三学と三毒

仏教で自ら修めてゆく三学を戒定慧(自戒.禅定.智慧)と言い、自ら拭ってゆく三毒を貪瞋痴(貪欲.瞋恚.痴愚)と言います…
この二つは功徳と苦毒という真逆な果報へと通じてゆく重要な項目なのです…
両者の関係性は、煩悩(存在欲)の渇望により生じる三毒(貪瞋痴)を滅却し解き放たれてゆく為の三学(戒定慧)であり、貪欲は戒めによって抑え、瞋恚(激しい怒り)は禅定によって抑え、愚痴(愚かさ)は智慧によって抑えてゆくのです…
[戒定慧]と[貪瞋痴]を説かない仏教は[仏教]ではない!と言い切ってしまえる程.仏教の核心でもあり、仏教とは呪文や真言やお題目を唱えることでも.得体の知れない神様や菩薩や如来に縋る事でも讃え.崇めて保護.安全.ご利益.幸運を乞うことでもなく、[戒定慧]の三学により.煩悩(存在欲)による三毒(貪瞋痴)が造り出す苦しみの連鎖から解放されることなのです…
ですから苦しみの連鎖から解放され平安.歓喜.悦楽.静逸.堅固な幸せへと向かう為には.出家であろうが在家であろうが、拝もうが拝むまいが.儀式.儀礼を行なおうが欠こうが.瞑想道場に行こうが行くまいが.無関係な事柄であり、寧ろ既成概念や思い込みや拘りなどに縛られた頑迷で尊大な人達より.無明でも素直な一般の方々のほうが、余程、目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれ(解放)、堅固な幸福を得る事が出来るのです…
【戒(自戒)】
戒とは戒律の事ではなく自戒することを言います…
一般には身口意(行ない.言葉.考え)を律すると説かれますが、自らを戒めて律する為に必須な[気付き]が重要なのです…
無明な人は、存在の欲望(存在欲)の衝動(これが業・カルマであり煩悩の正体なのです)によって生きているのです…
ですから.人は自分という存在を否定しては生きられないので、常に[自分は正しい][自分は特別]という根拠のない衝動に突き動かされて生きているのだと言えるのです…
ですから[貪瞋痴]思考で生きている人達は、心の中に不満や怒りが積み上がってくると心が貧しくなり.尊大になってゆくのです…
[己の愚を知るが賢者なり]と言われるように、その愚かさに自ら気付いて.戒めながら、煩悩(存在欲)の三毒から解き放たれて行くのです…◆禅定(定)へと向かうには[五蓋]を浄化しなければなりません…
五蓋(三毒を含む)とは…
※五つの煩悩(存在欲の生体反応ー貪欲.瞋恚.睡魔.掉挙・疑)※貪り.怒り.眠け.心のざわつき.躊躇いの五つ。
煩悩(存在欲)とは言い換えれば自分の存在価値観であり、自分の存在性に対してプラスだと感じるものには貪りの気持ちを生じさせ.引き寄せたいと欲し、自分の存在性に対してマイナスだと感じるものには嫌悪や怒りの気持ちを生じさせ.遠ざけ排除しようと欲し、自分の存在性に対してプラスマイナスの判別に迷うものにはうろたえる(狼狽)のです…

自分の存在価値を肯定してくれる物事には安易に同調し、自分の存在価値を否定する物事には嫌悪する…しかし如何に耳に痛い事だとしても.本当に自分の存在価値を高めるのは、真理に基づいた気付き.目覚め.脱却.解放なのですから…
【定(禅定)】

欲望と雑念と妄想により汚れた[頭の中のゴミ屋敷]を浄化して、集中力を養い.自覚と気付きを高めてゆく事であり、立っていようが.座っていようが.臥していようが.身を律し.呼吸を調え五集中要素(五蘊)や思考のグルグル.ゴチャゴチャ回転を止めて、在るがままに自分を眺めるのです…
■定とは禅定(瞑想)の事ですが、禅那(サマタ乗)精神集中.無念無想.止観と定(ヴィパッサナー乗)観照.洞察とのペアで修養してゆきます…
一禅から四禅は精神集中.止観(サマタ)がメインとなり、一定から五定までは観照.洞察(ヴィパッサナー)がメインとなります…
初禅から四禅⇄一定から五定⇄(逆順)五定から一定⇄四禅から初禅→(確認)初禅→第二禅→第三禅→第四禅まで
定 空無辺処定⇔識無辺処定⇔無所有処定⇔非想非非想定⇔想受滅 
<全ては一息の内にあり。>
 ◆禅(徹底思惟)⇒定(思惟停止・止観)⇒梵(トランス状態)⇒定(無念無想)⇒禅(正念正智)⇒解脱
 ◆大悟への瞑想
 徹底思惟の瞑想 
 (禅)止観 無念無想
 精神統一の瞑想
 (定)観照 気付きの瞑想 ヴィッパサナー瞑想
 平安の瞑想⇔開放の瞑想⇔歓喜の瞑想⇔感謝の瞑想⇔慈悲の瞑想⇔無所有の瞑想⇔明知の瞑想
 ★四つの条件を揃え、五つの蓋を超えると正しい禅定となり四つの心三昧が現われる
★定は釈迦尊の瞑想法である…
★大切なのは集中.気付き自覚である…
★息数法は雑念や妄想へと繋がり易いので、
ただ呼吸を眺める(呼吸に思考を添わせる)
★神仏が現れたとか、第三の眼が開いたとか欲望による愚かな精神分裂ぎみの妄想に陥らないよう集中.気付き.自覚が重要なのです…

★大きな誤解(禅定ではゴール出来ない)
大悟して解脱し涅槃に成道させるのは[瞑想]でもまた[高度な瞑想]でもなく[気付きと智慧(叡智)]である事を忘れてはならないと釈迦尊も仰っています…
寝呆けた者や無明な者は瞑想三昧の内に.大悟や涅槃を得ようという欲望に縛られた瞑想に陥り易く、悟りとは無明さを脱落させ闇が開ける(つまりは愚かさを捨て去り)啓くものであり、欲して得られる性格のものではなく欲望の瞑想とは悟る処か欲心(悪魔)に魅入られて妄想に誑かされてしまうのです…
 ◎如実知見とは「在りのままに見て、在りのままに知る」
★禅定(瞑想内観.観照)
禅定で重要なのは[自覚と集中と気付き]であり、数を数えるのも(息数法)もラベリング(マハシ)してゆくのも思考である…坐禅に拘る(禅宗)のも.捉われである…立てよ座れ!
悟りを求める欲望の瞑想は、無明な人の心を貧しく醜くさせてゆく…[思考]と五集中要素(五蘊)のグルグル回転を止めて、感覚.感情.主観を止めて、感知.認知を自覚しながら[在るがままに在る]を眺めることを心掛ける…
心が調ってくると、自分の呼吸を眺めている自分を、眺めている自分がいる(内々観)
〇八つの解脱    
 1.初  禅 内心において「物質的なもの」という想いの者が、 外において物質的なものを見る…
[思いが在り考えがあり欲を捨てて生じる。歓喜を体験し無欲の歓喜で満たされる。]   
 2.第二禅  内心において「物質ならざるもの」という想いの者が、外において物質的なものを見る…
[思いがなく考えがなく想を捨てて生じる。歓喜を体験し無想の歓喜で満たされる。] 
 3.第三禅  己とは不浄なものであり世界とは清浄なるものであると覚る…
[正念があり正智がある喜を捨てて生じる。大楽を体験し無喜の大楽で満たされる。]
 4.第四禅 「物質的なもの」という想いを超越し抵抗感を消滅し「別のもの」という想いを起こさず.個々に存在するのではなく全て[無辺なる虚空]であると観じ、空無辺処に達する…
[大楽がなく清浄がある楽を捨てて生じる。空性を体験し無楽の空性で満たされる。]
 5.空無辺処定 全てが法と真理のもとにあり」と観じ、識無辺処 に達する
 6.識無辺処定 全てが無辺なる識であり虚空を分断するは無辺なる識であると観じ、無所有処に達する。   
 7.無所有処定 在るのはただ想いだけであり「想いが虚空と一体 化した」と観じ、非想非非想処に達する。            
 8.非想非非想定 想いが在るでもなし無いでもない境地。その境地を超越し「表象も感受も消滅する境地」 
 9.滅想受定(トランス状態)大宇宙の意思

 

根の制御=眼によって色を見ても相をとらない。聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、意によって法を意識しても、同様に、相をとらない。

正念正知=何か動作をする時、意識的に行う。
五蓋の断=貪ぼり、瞋り、のない心を持続する。浮つき、後悔、疑いを捨てる。
禅定(瞑想.サマタ・ヴィパッサナー 止観.観照)
初禅=喜びと安楽のある禅定。大まかな思考(尋)、細かな思考(伺)がある。初禅から第四禅までの詳細は、別項「四禅」に述べた。
第二禅=思考がなく、喜びと安楽のある禅定。
第三禅=喜びを離れ、正念正知にして、身の安楽のある禅定。
第四禅=楽を捨て、苦を捨て、平静と正念のある禅定。
【慧(智慧)】
学問.知識.情報.思考や思想的な分別探求の方法では実現できない、[戒定慧]の実践によってのみ実現する智慧(叡智)…これを「般若」ともいう…

宿住随念智=自分の過去世の生涯を知る智慧
自分の過去の種々の苦しみと自我(エゴ)によって他者を害した因縁がはっきりとわかる事…

死生智=他の生ける者の死と再生を知る智慧。他の者が、劣、優、美、醜、不幸になることを認知する智慧
苦や煩悩のない処を証したので、そこから離れ自己の苦と他者を苦しめる自我(エゴ)がはっきりとわかるので、他者の心が読める
苦のもとを見抜く、エゴを見抜く…

漏尽智=苦の四聖諦、漏(煩悩)の四聖諦を認知する智慧
人間の本性(根源、但し実体ではない現象的存在)は、苦や煩悩がないことをはっきりと自覚することである。それによって、苦や自我(エゴ)などの様相と捨棄の実現する…

解脱と解脱知見=欲の煩悩、生存の煩悩、無知の煩悩から解脱する。解脱したことにたいし解脱したという知が生まれる。そして、「再生は尽きた。梵行は完成した。なすべきことはなし終えた。もはやこのような輪廻の生存を受けることはない。」と認知する…
[欲の煩悩][生存の煩悩][無明の煩悩]のない真の自己を徹見する体験をする。意識分別による理解ではなく前述の戒定慧の三学による体験的自覚であり「解脱した」という智が生まれる…そして「再生は尽きた…梵行は完成した…成すべきことはなし終えた…もはやこのような輪廻の生存を受けることはない…」という認知は、霊魂.魂のような実体はないことを.体験的な理解により再生.再々生.輪廻というこの時空に繋ぎ止められた因縁[継続の連鎖]からの解脱である…