洗脳(染脳)の罠

社会には[欲望の罠]が張り巡らされています.それを自覚する事も気付くこともなく、欲望の趣くままに.無明の闇の中を盲目的に手探りで歩いてゆく如く.無警戒で生きてゆけば必ず人はドゥッカ(苦.悩み.心痛.悔い.迷い.哀しみ.弱さ.脆さ.儚さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.無常.不安定さ…)へと行きつくもの。

現代社会ではそれが特に顕著だと言え、我欲に焼き尽くされた者達は.自身の幸福の為には他者を犠牲とする事を厭わず、社会に罠を張り巡らし、生贄(餌食)が引っ掛かるのを待っているのである。
新聞広告やテレビコマーシャルやインターネットなど発達した通信環境世界に溢れ返る知識や情報.宣伝(コマーシャル)を.欲得に駆られて無明に信じ込み、無価値なものを買わされたり.染脳(洗脳)されたり.散財したりしているが、特にインターネット(SNS.Youtubeなど)には.その類の宣伝広告や提灯記事や眉唾な評価で溢れ返っている。
しかし多くの人達は、自分は詐欺被害に会ったり.染脳(洗脳)なんかされないと根拠なく自惚れているものだが、実はそう思っている方が実は非常に危険な方であり、却ってそんな根拠のない妄想や錯覚に陥っている人ほど悪人達の巧妙な罠に.造作なく絡め取られて騙されているのが現実なのです。
誰でも、旨い事を宣うもの事には先ず疑ってかかるものです、しかしその疑いも.得体の知れない眉唾なものであっても.肯定的な知識や情報を繰り返し.繰り返し.入力(インプット)され続けると、元々が興味があるから心に引っ掛かったのだから、貪欲が頭をもたげ出し.この機会を逸する損得を心配しだし.真理(真実)を観た訳でもなく.疑いは欲望により信じよう.信じたいという妄信へと変化してゆき、続いては自分の妄信への愛着により.欲望の罠に掛かり、生贄(餌食)となってしまうのです。
罠を張り巡らす悪人は誠実を装いながら巧妙に安易な安心を与えたり錯覚させたりしながら生贄(餌食)を徐々に雁字搦めに絡め取ってゆくものであり、[巧言令色鮮し仁]と言われるように耳障りの良い話には特に気をつけましょう。
なまじ観察も分析も思惟も思推も検証も確証も真実も持たずに.根拠なく疑心暗鬼になったりする人とは、却って欲望の罠に絡め取られ易いと言え、罠を張り巡らす悪人は巧妙に安易な安心を与えたり錯覚させたりしながら生贄(餌食)を徐々に雁字搦めに絡め取ってゆくのです。

広い範囲でいえば染脳(洗脳)されていない人間なんて一人も居ないのです。
先ず教育という染脳(洗脳)を受けています。
例えば共産圏では共産主義的な洗脳を受けて育ち、自由主義圏では資本主義的な染脳(洗脳)を受けて成長していますから、同じ人間でも随分と違う人間となってゆきます。
此れもある意味、染脳されているのです。
その他、文化.環境.家庭や地域.主義.主張……数え上げたら切りがない染脳(洗脳)を既に受けて育って来ているのです。
恐らく今日も洗脳の結果により自殺してしまった人がいる可能性は高いです。
染脳(洗脳)を極めると合法的に人の人生を奪ってしまい.その上に感謝される事も、人をあの世に送ることも、合法的に全財産を奪うことも安易な非常に危険な技術なのです。
しかし、良く使えば人を救える素晴らしい技術でもあるのです。

つまり、使用方法が問題なのですが、最近では間違った考え方や観念を洗い流し浄らかで正しい考え方や観念に変えてゆく[洗脳]ではなく、偏った観念や間違った思想に染めて行く[染脳]ばかりが悪用されていて、右見ても左見ても洗脳ならぬ染脳だらけなのです。

⚫洗脳される者と洗脳する者とは、師匠と生徒や弟子の関係性を形成するのですが、
一方の染脳される側と染脳する側とは、合法的な被害者と加害者、狩人と獲物との関係性を形成してゆき、この先、この両者は.はっきりと分かれていく事でしょう。
この染脳しようとする側は、人の欲望に漬け込み、染脳される側は欲望への渇き(渇愛)に翻弄されていて.しかも染脳されている側はまさか自分が染脳されているとは気付かない巧妙さで、今まさに染脳国家日本とも言え.
この目には見えず気が付かない危険に知らないうちに操作され誘導され汚染ているのです

洗脳(染脳)の怖さを謳い、洗脳(染脳)されない方法だと.浅薄な権威に寄せて眉唾な本を売付けたり、引き寄せの法則があると染脳して.自分達に金財を引き寄せたり、脅し込み死を怖いと思わせれば、長寿や墓や極楽や来世を無責任に約束して儲かり、不安感を植えつけ自己暗示不安増殖システム染脳を施せば長期的に関係ある業界が潤います。

つまりは大衆とは.あっちからも.こっちからもコロコロ転がされて染脳されまくってるのにも関わらず、悲しいことに気付く事が出来ないわけです。
民衆であっても付和雷同して大衆化せず、大衆迎合主義にも陥らず、本質に気付く為には生存の素因である欲望(生存欲.自我欲.所有欲.…)への執着により.貪欲で欲深くなる自分を戒め、真理(真実.現実.事実.実相.摂理.自然法則)の理解に努めてゆくべきなのです。
そんな染脳されない賢明な人間は、染脳する側の者達にとって邪魔な存在なので、徹底した人格否定や攻撃や排除を試みますが、歯牙にも掛けず無視する者は勝利者となり、巻かれた者は敗者となるのです。
⚫染脳されない本当の本物の自分。
それを多くの人間に見つけて頂きたいと思っております。
それが脱染脳である本当の洗脳であり、病気克服.精神病克服.いじめ克服.あらゆる悩み克服に繋がり、健康.健全.安全.長寿.平安.歓喜.幸福へと繋がってゆくのです。

人の苦しみとは、実は染脳により型にはめられたことによって、本来不必要なのにもかかわらず故意的.作為的に仕向けられていて、それは生まれてから死ぬまで気付かれずに注がれ続ける毒素のように静かにジワジワと効いているのです。
逆に言えば、人は実は苦しまなくても良い存在だと言う事です。権力者や指導者とは我欲の塊であり、我欲を優先して大衆の利益を謳いながら苦しみや悩みが出てくるようにガチガチに仕向けているから、そうなっているだけなんです。そうやっ自分達はガッポリ儲け.毎日ウハウハと下卑た顔をして「笑いが止まらない、運が良い(笑)」と、慚愧なく過ごすのです。
染脳される人間が増えると日本は間違いなく益々、貧富の差は拡大し.世の中には不満が充満し.犯罪率は上がり.虐げられる人が増えてゆきます。
そんな殺伐とした流れを止める為には一人一人が個を確立し染脳され.誘導され.搾取されない自分になることが最善の方法なのです。染脳(洗脳)は気付かずに影響するので、自分は染脳されないという根拠のない思い込みではなく現実的な観点から染脳されない人間になってほしいのです。今日まで無警戒に受けて来た.間違った染脳を洗い流すことが洗脳であり、間違った見解.偏った観念.愚かな執着.無明さに染められた心を、洗い直す自覚が必要であり、お釈迦様(ブッダ)の教えとはそんな無明ゆえに染められた汚れた心を.正しい方法(八正道)により洗脳して輝かせてゆく教えなのです。
そんな染脳された世の中(社会.親.教師など)に、純粋な心が無意識に気付き、子供なりに反発するのが不良化の始まりなのであり、染脳された世の中(社会.親.教師など)に素直に向き合ったせいで、影響された心の病でもあると言えるのです。
そんな染脳により.今苦しんでいる人間のマイナスを一気にプラスへと変える事も出来るのが洗脳作業であり、つまりは[宗ねとなる教え(宗教)]と[信仰]とが.実は真逆な性質のもので在るように、染脳と洗脳も実は真逆な性質のものなのです。
⚫信じる者は騙される
無思考に、権威に騙され.世評に騙され.伝統に騙され.欲望に騙され.風説に騙され.肩書に騙され.人は真理(真実)を見ようとはしない。
社会をつらつら眺むれば今まさに真の仏教思想を説く事の重要性を痛感せずには居られない。
釈迦尊(ブッダ)の教えを紐解けば、先ず世の中には汎ゆる欲望の罠が張り巡らされている事を認識し欲望に駆られて疑う事を忘れ無闇に受け入れたり鵜呑みにして信じる者は凡そ罠に絡め取られ騙されるものであり、いっけん整えられ化装されてはいても世の本質は弱肉強食に変わりないない事を忘れてはならないのである
仏教とは物事を鵜呑みにしてはならないと説く教えだと言え、例え仏典であっても釈迦尊(ブッダ)が説かれた教えであろうと、権威あるものでも.皆が揃って正しいと評価している物事であってもそのまま鵜呑みにして信じ込む妄信を戒め、自ら冷徹によく眺め.分析し.思考し.検証し.確証を得て信じる正信により真理(真実.現実.事実.実相)へと向かうのである悪者共の味方をする理由ではないが、騙されるのは騙される方も悪いという論理にも一理あり、巧言令色鮮し仁と言われるように元来、性善説を唱える人や国ほど相手の隙に付け込む帰来があり、それは相手の油断を誘う手口なのではないかとさえ思われる節がある。
もし人が賢明であって騙される者が居なければ悪人共は自然淘汰され駆逐されてゆくものなのだが、現実は見事に人を騙し味を占めた悪者共に更なる悪事へと向かわせる力と欲望を提供してしまい悪人共を増殖させ蔓延らせてしまってゆく自己責任は否めない。
かと言って疑心暗鬼になって物事を疑うばかりなのも不毛な事であり折角の進歩やチャンスを取り逃がす事にも成りかねない。
主観的な欲望や嗜好で物事や知識.情報を鵜呑みにし受け入れ信じる者が騙されるのは当然な帰結であり、悪人共は人々の欲望.嗜好に沿って汎ゆる罠を仕掛けていて欲望や嗜好に魅入られ執着する者達は例へ荒唐無稽な事柄であっても否、それが荒唐無稽で在れば在る程に興味を唆らせ染脳を阻む理性(客観的思考)を自ら脱落させてしまうからに他ならない。
戦後日本を奇跡の復活と言わしめた発展や発達は自由で豊富な創造性や柔軟性や培われた利他の精神により達成され、又、今のイノベーションを喪失した日本を造り出したものが硬直した盲目的な「当たり前」[常識」思想であり、浅薄な常識や正義という言葉に対する無思考な錯覚であり、情報3行(マスコミ.TV.ラジオ.新聞.出版.コマーシャル.インターネット)が垂れ流す作為があり.偏ったり誤った情報や惹句に騙され染脳され、権威や伝統に阿った作為があり.偏ったり誤った見解や情報や惹句を鵜呑みにして真実(事実)だと思い込み、固定観念.既成概念.先入観.錯覚.捏造.幻惑を造り出し、自ら深く眺め.観察し.調べ.分析し.思惟し.検証し.確証を得て信じる事を怠り、何も真実(事実)を知らないにも関わらず感覚的に理解したつもりになっている人々を増殖させ、日本人の精神を劣化させ、凡骨化(ポンコツ化)させた一部勢力による遠謀な作為さえ疑わずには居られず、欲深い人が増え.自分勝手な人が増え.クレイマーが増え.不満だらけの人が増え.NIMBY(not is My back.yard)な人が増えて来たのも、社会に溢れ返る作為あるものや偏ったり間違ったりした情報や知識を無思考に鵜呑みにして信じ込んだ無明な愚か者を増やし、ひいては日本人を劣化させ、劣化した親により更に劣化した子孫を生み出してゆくのではなかろうか。
⚫洗脳と染脳とは真逆な性質のもの
洗脳とは本来は、誤った見解・思想・観念などの邪見や無知による誤解や錯覚や心の汚れなどを洗い浄め、頭の中に積み上げごみ屋敷化した情報や知識や思い込みや既成概念や主観を廃棄、洗浄し、新たに正しい真理や有益な知識を積み重ねて行く事をいうのだが、一般社会ではマインドコントロールプロパガンダなど迷信や妄想や作為的な観念で偏った見解や知識などを植え付け、人々を盲目的追従へ陥らせ愚かな思想の支配下に誘導する事が「脳を洗う(洗脳)」として使われているが、これは洗脳ではなく明らかに「脳を染める(染脳)」なのであり、皆、子供の時分から何かしらの思想に染められていて、独裁国家では君主を神の如く崇めることを染脳教育され、社会では「所有」こそが幸せの道だと周りの世間やマスコミやコマーシャルなどで「染脳」され物欲思想や拝金思想に陥り、宗教団体(信仰集団)から「疑る事なく信じれば必ず幸せになれる」とそれと気付かせず盲目的な無思考状態へと「染脳」してゆき、中には神の名のもとに命じられる侭に大切な命さえも犠牲にしたりしている。      
それらは皆、人間が有する根深い自己防衛と自己保存という本能的な部分を刺激し人間がもつ弱さや怖れ無知や欲を翻弄し、人間の煩悩(貪欲・瞋恚・痴愚)に働きかけて植え付け刷り込んでゆくので、染まった色を正しい清い色に染め直すのが、実に至難なのであり、妄想された神や仏や力に依存することにより一時的には安楽や歓びなど安定感を得ることが出来るので染められ染脳され易く、除々に一時的な安定感を失い不信感が芽生えると尚更に信心してゆくことを染脳され深みに嵌ってゆき、それは作為ある者たちの価値観や意味により生きることであり、自らが具する真の生きる意味や価値感を喪失させ盲目的な人生を送る事に他ならない。   

カルト教団や神や霊とか霊言とかに多くの真面目な人々でさえ騙され続けたり、教養ある人が俺々詐欺に騙されるのも、感情(貪瞋痴)に働きかけ、理性(客観的思考)を弱め喪失させるからに他ならない。因みに信仰とは偏った思想を植え付け染脳するものであり、宗教(むねとなる教え)である仏教とは愚かさを取り去り捨てて行くものである(アーサバー・汚れの滅)
心(潜在域)とは感情の三毒(貪欲・瞋恚・痴愚)による不善処には染まり易く、理性的な思考(客観的な善思考)には容易には染まっては行かないものなのである。何故ならば心(潜在域)とは感情の三毒(貪瞋痴)による思考が好きで、思考域において妄想を深め渇愛の衝動(所有欲)に主導され苦と不満(決して満たされない苦しみ)を生みだしてゆくのであり、思考域をいくら改良しようと頑張っても潜在域が貪瞋痴に染まっているならば刹那の瞬間には貪瞋痴の衝動を選択してしまうのである心とは、気(潜在域)の思考を、意(思考域)の思考はなぞっているのであり又、意(思考域)の思考の反復と集中とにより、気(潜在域)の思考も変えてゆけるものなのである。「黒く染まった布に清き色を染めるは困難(決定邪見)、汚れた布に清き色を染めるには、先ず脱色(機魂と洗脳)を待ち,地色に戻して(解脱)行かなければ清き色には染まらない。」