諸悪と苦しみの根源(無明)

問題の本質や秘密や原因を等閑にしたまま深く思慮する事もなく、他愛のない理想論を語り、そんな自分に酔っ払っているような人をよく見かけるが、理想と現実とのギャップにより生み出されるものはドゥッカ(不安定・不完全・苦・悩み・空しさ・怖さ・弱さ・無知・無益)である事に気付く事もなく、ただ溜飲を下げてるのは単なる憂さ晴らしなのであろうか。
すべての悪の根源は無明(無知)であり、盲目的な無明(無知)によって生み出される利己的な欲望であり自分に捉われ拘る自我意識であり[自分の都合][自分の立場.状況]を優先しようとする「私(自我の妄想)」であり、それらに執着してしまう愚かさである。それは偏った見解であり、誤った概念であり、歪んだ観念であり、誤認であり誤解であり錯覚による主観的な感情である。
世界は所有の次元の事物に欠乏し血眼になって獲得を争っている。世界は所有の次元の事物に魅入られて皆がそれこそが自分に幸せと安心と喜びを与えてくれるものだと幻想し、世界は所有の次元の事物を欲しがって儚い夢幻を追っている。
世界は所有の次元の事物の奴隷と化し、傅き崇め讃えている。
それにより存在として尊い価値や意義を貶めながら利己的な欲望の達成に余念がなく、国家も地域も集団も個人も争いから離れる事が出来ないでいる。世界は燃えている。利己的な欲望の炎で燃えている。この現実こそが世界の全ての諸悪の根源なのである。
先日も愚かな学者が人間には「個人的利己性」と共に「集団的利他性」を持っていて現代科学で証明されていると宣っていたが自己中心的に自分の都合で物事を考える自我意識と人種差別や純血主義による他民族への迫害が繰り返され根絶されるどころか殖えてゆく現実を何故だと言うのだろう。全く局所的に断片的にしか捉えていない偏った観念であると言え、自我であれ無我であれ個人的にも集団の中に於いてさえ利他性を優先する時とは所有の次元的価値を乗り越えて存在の次元的価値を追求し選択する場合であり人格・人徳・人質・教育・環境・教養・情緒・智慧などによる精神性の程度により集団的利他性が現れるのであって、和の精神・思いやり・礼儀・道徳・状況判断などを含めて生後取得されたものであり本質的に不完全で、不安定で、脆く、弱く、儚く、空しく、怖れ、愚かさ、無知(無明)、欲により成り立つ人間の本質とは自分という存在の自己防衛欲と自己保存欲であり、集団の中において依り楽に安心して生活する時に要求される協調性を保つ為であり、自利と利他との中道を目指す仏教思想を説かれた釈迦尊(ブッダ)の深い洞察力に現代科学が今未だ追いつけないでいる証であると言えよう。
現に、社会の中で自己の利益や欲望を持たない人間など見たことがない(偽善的な自己犠牲を騙る詐欺師は居るが)、集団的利他など全く持ち合わせて居ない様な人間は掃いて捨てる程いるではないか。
如何に立派な主義主張を宣っても実践的な実証が伴っていなければ唯だの絵に描いた餅か他人の牛を数えているだけに過ぎない。単なる理論や形而上学的哲学や観念が、実践により実証され確証を得た事実を包括する事など出来ないのである。
物事を何故、そうなるのか或いはそうならないのかと世界を懐疑の眼で眺め、その疑問に真剣に実践的に取り組んでゆく勇気がなければ、世の中は何も変わって行かないのである。
世の中に溢れる自惚れた主観に惑わされ、事実を見誤ってはならず
物事は疑問や戸惑い、躊躇いがある限り進歩してゆくことなど出来ず、些細な事から一つ一つ絡みついた無知(無明)を解いて行くことが必要なのであり、また物事が真に理解できず明晰に見えない限り、疑問が残るものである。それ故に本当に進歩してゆく為には疑問を無くして智慧や叡智に置き換えてゆく事が絶対に不可であり、疑問をなくしてゆく為には、物事を権威や先入観や既成概念や固定観念に縛られずに明晰に見ることが必要なのではあるまいか。
そして諸悪の根源とは人間の持つ煩悩(生存欲)であり、根深い煩悩による自分の利益への固執に他ならず、個人も国も世界さえも自分側の観点に縛られた利害により、争い、憎み、恨み、騙し、従え、苦しみ、殺し合い、傷つけ合い、迷い、惑い、悩んでいるのである。
煩悩を制御せず乗り越えず克服せず、根深い煩悩の奴隷状態に気付くこともなく所有の次元の物事に翻弄されながら、平和や慈しみや愛や共生や自由や平等や解放を説く者は主観的な感情論か詭弁を弄しているか偽善者か浅薄な者でしかなく、それは片手でこぶしを握りながら片手で平和を説いているのであり、達成できない理想論を語っているか騙っているのに等しいのではないかと思う。これらを真に達成してゆくには、人類ひとり独りの自覚であり、人としての質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステージ)を上げてゆかなければ到達できないものではないかと思う、仮に外に敵を作りだして内部で一時的に団結と安定状態を造り出したとしても、本質的な問題は何も解決されることはなく、何処かで互いに争い、憎み、恨み、騙し、従え、苦しみ、殺し合い、傷つけ合い、迷い、惑い、悩み続けてゆく、愚かな人間は欲望に支配されるが欲望こそが理想の敵なのであり欲望を抑える事が出来れば理想を守ることが出来るのである。
慈悲について考えて言うならば、自己の利益に執着した叡智に欠ける利己主義的な欲望や自我意識に拘ったまま自愛と自惚れた小賢しい論理で正義や慈悲を振り翳しても蟷螂の斧である上に感情論か観念論でしかなく、世の中に溢れかえる慈善ビジネスという不善行為が罷り通る歪んだ社会が形成されてゆく。真に慈悲の心が育成され世の中に慈悲を根付かせてゆく為には、先ず自分の本質を見極め、無知(無明)という本質により生起している欲求の動機(行)という業(カルマ)による不安定要素が条件に拠らない安定を得なければ真の慈悲心は生起せず、欲求の動機(行・カルマ)を安定化させる為には、欲求の意志(識)という煩悩(生存欲)を安定化させる必要があり、欲求の意思(識)という煩悩(生存欲)を安定化させる為には、六処という目的意識・選択意識を安定化させねばならず、六処を安定化させる為には五感官による外界に於ける所有の次元への愛着、貪欲、執着に翻弄されない精神がなければ真の慈悲心など捏造され錯覚された幻想に過ぎず、慈悲とは真に高められた人格(レベル)人の質(クオリティ)人の境地(ステージ)による精神より、無知(無明)を叡智へと入れ替えた時に現れて来るものなのであり、直接的に思考域にいくら働きかけても実は発現しないのである。
重ねて言うならば、真に平和・平等・慈悲・友愛・共生などを達成してゆくためには、一人一人が人としての質(クオリティ)・人格(レベル)・境地(ステージ)を努力と啓発と自覚を以って高めてゆかなければ決して達成しえないことなのである。