身軽と気軽

生きる事を謳歌するためには心を蟠りや束縛から解き放ち軽安.自由であらねばならず、その為には無執着と寛容で在らねばならない。生きる道に苦悩と不満を募らすものは、執着により負担を自ら蓄積させているからに他ならない。                                             
 そして[味わう]とは意識.思考が[そう思う]という事ではなく、潜在識がどう感じ取るかという事なのである。  (感性の問題)   人間の生きる本質を突き詰めると[苦や不満]なのであるから(一切皆苦)、本質的には便宜的(手段.付随物.客体)に過ぎ去り「所有の次元」に魅入られ、あらゆる物事を所有することに貪欲になることは本質的には負担量を増している事であり、執着心を刺激し.人を欲深く.心を貧しく賤しくさせている事である。 (所有と存在の項を参照)   
基本的には身軽に成れば成る程に気軽になり逆に身に負担が増し身重くなれば成る程に気重くなるものであり<気軽=身軽><気重=身重>なのであるが、中には身軽である筈なのに気重な人もいれば、身重な立場にありながら気軽な人も居たりして.身軽である筈なのに気重な人とは、自分自身を妄想や願望や期待などで縛り付け(自縛)、自我(エゴ)が強く「所有の次元」への執着から目覚めずに苦や不満を蓄積し続けているような人なのであり、身重な立場に在りながら気軽であるという人は、それは無責任の度合いの問題と言え立場に責任感を持たなければ一時的には気軽(気軽というより能天気)で居るだけである。つまりは「身重く」させるものとは感情的な「所有の次元」にて創られてゆく性質のものであり、「身軽く」させるものとは理性的な[存在の次元]において無明(本質的無知)を捨離し、執着から解き放たれてゆく事である。 しかし無責任に放置せず「身重」で在りながら「気軽」へと向かう道は有り、それは無知(無明)を智慧や叡智へと入れ換えてゆく道であり、人格(人の質)を貴めてゆく道であり、重責と感じることにより安定感を失い不安定化することもなく物事の本質を見極められれば責任を愉しむだけの事であり.沈着冷静な客観的な洞察力を以って先見の明を働かせば済むことであり、そうでないのは潜在意識において弱さや怖れや欲や無知に縛りけられているからであり、それは世の中でいう[良い人][善人]を演じる事ではなく、仏教では[アーサバー(汚穢)の滅尽]を目指す事に努め励む、それは外界から染み入るように入り込むアーサバー(汚穢)と内界から染み出すように沸き出ずるアーサバー(汚穢)を滅尽してゆく事であり.アーサバーとはドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.負担.迷い.心痛…)に基づく浅薄な先入観.固定観念.既成概念.思い込み.常識あたり前という見解.風聞.学説.権威.偏り誤った知識.勘違い.錯覚による主観をいいアーサバーに縛られず客観的に物事の真実を掴んでゆくことが必要なのである。それは感覚的な感情(特に貪瞋痴)に主導されない心の境地であり、理性(客観的な理解能力.知性)や(判断.識別能力)を貴めてゆくことに他ならず、依り高い境地(ステージ)から認識する能力が具わるならば、社会で「重責」と言われるような大概な物事であっても本質を見極めれば重責などではなく別段に緊張して負担を造り出す必要もないのだから。            例えば[所有の次元]で重要と考えられている世界的な大金持ちと言えども世界中の金銭のコンマ1パーセントも所有せず、資産家と言えども世界中の資産の切れ端程度しか所有できず、権力者と言えども一群を一時的に統べるに過ぎず、その欲得が充たされることなく儚い幻想の中を彷徨うが如く砂上の楼閣を築いているに過ぎないのであり、地位でも名誉でも高が知れたものであり一時の位に過ぎない地位や名誉や生まれや身分?.外見で人間の人格を測ることなど出来ようも無く、存在の次元を測る術はその生き方や捉え方にあり、現象世界における所有の次元とは無常で空虚な陽炎の如きものに過ぎない。
「存在の次元」を征するものとは大宇宙の実相を自在に観、途方もないエネルギーの流動である大宇宙そのものである心的エネルギーの浄化とその運動性(性質)と言え.現象世界の真理に目覚め、神をも凌ぐ人格を有して聖人と呼ばれもするが.老子も仰っているように「聖人が説くその言葉を理解する者が稀れなのは、聖人の説の尊さの現われであり、聖人は身に襤褸をまとい懐に玉石を抱いている」ものであり、世人が妄想し誑かされるような金襴や権威に身を包み.所有の次元の宝玉に飾られ綺麗事.能書き(プラパンチャ)を宣う聖人(如来)など居ないのである。       書き加えるならば[理性.知性]を[冷静.知識.認知]程度にしか考えてない人が多いが、心とは感情(
見られる心)と理性(感情を見張る心)の両輪により成り立っているものであり、心を真に理解することが出来ないものは感情や主観をそのまま表現する事が芸術や無くてはならないものであるが如く執着し、単なる貪瞋痴や渇望を[私の怒り][人の悲しみ]などと宣うが、それらは感覚.感情.主観の縁起に従った刺激.情報に反応した無常な現象に過ぎず、芸術とは己の感情を眺め観察し理解した理性から生ずる表現あり、絵画でいうならば絵描きと芸術家との大きな分岐点でもあると言え、妄想的な感覚的.感情的.主観的な一部の愛好家達の価値観に依拠する実質のない儚いものであり真の芸術とは自己完結しているものなのである。