幸せに条件付けをしない

例え今がどうであれ、こうであれ、在るがままに幸せなるを知らず。            
 幸せを味わうのに条件付けは要らない.在るがままに幸せなのだから。                             幸せの条件付けをしたがるものは[今は.ああだから、こうだから幸せを感じられない]とか[あれが有れば.これが有れば幸せになれるのに…]とか[あれが無いからこれが少ないから][幸せには.あれが必要.これが必要]などとゴチャゴチャと考え躊躇っている者に、信念と勇気を持って前に向かって踏み出す時など永遠に訪れることもなく、過ぎ去りし時を振り返りただ悔やむだけ。失敗を怖れて立ち竦んでいる者の収穫は少ないだろう。何故なら多くの者達が立ち竦んでいて残った収穫を分け合っているのだから。そして無益な妄想を膨らませ幻想の中に幸せを探し求めながらも、真の幸せを味わうことが出来ずに所有の次元で欲得だけが膨らんで欲深くなってゆく。     
痴愚な心により幸せを請い求め願いながらも却って幸せを遠ざけている。  
しかし例えどんな状態や状況に於いても、幸せの種は充分に有るし平穏の要素も充分に有り、在るがままに幸せで平穏である筈な事に気付けずに不満や苦悩を捏造してゆく。条件が揃わなければ幸せではないと考える人は、条件が揃うまで不満の中を流れ生き、例え条件が揃った処で真の幸せを味わうことなど出来はしない。
例えば、お金は生きる上でとても重要なものではあるが、決してお金は生きる上での目的物ではなく付随物(手段)に過ぎず、生きる意味や価値を助けてくれるものであり、真の自分に価値感や意味に付き随ってくるものであり例え高額な報酬を約束されても、自分の意に添わぬ生き方を選択しない生き方こそ尊い生き方であり悔いることのない生き方なのではなかろうか。金財や地位や勢力などの所有量で人間の価値(バリュー)も質(クオリティ)も格(レベル)も境地(ステージ)量ることなど出来ず、手段としてどの様に用いるか次第なのである。
たとえば俗世の話で僭越ではあるが、ビジネスに於ける経営者に真に求められるものとは深い洞察力でもある「先見の明」なのではないだろうか、大企業となった企業の創業者は皆、先見の明が有り、金のために働いた訳ではなく先見の明の実現の為に努力したのであり、金財はその後を付き随っただけなのであり、そこには信念と失敗しても悔いは無いという勇気と先見の明の実現に向かう歓びに人生を費やしたのだろう。しかしそれに続く者達は管理や体制作りや整理に余念なく、知識や学歴や勢力や人脈を重視し、情報分析も創造性に欠け、まして先見の明あるものを排除してきたから今の日本の体たらくがあるのではあるまいか、そんな今の企業経営者が獲得できるのは開放感でしかなく,、充実した達成感を獲得することが果たして出来るのだろうか。自己完結できない人生とは、輪廻の激流を流転してゆくことに他ならないのだから。
仏教では「有無同然」と説かれるが、今は無いから苦しく不満だと捉える者は、在れば在ったで矢張り満足など出来ずに苦しく感じ、幾らあっても足りる時など来ることはなく、有ればあったで苦しく感じ、無ければ無いで苦しく不満だと感じ、条件付けという夢想と妄想の中で欲深い条件を満たす事など出来はしない事に気付くことなく苦と不満の中を生きてゆき「有っても無くても苦しく感じる」のである。           
無条件に今有る幸せを味わう事が出来る人は、無ければ無いなりに幸せを感じるならば、有れば有ったで幸せなのです…例え全財産を失おうとも命があれば、また取り返すことも出来るし、他人が誹謗や中傷をしようが命を奪う訳でなければ、幸せで平穏なのですから…
あれも必要、これも必要と不安定な本能の発する渇愛の衝動に翻弄されて.所有の次元へと陥って行き、やがて気付けば所有の次元を彷徨う彷徨人となっている。真に生きる事(人生)を楽しむのに本当に必要な物事を残し、足るを知り、最低必要量を見定めてそれ以外の物事を排除してみれば「無一物」に近いものなのでもあり、そこから補い購うものは全てが潤いであり、余裕であり、利便な歓びであり幸せなのであり「無ければ無いで楽しくて有れば有るで楽しい」とは満たされれば満たされたなりに幸せであり、満たされずとも満たされないなりに幸せなのである、兎に角、生きていて、立っていて、歩いていて、痛みに苦しんでなくて、ご飯を食べれて、他人から石つぶてを浴びせられなくて、釈迦尊(ブッダ)の仰った「朝から借金取りが来て金返せェ!金返せェ!と押掛けて来ない事はこよなき幸せである。」とウイットに富んだ御言葉にしろ雨露をしのげて・・・・既に数えきれない程の幸せと恩恵の上に今、生きていることに気付くこともなく。          
「幸せに条件付け」をしなければ兎に角、在るがままにいっぱい幸せなのです中には「それじゃァ、ただ生きているだけであり、ただ生きているだけなんて幸せなんかではなく、不幸そのものだ!」などと宣まう人が居るのだが、そんな人に限って妄想と幻想の中を流れ、現実世界ではつまらない物事に捉われたり拘ったり貪瞋痴の感情に主導され五官(眼耳鼻舌身)の刺激に翻弄され、苦と不満の中を踠き喘いて居るのである何故ならば有益な物事を成し遂げるとは、今という瞬間に気付き、前向きな思考を積み重ねて行くことに他ならないのです…
つまりは理性(客観的な理解・認識能力)が考える必要な物事、重要度や幸せと、感情(貪瞋痴)が考える必要な物事、重要度や幸せとは違うものなのであり、そもそも感情も、自我も、不安定な本能(煩悩)が生じさせている衝動に過ぎない事に気付くことが出来ずに翻弄され「所有の次元」に魅入られ、一時的な幸せや喜びの感情に渇きを癒し、それに伴う多くの苦しみや悩みや不満や迷いの中に、大切な限られた時間を浪費してゆくのです…