのであり、それら存在を具現化する必要もないのに欲してしまう人間の愚かな妄想により得体のしれない絶対神や極楽浄土の創造仏などを造りだし、しかもそれら神仏は感情により人を選別し自他に拘るという質(クオリティ)が低いものと言わざるを得ない物に対する信仰を布くものであり、真に崇め祀り畏れ感謝すべきは森羅万象と天地宇宙の法則に対してなのではなかろうか。   これら社会に蔓延するものは宗教ではなく信仰なのである。
古来、日本でも征服者である大和朝廷の正当性を神道古事記日本書紀などに付託して民衆を支配したが、迷信的な時代に於いて天変地異や疫病や変死などを怨霊の祟りや神仏の怒りだとか理解できない外的な力や作用により齎されると考え、それらを鎮めて調伏してくれる依り高度な霊力を秘めた信仰の対象として大乗仏教を輸入したのであるが、大乗仏教では神さんや仏さんが登場するが本質的には人間の心の在り方を説いているものであり仏教及び大乗仏教も「宗(むね)となる教え」なのであるが、権力者にとっては人としての在り方についての教えより依り高い霊力を具えた仏さんを求め、色々なご利益を謳う仏さんが崇められ寵愛され信仰され、「宗(むね)となる教え」はどちらかと言うと民衆の中へ溶け込んでいったのである。それにより欲深い権力者と穏やかな民衆社会が築かれた。
そして「宗教」という言葉が大きく誤解された原因が、日本へと入って来たキリスト教(耶蘇教)とは(religion)祈りの信仰であり、信じる(bilieve)つまり嘘(lie)と疑う心を払拭(veする(be)という信じる信仰であり[宗(むね)となる教え]とは異質なものではありますが、誰かは知らないが浅薄な者が(religion)を[信仰]と訳さずに[宗教」]と訳してしまった間違いから始まっているのですから…
神さんがどうしたこうしたとか仏さんはああだこうだとか有りもしない霊魂からの宣託を語るものは宗教ではなく.信仰(信心)なのです…
しかし信仰の中にも善や慈愛が説かれるものは、道徳(道理・徳目)や倫理(人倫)を説く[宗(むね)となる教え]として国教として用いている国も多数ありますが、惜しむらくは神や仏の恩恵やご利益ばかりが強調され.為政者や権力志向者の民衆支配や掌握の為の小道具として悪用されている感は否めないのです…
よってキリスト教学を宗教学と訳すのは明らかに誤訳なのであり信仰学と訳すべきなのです…
釈迦尊(ブッダ)が説かれた真正な仏教とは「宗教(むねとなる教え)」であり、心の使い方(心理学)であり、人としての在り方としての道徳(道理・徳目)や倫理(人倫)を説いているのである。
この宗教と信仰が混同され、更には信仰とは人知を超えた存在に対して崇め、畏れ(おそれ)、敬い、感謝するものであり、因みに八百萬の神も天地自然や森羅万象への崇め、畏れ、敬い、感謝の心から形造られたのであり、絶対神などという妄想に於いてしか認知できない神などに誑かされず、天地自然や森羅万物に宿る神と、法則や道理という仏に帰依し、心に宿る神と神の啓示である理性(客観的理解能力・判断能力)を受けとれる人間こそが真理を顕現させ、真の幸せにも気付く事ができるのではないでしょうか。
しかし宗教と信仰が混同された社会では天地自然や森羅万象の中に神性を見出し、人知を超える現象に対して崇め、畏れ、敬い、感謝する当然なる道理などは軽視され、お空の上に居わします?神さんや仏さんに願い、頼り、縋り、求め、依存して事足りる世界を妄想させている。
「間違った(濁った)水に映す姿は、正しくは映さない。
間違った(濁った)教えに映す姿は、正しくは映さない。
間違った(濁った)社会に映す姿は、正しくは映さない。
間違った(濁った)自分の心、間違った(濁った)教え、間違った(濁った)社会において、清き水(真正な仏教)に映す姿は、正しく映し出される」
そして宗教と信仰とは混同され同一視され、進歩した科学と発達文明社会でもある現代社会に於いては、少数の妄迷で迷信的な人々と多数の神様仏様や預言者とか霊感などという得体の知れない怪しいものの呪縛から解放され信仰というものに興味を失い、神仏への信仰を顧みなくなったのであるが、同時に宗教(宗教感)さえも蔑ろにし、宗(むね)となる教え宗教(宗教感)を喪失した者は、糸の切れた凧の如く不安定な心と生き方により
「所有の次元」しか見えず「所有の魔力」に魅入られ、人を欲深くさせてゆき空虚な「所有の魔力」に魅了され「存在」という本質を見失ってゆく。
その結果としての現代社会に於ける偏った見解(主観)や、自利的な自我への執着により差別や貧困を生み出し、他人を思い遣る心の余裕を失った渇いた心による無情な価値判断により多くの不平不満を蓄積させ争いや慚愧に堪えない人間を生み出す社会は多くの苦悩を生み出すのです。
.宗教とは  
心が満たされて安定している人には神や仏など必要とはせず、心の不安定な不満や苦悩の中に在る人は神や仏に縋ったり頼ったりして心を安定化させようともがくものだが、社会でいわれるような神仏など居ないし神仏が人間を造ったのではなく、人間の妄想が神仏を造ったのであり、本来、宗教とはその様な類の存在ではなく人知を超えた超越的な何か「存在の根源」に対し、畏れて尊崇し讃え敬い感謝するものであり、功徳や果報や恩恵やご利益や愛などを求め、願い、縋り、欲し、叶えられ与えられなければ信じないという程度のものではない。
人は誰でも用心していても人の力では避けられない災厄などに出会う事もある「良い事もあれば悪い事もある」のが人生なのであるが自我に捉われていると物事に一喜一憂し自分の思い通りにならない事に苦悩し、自我の自分勝手な判断により存在しない苦悩を造りだしたりする。心の安息のために御加護や御守護を願う事と、自分自身の「生存の素因」である煩悩(存在欲)で造り出した諸問題や苦悩や不満などを神や仏に願うのはお門違いなのであり、自我による自己中心的で身勝手による貪瞋痴の感情を客観的な理性で気付き、見張りを怠らず戒めてゆくだけであり、大概が自我による色眼鏡でみた判断か周りを自分に合わせようとしている了見違いいであり、自分自身が変わりさえすれば殆ど解決する問題なのである。
人間の本質を見定めてゆくと、「不安定で、空しく、苦と不満を活力にして生きている存在であり、未熟で愚かで、どうでも良いような問題に捉われ妄想し苦悩を深め、つまらない物事に拘り妄想し自分自身を自縛させている、下らない存在でしかない。生きる意義だとか生きる意味だとか能書きと見解に執着しそして存在に執着する暇があったら、現象としての今を楽しみ、味わい観じてほしい。
◆社会に蔓延する宗教とは信仰なのであって宗教ではなく、「染脳(洗脳)」マインドコントロールであり、妄想を植えつけるものである。
〇繰り返し同じ事を聞かされていると、人間の脳は自分で考えずに、決められたパターンで思考するようになる。
〇おかしな迷信とか観念を、しつこく言われていると多くの人は、染脳(洗脳)されてしまう。(恰も天上に神様や仏様が座して我々を見ていらっしゃるが如く)
★そんな考えを捨てて、現実を客観的に見なければ、大切な時間と金を浪費するだけ。
〇神の愛で生かされているだとか教祖の超能力に救われている言々は、安直な単なる自我肯定の感情が末期症状になっている。(妄想を膨らませてゆく。これをカルトというのである。)
 巨大な妄想であり、事実に基づかない、妄想に基づく自信なのである。天の愛や導きによって生かされているのでも、教祖の超能力などにより救われているのではなく、眼前の具体的な環境により生かされ、自分の実際の努力により救われているのである。
〇神や仏や預言者などを持ち出すと、責任逃れで無責任な生き方となる。
問題は神や仏や呪詛によってもたらされるのではなく、自分の造った因縁が生起し結果として現われただけである(因果律)。責任は神や仏や超能力者などという滑稽な存在にあるのではなく自分自身に有る事を自覚して行かなければ、社会での信用を失って行く。
★染脳(洗脳)を解くのは「毒をもって毒を制す」が如く、間違った観念を正しい実践的な教えにより真理を体得する。(真正なる仏教)
〇しかし無明な人々は迷信が恐くて、迷信を捨てられない。
   (真正なる仏教の超越体験は神秘体験ではない。)
★仏教とは、他のものに「守ってください。」ではなく、自分自信で「自分を守ってゆく。」ものなのである。
世の中で宗教と呼ばれる類のものは本当は必要ないものであり、何かに縋ろう頼ろうとする依存心なのです。まして人としての倫理や道徳(道理・徳目)を説かず「神や仏が助けてくれる」「呪文や念仏、読経、聖なる書なるもので救われ浄められる」などと説き、背く者には「罰があたる」「悪いことが起こる」「不幸になる」などと脅し込む慈愛も利他心もない、人間の感情を刺激し感情に漬け込み何かを搾取せんとするものに他なりません。
まさに「信じるものは騙され誑かされる」のです。
釈迦尊は仰っています「愚か者は幸福を祈りながらいつも運を取り逃がす
愚か者は運命を星に託したり、神や仏に縋ったりするが星が何か叶えてくれた事があっただろうか神や仏が煩悩から生ずる願いを救ってくれた験しなどないのだから、幸福をもたらすのは正しい意識と生活と努力だけ、占いや暦注や迷信などに時間を浪費してもならない。人生は短いのだからその暇に全力を傾けよ」
他力に頼ろうとする事は愚行であり貪欲な業でもあるのです。神仏頼みは気休め程度に占いや暦注は参考程度に留めて決して絡め捕られてはなりません。貴方の今の姿は貴方自身の身口意(言葉と心と行い)による結果
(自業自得・因縁起果報)に他ならないのです。
神仏(超越した大宇宙を創造した原因・天地自然)に対し畏れ敬い感謝し、
豊かな心を持ち、恵まれていて自らを制することが出来る人は、感謝と慈悲を施してゆけばこの世で安らぎ、安楽な彼岸へ旅立ち来世はもっと良い処へ生まれることも出来るのです。
人は皆、「幸せになりたい」「喜びに満ちた生活を送りたい」という願望を持っているのです。当然な願いでありそう在るべきなのです。
しかし社会にはそんな人の願望に付け込こもうとあらゆる罠(洗脳・詐欺・搾取)を張り巡らせ、信じさせ騙し誑かし言い包めようと待ち構えているのです。
人は不善処(貪瞋痴)な心に塗れ自我により自利ばかりを追求していると、必ず不満・嫌悪・嫉妬・羨望・失望・妥協・挫折などに行き当たります。人は快楽に魅了され快楽を求め続けます。それが快楽という姿で現れた「苦」であることに気付かず、やがては苦という本質に戻ってしまうもので心の不満や渇きや不安定な衝動を一時の快楽に浸り陶酔できる魔力の罠に抗えず「所有の次元」を彷徨い探し求め続け流れているのです。
そんな一時的には快楽を生じさせるがやがては本質である苦へと戻ってしまう苦を前提条件とした快楽を仏教では「小楽」といいます。
仏教では時間が経とうが色あせない快楽(安楽)を「大楽」といいます。
釈迦尊の教えはこの「小楽」と「大楽」とを見定める智慧を開発し、「大楽」を得て平安で至上な境地へ至る道を指し示しているのです。
2.思 考  
人は思考する ⇒しかし人生は思い通りにはならない⇒不満  ※このように不満が積もってゆく生き方
希望・願望も思考である ⇒ 思い通りにはならない  ⇒ 不満 ⇒ 苦 
3.人生を創造するメカニズム  
〇思考が人生を構築する。 (人の幸不幸は、思考しだいである。)
〇神仏とか外から指導している力などない。(得体の知れない力は存在しない。)
〇希望とは反対の結果になる事だけは、日常茶飯事である。  ※思考(希望・願望でいっぱいである)
〇思考とは、言葉で考える事だけではない。 (言葉がなくても全ての生命には「概念」がある。)
★概念の回転も思考である。⇒(無思考)  
〇感情(煩悩)の回転も思考である。(怒り、可愛いなど感情は自動的に出てくる)⇒心が勝手に思考して人生をつくっている。
★無意識の思考  ⇒ これが人生をつくっている。
◆心の構造 
   ①表 層 ・自分が気付いている思考と感情 (表面思考)
   ②二 層 ・無意識の思考・感情の層  (背面思考) 末那識
   ③三 層 ・持って生まれて来ている基層(潜在煩悩) 阿頼耶識
                                              (真我・三要素・宿業)
4.思考の働き方   
〇思考は、欲・怒り・落ち込み・傲慢など貪瞋痴で思考している。(感情を伴っている)
表層  ・知識、教育、経験などで思考している。 (感情を伴っている)
二層  ・表面の思考は、背面の感情に影響を与える。    (無意識)
三層  ・背面(無意識)の感情の変化が基礎感情にも影響を与える。
★基層、背面の感情が表面の感情を刺激する。⇒それに反応して表面の感情が、思考・妄想をつくりだす。
〇無意識の感情が波打つと表面に影響を与える。
〇表面に新たに表れる感情が背面と基礎層に影響を与える。  
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〇突然に基礎感情が潜在状態から目覚める。⇒ 背面に影響を与える ⇒ 表面に影響を与える  ※(一般人には理解出来ない)
◆潜在層の潜在煩悩が波打つと、必ず表面の思考・感情に影響を与える。  (潜在煩悩の目覚めは地震震源のようなもの)
5.人格を変える思考            ※戒めが必要である。
表層  貪瞋痴で思考するが、それにより感情は刺激を受ける
二層  それによって無意識レベルの働きも変わってゆく。
三層  それに変化によって、基礎感情も変わってゆく。    ※(全ての生命は貪瞋痴を更に刺激する方法で思考している。)
〇貪欲・瞋恚・痴愚が深まって行く。(性格が悪くなる。除々に不幸になる。悩み苦しみが増す。潜在煩悩が欲深く・怒りっぽくなる)
★道徳とは、貪瞋痴を抑える努力のことである。  (貪瞋痴を制御しなさい。) ※思考管理⇒これを教えるのが仏教なのである。
  <欲、怒り、嫉妬、落ち込みなどを減らすよう努め励む。>
〇人は思考してから、体、言葉、考えるという行為をしている。
〇身口意の行為を、真正なる仏教が教えるように制御するならば貪瞋痴(本能)の働きが弱くなってゆく。
 苦や不満、妄想などをつくりだす貪瞋痴を制御して、不貪・不瞋・不痴なる人となる。(聖者)
6.心(思考)の想像力   
〇すべての生命の本能は貪瞋痴である。 (心は貪瞋痴な思考を応援したいのです。)
〇しかしすべての不幸を司る働きは、貪瞋痴なのである。(貪瞋痴は「苦」をつくりだす、そして輪廻転生の原因なのです。)
★不貪・不瞋・不痴は、「苦」に対する解毒剤である。 (思考の循環により貪瞋痴は除々に、不貪・不瞋・不痴となってゆく。)
思考の創造力      人は思考管理に疎い⇒これを教えるのが仏教である。
〇体の構成、維持管理など。
〇寿命の管理、病気になるならないを決める。(成人病、内臓・関節疾患、精神病、癌の発病など思考の使い方次第である。)
〇人生の全ての幸不幸。    (人の幸不幸はもたらされる物事の多寡ではなく思考がどう捉えるか次第なのである。)
〇成功、失敗などの全てが思考しだいである。(人生は選択である。その選択により天と地ほどの差となって現われてゆく。)
〇しかし思考は勝手に働く。(だから思う通りには行かない。希望が叶わない。)
★貴方の人生は貴方の思考次第であり、どの様に思考するかにより、今の貴方を造っているのである。
7.運命とは     
〇人は物事が思い通りに行かないとき、神仏の決まり事だとか先祖の祟りや因縁などと何かしらの妄想概念で納得している。
〇世人は、神仏や悪魔、聖人や預言者を造り、納得をしようと無駄な努力を積み重ねてきた。
〇しかし原因は「潜在煩悩」である事が判らないで、迷信や盲信をつくって納得しようと懸命になる。(大きな勘違い)
★世人には「潜在煩悩」が判らない理解もしてもいない。 (基礎の潜在煩悩の状況は正覚者にしか理解できない。)
〇それには潜在煩悩が起動する(目覚める)まで待たなくてはなりません。
◆潜在煩悩は頑丈である。(基礎感情層は簡単には変わりません。背面の無意識層の感情も簡単には変わりません。)
〇意識的な感情を管理することに努力するならば無意識層が変わり潜在煩悩も変わるのです。(人は意識層しか管理制御できない)
〇しかし煩悩(貪瞋痴)が人生を支配しているのです。(魔王マーラの領域)
〇ですから性格は変化してゆくが、それは「改良」ではありません。変化のみなのです。
★性格とは基礎三要素・宿業・環境・教育・経験・などにより造られたものでありDNA三要素と性根・宿業を変えることは出来ません)
8.人格改良の鍵   
〇意識している表面の思考構想(レイヤー)が鍵なのです。
〇表層で現われる貪瞋痴の制御は出来る。   〇妄想(特に悪い妄想)を減らす事も、思考を制御することも出来る。
◆表層を制御すると、背面(無意識)に影響を与えます。
◆さらに努力すると基礎層の潜在煩悩にも影響を与えます。  ※この働きで人生はどんどん良くなってゆくのです。                 「知識は外界より齎され、智慧は内界より齎される。」
9.思考・妄想の管理の仕方     「人は見解により汚れ、智慧により清まる。」  
〇思考と感情を管理する方法は、たくさん説かれている。(仏法の中にも他宗教にもハウツゥ本にも)
〇しかし「気付き」(サティ)の実践こそが、究極の方法である。  (仏法は気付きに始まり気付き(大悟)に終わる)⇒捨離
〇もう一つの方法は「汚れた思考」を「正しい思考」に置き換える方法。(浄化の瞑想、慈悲の瞑想、イメージングメディテイション)
★問題なのは、自分の思考は間違っていない。正しいと思っていること。(無明・暗愚・錯誤・阿呆・痴愚・・・・・・・タメ息~!)
◆ですから正しい思考とは、何なのか学ばなければならないのです。  (八正道)
10.尊敬する人    
〇皆、尊敬する人物の一人や二人は居るはずです。
〇その人の生き方を学んで自分の人生の参考にして、自分の人生を変えようとします。
〇しかし多くは俗世間の目的で、俗世間の偉大な人物を選んでいます。
    (金財欲思考→金持ち、物欲→権力者、運動好き→名選手、音楽好き→音楽家
★しかしそれらの尊敬し影響を受けている人物達も貪瞋痴の支配下で、現実には悩み苦しみ愚かに生きていたのです。
〇成功も失敗も偶々のものであり、時の運、環境の運により努力が報われたに過ぎないのです。
 (努力が報われる報われないというのは、自我の肯定領域の問題でしかなく本質の目的ではない。)
11.完全なる人格者   
〇人格を完成した貪瞋痴を打ち破った人を尊敬する人物として選ぶべきなのです。
〇正覚者である釈尊如来品大師がその人物である。  (その人格の完成により大梵天帝釈天の勧請懇請をうける)
★そして聖者達を、尊敬する人物として、影響を受ける人物として選ぶならばそれは正しい選択である。
◆それで幸福の扉が開きます。  (貪瞋痴を減らせば減らすほど、人は幸福になってゆくのです。)
※目的を設定することは構わないが、夢想や希望など幻想を抱く生き方は苦悩を生みだし失敗をまねく。
12.正 念 法   
仏陀の九徳(九つの徳目)を念じる。(仏陀が何故にすばらしいのかの確認)   仏陀の九徳正念法
★慈悲喜捨・無常・不浄の瞑想などを念じる。                      慈悲喜捨の正念法
★心掛けるべき四徳(誠実心・自制心・忍耐心・施与心)を念じる。         聖なる四徳の正念法
〇これは不貪・不瞋・不痴のポジティヴ感情で思考を正しい思考へ置き換える根源である。
〇自分のことは考えず、清浄なものを念ずることにより、自ら清まるのです。
〇唱えはじめると瞬時から心は清らかになってゆくのです。
〇貪瞋痴が抑えられ、あらゆる悩み、妄想がなくなってゆき落ち着きが得られる。
◆それは幸福の結果をもたらします。
13.難 事   
〇それぞれの言葉の意味は簡単ではありません。しかし苦労して言葉の意味を学ぶと真理に対しての理解が深まります。
〇それぞれを一つ選んで、理解して念じることも出来ます。
★これらの他に神や仏や預言者などを念じても、貪瞋痴をなくすことは出来ない。(少しは減らせるし善人にはなってゆく。)
★自分を誉め讃えることを期待するようなキャラクターには、真の浄化作用は働かない。(人格完成者の行いを讃えよ。人格完成者に例え僅かでも近ずくよう努力する(聖道跡))
◆貪瞋痴を、不貪・不瞋・不痴に入れ替える唯一の方法である。