妄縄自縛

人は在りもしない縄を妄想し、自らを縛りつけ苦しみ悩み迷い悔やみ恐怖し争っている。枯葉のざわめきを魑魅魍魎と恐怖し、有りもしない敵を捏造し、根拠なく自惚れて自らを高く見せようと飾り立て、これから切り開く道が既に引かれて居たりする。一休宗純は自分の言動などが自分を縛って、自由に振る舞えずに苦しむことを自縄自縛といったが、これに掛けて自ずからの妄想により自分を縛っている無明(無知)を妄縄自縛と説く。
「もし人が、一切の妄想から離れることが出来れば、あらゆる苦(ドゥッカ)から完全に解放される。」                          
「あらゆる苦(ドゥッカ)は渇愛を原因とし、渇愛は妄想により生じる。」   
渇愛への執着が制御されたならば煩悩(生存欲)は制御され所有欲への執着も消え去る、煩悩が制御されるなら感覚への執着が制御され感情や主観や自我は制御され、見解の汚れは浄まってゆき、雑念や妄想は制御され、心は五集合要素(五蘊)に刺激を求めず心は自ずと解放される。仏道の修養とは、八正道であり、妄想に陥るな(八正道その内の四念処)から始まり一に止まり(正)、雑念に気付き妄想に陥らないよう啓発してゆく事から始まり理性(客観的理解認識能力)を育成してゆくことだと言っていいだろう。八正道を三種の徳目に分類すれば①倫理・モラルの育成②心的規律の育成③叡智の育成である言えこれら三種を同時に育成してゆくことが求められる。 人類の歴史は思考による無限なる想像力により創造と発展を成し遂げてきた。一方で思考は感覚・感情により主観的になり雑念に入りやすく主観による雑念が深まると妄想へと陥る。今、思考していると気付くのは理性(客観的理解・認識能力)であり理性に制御され思考・想像してゆけば創造を生み、思考が理性の制御から外れ雑念となり妄想へと陥るとき煩悩の衝動により基づいて、馬車馬の如く暴走を始め妄想は更に深まると妄想を現実と錯覚さえしてゆき、人を欲深く自分勝手にさせ中には重症化させ幻視・幻聴・幻覚を現実と見紛う人さえ現れる。         そのメカニズムは、思考が想像や空想に入った時「今、空想を始めた。」と気付かせてくれる理性による客観的思考を失わず、思考を感覚と感情に執り込まれた主観的思考や雑念に気付き(ゴチャゴチャ考えない)、妄想へと陥らないように制御する自覚が必要であり、思考が雑念に入った時、その雑念を気に入り妄想へと暴走させてゆくものは感情(貪瞋痴-渇き)なのであり、自我が絡んだ妄想へと陥ると理性は吹き飛んで他人や社会を破壊してでも自我の欲求を叶える妄想へも容易に陥るものである事を自覚して行かねばならない。更に妄想が深まると妄想を現実の如く捉え、在らぬ見解や錯覚や捏造された認識による幻想を真実の如く宣う狂気な人間を自己染脳(洗脳)により造り出し易いのが、偏った知識や情報が氾濫する現代社会である事も自覚して行かねばならないだろう。
人間のもつ本質的な無知や弱さや怖れや渇きが、児が親に依存するように保護・安全・安心・恩恵を求めて神や仏や超越的な力への強烈な依存を欲するのであり、この根深い依存の欲求に付込むようにして、世間で言われる得体の知れない絶対神とか神や仏や預言者やそれらの生まれ変わりだと称する者達は現れるのであるが、無力な人間が本能的に宿す大宇宙(現象世界)への畏怖や無知や崇め敬い讃え感謝する精神を、妄想により捏造した得体に知れないものが取込んで、その座にちゃっかり治まっているのだと言えよう。神や仏が人間を造ったのではなく人間が神や仏を妄想したのである。予言や迷信やカルトな思想なども人の妄想が造ったのであり、空理空論や詭弁と能書きで正当化を図り、人の感情に訴えようとするが理性で思考するならば容易に判断できる筈なのだが、世人は元来が感情(貪瞋痴)が感受する刺激がお気に入りなので妄想により捏造された幻想に魅入られ易いのである。   
神や仏そして悪魔や鬼が何処にいるのかと問うならば、それは皆の心の中に全て居るのです。                  理性に勝る神は居らず、感情(不善処)に勝る悪魔は居おらず、自我に勝る鬼など居らず、よく調えられた、その身こそが仏なのですから。           
一例として最近、見聞した笑える話を一つ披露しよう。           
「大乗自身が、大乗の出自の卑しさの馬脚を現す」              
大乗はいう「大乗とは瞑想の中に釈尊の教えを聞き、出来たものである。」   これは明らかに「大乗とは妄想の中に釈尊の教えを聞き出来た。」と言っているのであり、  その論拠の(一)大乗が成立した経緯は、釈迦尊が入滅され300年位が経過した時代において各部派に於いて指導力に劣る者が指導者と成る事が増え、それにより修行しても四向四果の流れに乗れず脱落した者達が興した運動が「大乗」という誰でもが安易に悟り幸福を得る事が出来る方法を捏造(妄想)したのである。   
論拠の(二)修行を脱落した原因は明白なのである。今でもよく見受けられる修行から脱落する者達に共通する「忘筌」という問題、これは理論や形式に拘ったり捉われたりして基本や実践を蔑ろにする事であり、先ず専念すべき四念処における最初の気付きである心念処「妄想に気付き、陥らない」という訓練の基本が身に付いて居ないから次の集中や発見へ至る為に「ただ眺める」ことが出来ず妄想の中に幻想を抱いてゆくのである。正に妄想により大乗は造られた証の一つであろう。論拠の(三)300年前に入滅された釈迦尊が自分に語りかけて来た。と幻想する人間の特徴は①仏教では死後に、この世の者達に語りかける理法などない。(迷信や土着の信仰などに根差す妄想なのである。)
釈迦尊に於いても「輪廻の軛から外れ二度とこの世には戻ることはない。」と仰っているのだから不遜な妄想でもあるのである。

③多くの弟子や修行者達の中にあって自分は釈迦尊が語りかけて来るような特別な人間であるという自我に侵された自惚れと錯覚の中に思考する未熟な妄想思考者である。   論拠の(四)大乗が当時も流行っていた本覚思想やカルト思想を取り入れたのは「所有の次元」を彷徨う者の欲得への執着によるのであり、信者が欲しい、権威が欲しい、勢力が欲しいなど新興宗教の本質による成立なのである。(兎角、真理と真理へ至る道を正しく指し示す事が出来ないものは本覚思想かカルト思想を掲げる。)
『妄想とは、煩悩(存在欲)から生じる感情(貪瞋痴)による感覚から生じ、  雑念から妄想へと陥り、妄想により自我は形成され、自我により妄想は深まってゆく。故に、「雑念に気付き妄想へと陥らせない」⇒「自我に気付き妄想へと陥らせない」⇒「妄想の制御に依り感覚を制御せしめ」⇒「感覚の制御によりて感情(貪瞋痴)を制御せしめ」⇒「感情(貪瞋痴)の制御により煩悩(存在欲)を制御せしめ」⇒制御され調った煩悩(存在欲)は安定化を得て執着や渇愛から解き放たれ真の生きる意味をも悟る。故に「雑念を制御できずして集中するは能わず」⇒「自我を制御できずして、妄想を制御するは能わず」⇒「妄想を制御できずして、感覚や感情(貪瞋痴)を制御するは能わず」⇒「感覚を制御できずして、感情(貪瞋痴)を制御するは能わず」⇒「感情(貪瞋痴)を制御できずして、煩悩(存在欲)を制御するは能わず」⇒煩悩(存在欲)を制御できずして、生死の軛から解き放たれ、悟りて梵住するは能わず。 これ以外に涅槃に至る道はなし、もしこれ以外に涅槃へ至る道があると宣う者、皆、邪見なる者である。                  正観すれば厭離の心を生じ、悟りは自ずと啓かれる。これ全ての悩みや苦しみから真に解き放たれる唯一の道なり。』               

雑念に気付き制御する事が出来なければ妄想へと陥り、妄想は暴走してゆき暴れ馬の如く振る舞い、感情に主導され自己中心的な自我による妄想へと深まって妄想を現実の如く錯覚させもする。妄想が更に深まると幻視・幻聴・幻覚さえも現れる事さえあり、妄想とは人を欲深くさせ本覚思想やカルト思想や神秘的で非現実的な物事に魅入られるのは欲深くなった感情(貪瞋痴)による妄想が理性を凌ぐからである。」            雑念の中に閃き在り、しかし殆どの雑念は妄想へと陥らせる。         
雑念を雑念だと確かに気付き、妄想を妄想だと確かに気付くならば、雑念や妄想とは呼ばず想像なのである。           妄想により人生を誤る者多し、妄想により心を病む者多し、妄想により現実より逃避する者多し、妄想により貪瞋痴を深め、苦悩の中を流れる者多し。      
妄想に陥らない法、それは自ら今という瞬間々々に気付く事だけである。    
普通の人達の認識している世界とは、五官(眼耳鼻舌身)から入ってくる情報を「意」で捏造して受け取り妄想して、妄想により達した結論や主観を真理であり事実であると錯誤してしまい偏ったり誤まったり歪んでしまった見解を積み上げてゆく。ストレスの多い現代社会に於いて増えてしまったのが躁鬱症やそれを重症化させた精神分裂症などの心の病であるが、現代医療では根治を放棄して対処療法に終始して、その指導する内容は症状を和らげる事を目的としていて、根治させる方向性からは却って症状を固定化させたり重症化させてしまう治療を行ってしまっている事は、そのような症状をお持ちの方たちが真正な仏教を学ばれると次第に症状を軽減させ根治させてゆく事からも明らかな事だと思っている。