路傍の如来 多々方路傍石 語録-11

葬儀によって.何ら死者の救いは得られぬ葬儀により成仏するのではなく、その人の徳性によって、成仏もすれば輪廻もするのである。
葬儀とは世俗的な儀式であり、仏事とは無関係な事柄なのである。
神仏が人々を救ってくれるのではなく、自らが宿す神仏(神性.仏性)が、救いの道を示すだけ、真に自分を救ってくれるのは己自身の実践だけである。
お空の神仏に手を合わせていても、心の中の神仏(神性.仏性)に祈るのである。

放逸と不放逸
放逸とは散漫であり、不放逸とは集中であるが、外事象への集中は放逸である。
外事象への集中とは常ならざる無常なものへの依存であり、短命で一時的な強烈な感覚への渇愛を生じさせる。
ギャンブル依存症.薬物依存症.[所有の次元の事物]への執着などの.その何れも放逸な煩悩が感官(眼耳鼻舌身意)を外世界に彷徨わせて、短命で一時的な不放逸感(安定感.集中.喜び.安心……)への依存.渇愛に他ならない……つまりは[不満の塊]だからなのであり、つまりは無明なままだからであり、つまりは煩悩(従業員)が.知性(主人)を押し退けて切り盛りしているからであり、つまりは足るを知らないからであり..つまりは満足は既に具わっている事に気付く智慧がないからであり、つまりは放逸だからであり、つまりは自分にとっての真の価値観が見出せていないからであり、つまりは感覚的な空しい刺激への依存によって一時的な安定を得ながら辛うじて生きているだけに過ぎないのであり、つまりは他人や社会の価値観に惑わされ.迷いと虚妄の中にいるという事であり、つまりは真の自分の価値観とは自ずと自分を不放逸にそして集中させ安定させる掛け替えのないものであり、つまりは他人や社会から押し付けられるものでも比べられるものでもない、つまりは貴方という存在の本質なのであり、つまりは貴方は貴方自身を本当は理解していないからであり、つまりは不放逸(集中)の安定性.多幸感を求めて、放逸(散漫)に不満と不安と不足感の中を盲目的に手探りで生きているからである。
必然と偶然
世の全ての現象は、偶然と取れば.全ては偶然であり、必然と取れば全ては必然である。
偶然と取るか必然と取るかは確率的な現象の何処を捉えるか次第に過ぎず、
例え確率的には0.0000001%であっても偶然を装って現象するのは必然であるが、森羅万象の摂理に則り、ゼロはゼロでしかなく確率的にゼロ%なものを、確率的には有り得ると説く者を.カルト信者とか不思議嗜好者とかパラノイアな者と呼ぶ    Eψ=MCΨ ²
 
仏教を行ずる
南無妙法蓮華経と唱えても、それは日蓮宗..天台宗を行じているのであって、
仏教を行じているとは言えない…
お釈迦様は法華経も観音経も知らないのだから。
 
南無阿弥陀仏と唱えても それは念仏宗を行じているのであって、 
仏教を行じてるとは言えない…
お釈迦様は浄土経を知らないのだから。
 
瞑想を行じても それは達磨禅を行じているのであって、
仏教を行じているとは言えない…
お釈迦様は達磨禅を知らないのだから。
 
呪術や真言を唱えても  それは真言宗を行じているのであって、
仏教を行じているとは言えない…
お釈迦は秘密教を知らないのだから。
 
それぞれが我が宗派は.お釈迦様以上のものだと嘯くならば、それは仏の教えを誹謗する邪教を行じているのであって、
仏教を行じているとは言えない…
お釈迦様は、この深淵で.難解で.捉え難い真理を理解出来ない者達が、きっと仏の教えを歪めるだろうと予見されているのだから
如来品正師 多々方路傍石 語録
人生を変えたければ、運命を変えなさい
運命を変えたければ、性格を変えなさい
性格を変えたければ、習慣を変えなさい
習慣を変えたければ、行動を変えなさい
行動を変えたければ、言葉を変えなさい
言葉を変えたければ.考え方を変えなさい
人生は、運命によって造られ
運命は、性格によって造られ
性格は、習慣によって造られ
習慣は、行動によって造られ
行動は、言葉によって造られ
言葉は、考え方によって造られる
運命を変えるとは、考え方を変える事
 
◎宿命と運命について
宿命とは[宿された命]を言うのであって、[もっと善い家に産まれたかったとか、男に生まれたかったとか、金も要らなきゃ女も要らぬ.私ゃも少し背が欲しい…とか]今更、どうしようもない.変えられないものを指すのだが、運命とは[運ぶ命]を言うのであり、時空.性格.意志.考え方などで何れも変えて行けるものなのです。

言わば白隠禅師の「讃歎随喜する人は、福を得ること限りなし」の如し。
福が来たから喜ぶのではなく.喜ぶから福が来るのであって、不幸が連鎖するのも悩むから連鎖するのだから。

苦は愚心につき従う

●心清ければ悦楽なり

自分が世界だと思い込んでいるものは、実は心の反映(投影)なのであり、たとえ大勢の仲間と居ようが.心が空しければ孤独な世界だと感じ、心が楽しければ花は歌い.雲は微笑み、心が哀しみに包まれていれば.海も風も咽び泣いているだろう。
正しい想念に基づいて考え.話し.行えば.悦楽は自ずと我々に付き従う。
世界は想念の産物なのだから。