所有の次元と存在の次元

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〘所有の次元〙と〘存在の次元〙

社会は事物を所有してゆく事により垂直的(積層的)に[所有の次元]を形成し、その所有量と質を以って人間としての価値判断の尺度とする事により却って無明(無知)と盲目性を深めて行く所有の次元の事物とは.本質的には手段としての価値(付随物)に過ぎない便宜的なものであり、決して目的ではない.にも関わらず必要以上に人を執着させ貪らせ魅入らせる。

所有の次元の事物への執着により.無常.短命.一時的な感覚的幸せを得るのと.引き換えに多くのドゥッカ(不安定さ.苦.悩み.心痛.…)を生じさせている本質の.便宜的な付随物に過ぎないと見定め.自らの存在としての価値を、磨き.高め.深め.清め.育て.調えてゆく事により水平的(自我から世界)に構築されてゆく人間として[存在の次元]こそが.真の宝であり.真の価値であり.真の目的であり、その結果が輪廻へと連鎖.継続してゆくのである。

先ず、無明(無知)で生まれる人間はその不安定さ(ドゥッカ・苦)から逃れようと盲目的に安定を求めている.その第一声が[オギャー]であり、母親に抱かれて.ひとまず安定を得て眠るのである。(生きるとはこのサイクルを繰り返して行く事に他ならない。)

つまり無明の闇の中を.盲目的に生きている人間とは何かしらに依存して[拠り処]として辛うじて生きているのであって、決して自分一人が他から独立した存在として単独では生きてる訳ではなく、その不安定な本質的な不安定性を.得体の知れない妄想的な神仏や怪しげな霊力を謳う信仰を[依り処]としたり、便宜的な客体的な付随物に過ぎない[所有の次元の事物]を依り処(精神的支柱)として辛うじて.無常(常ならざる)な安定を得ているだけだから、何かしら状況.状態が変化すると又、ドゥッカ(不安定性.苦.心痛.不満……)が姿を現わすのである。

有為(変化生滅しながら流れてゆく)この世界において、条件(縁起)によって現れているだけの物事は、やはり何かしらの条件(縁起)により消滅してゆく定め(理法)であり、故に.この世界における安定的な[依り処]とは.妄想的な神仏や預言者でも[所有の次元の事物]でも観念.哲学でも信念でもなく.無為なる真理(真実.現実.事実.実相)という依り処(精神的支柱)だけである。

虚妄.信仰.妄想などの情緒的な物事へ偏り執着することなく、所有に偏り執着する事なく、欲望に偏り執着する事なく、情緒と論理(知性.理性)の中道において.人は[存在の価値]は高まり.得難き大いなる安寧を得る。

世の中の多くの人々は[所有の次元の事物]の輝きで.真実の自分を覆い隠そうと欲し.貪り.執着している。それが煩悩(渇望・存在欲)の要求により[させられて居る]ことに気付く事もない。

それは所有の次元の事物の輝きにより.自分という存在自体が光り輝いている.とさえ錯覚して、生きてる間中を[所有の次元の事物](金や財産.物欲.権威.衣装外見.地位.名誉.称号.権力.勢力.名声.信用.評判.承認.看板.健康.寿命.美.主義.主張.家柄.血筋.学歴.履歴.情報.知識…)などに捉われ、拘って生きる目的であるかのように錯覚し魅入られているが冷静にそして客観的に考えてみればそんな所有の次元の事物とは単なる客体に過ぎず生きる上の便宜的な付随物(手段)でしかなく.決して生きる主体としての目的ではなく、所有の次元の事物によって真の自分の価値が少しも高まるものではないのだが、一般社会通念上における信用力という人間にとって重要な価値判断の目安や手段でこそあるが真の価値感はその存在性により具現化するものであり、所有の次元的価値に翻弄される砂上の楼閣の如き幻想であり誤認識でしかなく、そのような所有の次元の事物という付随物を全て取り去った「裸の自分」こそが真の自分であり付随物であり錯角である我(自我意識)を捨て去った「裸の自分の輝き」こそ真実の自分という存在の輝きであり、その裸の自分の輝きを人は人間の精神性、すなわち人の質(クオリティ)人の格(レベル)境地(ステージ)度量(ラージ)と呼び、その完成された姿を無位の至高の存在とも聖者とも如来とも呼ぶのである。 

「真の満足を齎すものは足るを知る心だけ」
「月白く風清し」と古くから例えられるように、所有の次元の事物の輝きにより自らが輝いていると錯覚しながら生きるのは、実に空虚な生き方であり、そこには自分という存在的価値を微塵も見い出すことが出来ない。
月はただそこに在るが侭に白く輝いているだけで有り難い存在であり、風は在るが侭に吹いているだけで清い存在である。

人も所有の次元の事物から解き放たれた裸の自分の有り様に真価が見い出せる。      俗世とは煩悩の要求に随い所有の次元へと向かい、所有の次元の事物の質・量・力などにより勝利と敗北を競う世界であると言え、所有の質・量・力による分別により人間的価値や意義が判断される錯覚と夢幻で成り立つ或る意味では空虚な世界である。

一方、出世間(出家)とは物理的な俗世からの厭離ではなく、精神的な俗世からの厭離であり、所有の次元の事物の本質的な虚無性(空)を理性による集中力や叡智による洞察力により理解し、人を必要以上に執着させ翻弄させる煩悩(渇望・生存欲)を乗り越え(超越)目覚め(覚醒)、主体的な存在の次元の価値や意義と向かい人間としての真の価値や意義を覚り、心を清めてゆき、徳を積み、人としての質(クオリティ)を高め、人としての格(レベル)を磨き、人としての境地(ステージ)に目覚め、他の人や他の生き物への慈しみと愛と憐れみの心により利他を施してゆくのである。そこには自分も他の人間も他の生き物も同じ生命でしかなく無知(無明)な心が分別している事に気付いてゆくことでもある。   

まして所有の次元の事物とは必要量を超えた所有によって苦や不満や恐怖や報いを生じさせる儚い性質のものである事を知らず執着させ貪らせるのは煩悩(存在欲)の暴走なのである。存在の次元に向かう時、必要不可欠な量を超える所有とは、生きる意味での目的でも意味でもなく、唯、存在の次元に没入して生きる時、付いて来ただけ(特に金財として)の客体であり、負担量を増す結果を伴う事さえあり執着の種となってゆく事さえある。その所有の活かし方がその人の徳性を決めるているのであり、しかも所有の次元の輝きとは何時かは必ず消えて無くなる無常な輝きでしかなく、儚く輝く所有の次元の事物を脱ぎ捨てた時、素の自分は果たして本当に輝いている存在であるだろうか。所有の次元の事物とは本質的には客体でしかない儚い性質のものである事に気付かず翻弄され苦や悩みや恨みや怖れの種とも成り得て、今の自分を理性の目(客観的な理解認識能力)を以って観察しなければならない。客観的に在るがままの自分を観察し理解するならば、恐らく愚かで未熟で虚しく、どうでもいい物事やつまらない物事や下らない物事に捉われたり拘ったり執着してしまう存在でしかなく、そこには整合性のない無数の自分という存在が居る事に気付くだろう。人は本来「天上天下唯我独尊」な存在であり大宇宙の関係性の中に於いて必然として生じた唯一無二なる存在であり、この時空において他のものを以って変える事が出来ない掛替えのない尊い存在であるのだが、煩悩(存在欲)の衝動に主導され「所有の次元」の事物に翻弄され魅入られ誑かされて自らその存在価値を貶めてゆくのである。

そんな自ら色々な物事に自縛されている自分を発見できない人が居るとすればそれは自我(エゴ)が深まり主観的で感情的に捏造された自分像を打ち破り客観的に観察する事が出来ない高慢か愚かな人間か、或いは既に覚り得て居る人のどちらかだろう。何故なら仏道とはそんな今の自分に気付く処から始まるものなのであり、己の愚を知る者こそ賢者なりて、ただ闇雲に知識や能力を所有してゆく無明な道ではなく、一つ一つ捨ててゆく道(捨て去りしものは無くならない道)であり、捨て去りし安堵が平安を生じさせ、智慧の顕現により徳心が育まれ寛大な心が慈悲を生じさせてゆくのだから、愚かで未熟で虚しい存在だからこそ仏道を歩む事が出来るのであり、到達したとしても曇らぬように謙虚に怠らず白珪をさらに磨いてゆく存在の道なのであり、自分という存在を真に定義できたならば、この世界も定義出来るのである。

所有の次元へと向かう仏教と称するものは仏教ではなく、所有の次元へと向かう聖人と称する者も聖人とは呼べず、所有の次元の本質を覚って存在の次元へと向かうのが仏道であり僧侶であり修行者なのであり、知識ばかりを詰め込み理論武装に余念がなく能書きや空理空論で人様を煙に巻くような輩達が世の中では勢力を誇っているが、理論が実践を包括する事など有り得ないように、そんな輩達がいくら口先三寸の巧みな弁舌で言い繕って見ても、偏った理論や誤った見解や空理空論が、実験し検証し確証の得られた事実を包括する事など出来はしないのである。

自分自身が輝いていると錯覚させる所有の次元の金や財産、権威や地位や称号、権力や勢力や看板、知識や評価や氏素性などにより人は尊く輝くのではなく、その行いにより尊く輝く存在なのだから。

物事に執着せず、無一物に勤しみ、足るを知り、世の毀誉褒貶に汚される事なく、暮らし慎ましくとも心.貧しくならず、直向に仏道(聖道)を歩む修行者を、目ある人は仏弟子と呼ぶ。

此世と彼世とが表裏一体で在るが如く、,全ての事物においても表裏一体なる所有としての次元と存在としての次元とが重なり内包しているが、その方向性は真逆なものでもあり、所有の次元へと向かう世間と存在へと向かう仏道とは真逆な方向性を目指すものであり、両極の価値観の定義の中に中道を見出すのが尊い仏教徒である。

[所有の次元]にて表象する事物には真の喜びも満足も幸せもなく[本質的な苦]が[楽(快楽)]の姿をとって一時的に現れているに過ぎない仮体でしかなく.人を誑かし.魅入らせる短命な[楽(快楽)]を生じさせるが、やがては[本質的な苦]が本性を現わす性質のものでしかない

全ての現象が[本質的な苦]を前提として存在するならば、苦を前提として楽が存在する事に気付くだろう。楽を味わうために苦は存在し、苦を味わう為に苦が存在するのであれば、苦の負担量を物差しとし[楽の種]と成すならば、全ての諸行は[楽(快楽)]へと向かい、[苦楽の中道]において安定的な安寧を得るのである。

「存在の次元」に真の喜びや満足や幸せを発見する者は、在るがままに幸せである。

しかし本能的な渇きの衝動により生じている煩悩(存在欲)の盲目的な意思による感覚や感情を自分の心だと錯覚する者は気付けないのである。

煩悩(存在欲)の衝動を自分の心だと錯覚している者には、すべての物事が所有の次元に於いての価値観として映り、存在欲を制御した者には、すべての物事が存在の次元に於ける価値観であると観るのである。

「所有」か「存在」か。これは生きる上に於ける基本的な選択肢であり、「所有の次元」では何かを自分の所有物として占有する事こそが重要な事であるとも考えられ、金財・経験・地位・名誉・名声・知識・評価・権力・勢力など凡そ欲し執着する対象物に対し、それらを量的に豊かに所有すればするほど、幸福度が増すと考えられていて、所有物次第で人間の価値観も決まるが如く、崇拝と信仰にも似た虚像と幻影の次元でもある。

古来から人は皆、幸せになりたくて幸せを求めて生きてきました。そしてその為に所有の次元の事物(金財・物欲・地位・名誉・権力・勢力・評価・権威など)が、それを叶えてくれると錯覚し、今日の物質文明を築いてきましたが、便利になった事は事実ですが、では本当に人々が幸せになれたのかは疑問であり、却って苦しむ人・悩める人・悲しむ人・迷う人・戸惑う人・充ち足りない人を増やして来たのではないでしょうか。

所有の次元の事物では人は幸せにはなれない事は、既に2500年も昔にお釈迦様により、解き明かされている事柄なのですが、主観的な自我(エゴ)に基づいた執着や欲や貪りを奨励し扇動し洗脳(染脳)し主導してきた物質文明は真逆な論理や倒錯的な観念を植え付け発展して来た事実は否定できず、それが為に世界には争い・戦争・惨禍・破壊・殺戮・蹂躙・差別などが絶える事なく続いて、それを愛だ平和だ幸福だ進歩だ共存だ友好だ建設だ発展だと美辞麗句を並べ立てて覆い隠し錯覚させ幻惑させているのではないでしょうか。

「私」を顕示する時「私が持っているもの」こそが「私」であるというが如くなのがこの次元における基本原則ともなっている。
しかし所有物を増すことへの執着は、必然的にその当人に貪り、不安、差別感、孤独、空虚感などをもたらす、失うことを恐れる事なく、安心して所有することが出来るものなど、この無常なる世には存在しないからである。

[所有の次元]であるのか[存在の次元]であるのかを認識させるものが[主体・客体]である。  所有は所有者(主体)と所有物(客体)との間に主客の逆転を生み出すので、所有物に重きを置けば置くほど所有者の「存在」は空虚で主体であった筈の自分がいつの間にか客体化していってしまう。所有物というものが生きる上での単なる手段であったものが、それらに頼って生きている存在(客体)と成り果て、若し喪失した時には狼狽したり正常を失ったり苦と不満の中に身を置く破目へと陥ったりする。それは人間の本質とは[不安定]なものであるからである。 何かしらの物や事などに執着し頼って生きているという事は、言い換えればそれらの物や事により辛うじて安定を保っている状態でしかなく、もしそれらを失った時には本来的な不安定な状態へと戻ってしまう[無明]で[盲目的]である事に気付くのである。

人は物や事へ執着する事により安定や幸福を得ようと必死なのだが、そんな物事では真の安定も幸福も得ることなど出来ないで却って苦や悩みや不満を造りだしているのではなかろうか。

「光陰矢の如し」と言われるように人の一生とは実に短いものなのでありウカウカしていればいつの間にか老い病気や死がどんどん現実問題となってゆく儚い存在なのである。普段「所有」の次元の中で必死に生きている人間には、外にそれとは異質の「存在」の次元が在ることに気付かず又、気付こうともしないが、臨終が近付き人生を振り返った時に「存在の次元」に気付き「所有の次元」に於いて人生を使い果たし「存在の次元」に生きる事も味わう事もなかった自分の人生に後悔を覚えるものだとも言われる。

当たり前な話が通用しない不条理こそが「所有」の次元でもある、例えば彼岸へと持って行けない物事を必死に一生を費やして「所有」に励み、却って苦や悩みを造りだす、「楽しく暮らしても一生、悩み苦しんで暮らしても一生、泣いて暮らしても怒って暮らしても一生。」であるならば「楽しく平安に暮らす一生」こそが最良な一生なのでは有るまいか。しかし「所有」の次元では、決して「安定的な悦楽」など得ることは出来ないのである。

執着を断じ現象を在るがままに眺め、生きる修行者は「所有」ではなく「存在」に基づく全く新しい生き方の実践見本である。

「愚かなる者は日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいるが、それは本当の美味なるものに気付かずに、雑草を旨い旨いと食べているようなものである。彼らの満足は真理を実践によって識る智者のそれとは比ぶべくもない。例えば命は素晴らしいものであり、生きていること自体が最高の快楽である。智者はこの当たり前の事を死に直面せずとも知ってるが、凡夫ときたら幻想に過ぎない名利のために大事な命を削り命の本当の意味を捻じ曲げているのである」

自分というものの主体とは「存在」であり「所有」はあくまでも客体であらねばならず「手段」であって「目的」ではないのである。

生物の主体は[命]であり客体は[存在欲]である。そして理性(客観的理解判断能力)を発達させた人間の主体は[存在]であり.客体が[感覚.感情]なのである。ここが人間をして人間足らしめる分岐点なのであり人間の姿形をした阿修羅や畜生や餓鬼さえも存在している所縁でもある。

[所有か存在]かの認識は[主体か客体]の自覚であり、それらは欲望の主導により[所有の次元]へと向かおうとする[煩悩]と、[存在の次元]へと向かおうとする知性.理性(客観的理解判断能力)との[主体・客体]による方向性なのであり、[主体・客体]の分別の解体により、[所有の次元]は解体し、[所有の次元]の分別の解体により、[自我意識]の分別が解体してゆけば、[存在の次元]への執着さえも解体してゆく。 [所有・存在][主体・客体][自我]による分別.渇愛の解体こそが涅槃(ニルヴァーナ)なのです。

「所有の次元」へと向かおうとする感情を無常で空しく非我であると確かに識って「存在の次元」へと向かう時、心は次第に解き放たれてゆき、涅槃という悦楽なる平安へと至るだろう。

言い換えるならば「所有の次元」とは両極的判断により成り立っていて「豊か・貧しい」「良い・悪い」「好き・嫌い」「多い・少ない」「優・劣」「苦・楽」など本質的には一如なる現象に対し、立場、環境、時間、状態、心境などにより二極分化して捉える事により、一時的な喜びを「喜び」と錯覚し一喜一憂したり多くの苦や不満の中を流れたりしている次元なのであり、貧富も良悪も好嫌も多少も優劣も苦楽さえもが物事の裏表であり本能的な存在欲の翻弄されているだけに過ぎず「良い時もあれば悪い時もあり」「豊かと感じるも貧しいと感じるも唯、比較の問題」であり「苦楽も本質的な苦が楽として現われているか苦に戻ってしまったか」の問題だけなのである。    
「物事を当たり前(当然)とぞ定むれば、悩みは滅し、苦は生ぜず」

「存在の次元」とは瞬間的判断の連鎖であり、今という瞬間に没入して生きる時、立場・環境・時間・状態・心境(感情や感覚)などに翻弄されることなく、今という瞬間の存在を感じ取り味わう感性により、存在とは当然に存在している訳ではなく、移ろいゆく我れと移ろいゆく時空との暫定的な出会いの上での生起・不生起の因縁の上に生かされている存在である事に気付く事により一切に有難く感謝することが出来る次元だと言えよう。
「物事を 当たり前(当然)とぞ定むれば 有難味なく 感謝は生ぜず。」

修行者となる「出家(出世間)」の本来の意味の「出家」とはこの様な「所有の次元から存在の次元への極端な転換」の事を言うのであって、それは「豊かに持つために生きる」のではなく「豊かに存在するために生きる」という人生の意味や目的の根本的な転換なのである。

「所有の次元」から「存在の次元」へと転換してゆく時、結果として自ずと「無一物」へと向かうのである。

その時には生活の一切。全体が修行となるのである。
僧侶で在りながら.修行者で在りながら[所有の次元]を彷徨う輩は生臭く胡散臭いのである。 お釈迦様の在世当時と比べても、約百年位前と比べても我々は[豊かな社会]に生きている。
しかし苦や不満や悩みは減っていないばかりか益々増えてしまって多くの現代人は大きな負担の中で生きている。

そしてこれ程までに弱者.老人.病人.死者.修行者が大衆の眼や意識から巧妙に隠され社会から軽視され疎んじられた時代があっただろうか

私なども日々、修行中(托鉢・辻立ち)に愚者から蹴られたり罵られたりもするし、偏向した仏教団体信者などからは悪態や罵詈雑言や罰当たりと唾をかけられたりするが、これらも現象に捉われず忍耐と堪忍とを養う修行徳目とも成りえて有難い次第ではあるが。

世の愚か者は今やるべき物事を明日に延ばし、先延ばししても足りるような物事を今やらねば不覚を取るが如く振舞う、これは主体が感情に在り、理性による「存在」が客体に在するからに他ならない
仏教的意識とは「所有という方向性」の延長ではなく「存在という方向性」への目覚めに関わるものであるとするなら、現代はまさに仏道を歩まんとする者や「宗教」というものにとっては危機の時代でもあろう。しかし豊かになった現代社会において豊かになった事により苦しみや悩みや迷いや渇きが減る処か却って増加して来ているのであれば、仏道や宗教(人倫・道徳・真理を説くもの)というものは寧ろ今こそ必要なのではなかろうか。

お釈迦様は仰った。

俗世の利益を目指すのも一つの道  (所有の次元へと向かう道)

彼岸を目指すのも一つの道     (存在の次元へと向かう道)

だが仏を師と仰ぐ仏弟子たちよ。汝らは俗世の利益を貪り、執着してはいけない。貪欲のその道(所有の次元)から遠去かれ。

寿命が永かろうがと短かろうと我々は今という時を生きるしかない

世界が如何に広大であろうと今.立っているこの場所に立つしかない

世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかない

過去、現在、未来を同時に生きる事も、此処と其処に同時に立つことも、出来ないのだから。ならば我々はただ一つしかない身体でどうして二つの道を歩めるだろう。ましてこの二つの道が向かう先は正反対なのだから。

思考や自我を持つ人間に生まれれば「私」の快楽を求めるのは自然な事である。

しかし自分にとって本当に大切な事.とこしえの悦楽とは何だろうか

それが解らない内は「私」の利を貪り、刺激を求め「私」の欲望を満たす事ばかり考えている

「外なる快楽の追求こそが、苦悩の素因である。」

快楽を手に入れても満足は得られない。更なる欲望が芽生え際限がないのだから。

永遠に色褪せる事のない悦楽は心の充足からしか得られない

俗世の利益を追うも一つの道     (所有の次元へ向かう道)

内なるとこしえの悦楽を追うも一つの道(存在の次元へ向かう道)

此の岸で俗世間の利益を追うものを凡夫といい、心の真の充足を求めて彼の岸に向かう者を修行者という。

お釈迦様は仰った。

「俗世の利得を目指すのも一つの道、涅槃を目指すのも一つの道。

だが如来を師とする仏弟子たちよ汝らは俗世の利得を貪ってはならぬ

貪欲のその道から遠去かれ。

寿命が永かろうと短かろうと我々は今この時を生きるしかないのだ

世界が如何に広大であろうと今.立っているこの場所に立つしかない

世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかない

ひとつは「所有の次元への道」もうひとつは「存在の次元への道」

「所有の次元を彷徨う者、神仏を拝みたりても唱えたりても、心は名利を拝みたるに気付かず、存在の次元を見出す者、拝むことなく唱えることもなく唯、感謝と悦楽と平安の上に甘露を味わう。」