平安こそ悦楽なり

人の心とは繰り返される「五蘊」の流れであり、人の身体とは変化生滅し続ける「集まり」である。心身の形成(結び目)が本能を生じさせる。
一切の形成されたものは無常である。(諸行無常
一切の形成されたものは苦しみである。(一切皆苦
一切の事物は我ならざるものである。(諸法非我)
そのように明らかな智慧をもって観るときに人は苦悩から遠ざかり離れる
これこそが人が浄らかな平安に至る道である。
智慧なき者に平安はなく、平安なき者に智慧は生ぜず。
智慧と平安とを具えるならば、実にこそ近し涅槃かな。
本能は生命に渇き(渇愛)を生じ、存在の欲(存在欲)を生じる。
存在欲(煩悩)は不安定(渇き)な本質を安定化させようと盲目的な生命への意思を衝動として潜在意識を通じ思考域へ伝える。
意識は五感官(眼耳鼻舌身)により外界へと向かい五蘊(色受想行識)により対象物(色声香味触)を刺激・情報として感受(色蘊)し、それを知識・経験等により表象(想蘊)し、意思(行蘊)の衝動を生じ、それに識蘊は何かしらの認識や識別(良悪・好嫌。美醜・是非・肯定否定)を生じさせる。
意識を対象物へ向かわせると五蘊は発動し、意識を対象物へと向かわせなければ五蘊は発動しない。定まりし「定」なる平安である。
瞬間に近い間に繰り返される五蘊の流れとその各蘊の生滅を観察し理解する生滅智を得ると心は軽安と安堵をえる。
しかし瞬時に受⇒想⇒行⇒識と流れる五蘊を捉えることは難事でもあり、感受と捉えた時には既に識蘊にまで達しているのである。五蘊の順観に於いては感受とサンカーラ(想蘊・行蘊)と識蘊が観え、サンカーラ(知識・経験の残滓と先入観・固定観念・妄想)により識蘊(認識・識別)が行われている。
瞬時に流れる各蘊の生滅智を得るためには、先ず逆観により、識蘊(認識・識別)の制御「判断・判別しない」を修し、識蘊(認識・識別)を制御を修し識蘊の生滅を発見したならば行蘊と想蘊が観えるようになる。次に行蘊を観察して行蘊の生滅を発見したら、想蘊を観察して想蘊の生滅を発見したら、感受を観察し感受の生滅を発見したら、意識を観察して意識の生滅を発見したら、順観により五蘊の生滅の流れを観察して瞬時に近い流れを発見する。(五蘊の生滅智により軽安と安堵の喜びを得る)
存在の欲による意識により感受(表象)した刺激(情報)は偏った想蘊を生じ偏った意志や衝動(行蘊)を生じさせ、不善処(貪瞋智)な識蘊(認識・識別)を生じさせてしまう。その後に理性(客観的理解・認識能力)が働き修正を試みるのである。
意識を向けなければ存在しない貪りや執着や怒り妬み痴愚などが存在欲の衝動により五蘊(精神作用・心理過程)により作られ続け、穏やかな心を
波立たせ、物事に対して感情的で偏った認識を生じさせ、捏造された主観や見解を真実だと勘違いしてしまい、心から平安を奪い去ってゆく。
仏道修行の基礎講座のおさらいでも在るのだが兎角、多くの仏教を実践的に志向する方々が、この仏道の基礎基本が明確に自覚出来ずに実践から脱落し、理論的な見解による仏教を構築してしまう向きがあるようにも覗え、改めて解説を交え「平安こそ悦楽なり」を認める。
実践の第一は仏教的な生活であり、在家であろうが出家であろうが釈迦尊が教えの中心である「自分自身を客観的にもっと見つめなさい。」という事であり「戒定慧」へと向かい「貪瞋痴(不善処)」から離れてゆく事なのである。(在家は五戒・出家はパーティモッカ(具足戒)である。)
【基本五項目】
●雑念や妄想思考からの脱却(四念処による受身心法への気付き)内観
●アーサバ―の滅尽(本当の自分の理解)内観
●サンカーラからの解放(先入観・固定観念からの脱却) 五蘊
●主観的判断(感情的識別)の止滅(感情的反応から理性的認識) 五蘊
存在欲への気付きと制御
【アーサバ―の滅尽】 漏れ出る汚れ、沁み入る汚れ
まず誰しも自分を客観的によく見つめることなど避けながら生きている。
自分自身を客観的によく見つめたならば、そこには「愚かで未熟で空しく、つまらない物事に捉われ、どうでもいい物事に拘り、下らない物事に気を取られてしまう存在である」という本当の自分を発見してしまい、自惚れながら自分の内に納得し、自己肯定の上に生きることが困難になってしまう恐怖に陥るからである。
しかし自分という存在が既にそんな存在では無いのならば仏道修行などは不必要なので自由に悟りの境地を生きて行って下さい。
真の自分に気付ける人こそが精進の道を歩み人間の質(クオリティ)を貴めてゆくことが出来るのです。
実践とは一から十まで自分の身句意をよく見張り、観察し、理解してゆくだけなのです。(その中に智慧が顕現し真理を発見してゆくのです。)


【 五  蘊 】 
【色 蘊】色かたち、「私」を分析すると、色かたちが見つかる。
ルーパ       名称と形態
★体とは常に変化生滅してゆき[私]という実体はない。 
【受 蘊】感受 五官(眼鼻耳舌身)を観察すると苦と痛みが見つかる。
ヴェ-ダナー 
★ 負担に感じる量の痛み・苦が消える事が、楽である。
【想 蘊】表象 五官により得た情報を確認・再確認・妄想している。
サンニャー 「花だ」「猫だ」「私は医者だ」「あれは何だ?」 知識・経験 
【行 蘊】意志・衝動 何かをしたい・何かしなくてはという気持ちがある。
サンカーラ 前の状態から次の「何かしたい」という力が変化しながら流てゆく
【識 蘊】認識作用、識別作用 
ヴィンニャーナ  頭が知る事ではなく心が識ること。
(心) 区別判断 良悪・好嫌・苦楽・是非・美醜・優等劣
主観的判断(感情的識別)の止滅(感情的反応から理性的認識)
   命・生きている認識・心のはたらき
◎区別判断するための情報(経験・知識)先入観、価値基準などを想蘊をつかって識蘊が識別判断している。(妄想)
心(ヴィンニャーナ)が働く為に、受(ヴェ-ダナー)と想(サンニャー)が必要で、そこには必ず行(サンカーラ)がはたらいている