真の勝利者

【山の彼方 カールブッセ】
山の彼方(あなた)の 空遠く
幸い住むと 人の言う
噫(ああ)我れ人と 尋(と)め行きて
涙さしぐみ 帰りきぬ 
山の彼方に なお遠く
幸い住むと 人の言う 
[山の向こう、ずっと遠い空の彼方まで行けば、幸福があるのだと誰かが言った。
それならばと私も他の人を誘って探しに行ったけれど…欲しかった幸福は見つからず、涙を浮かべて帰って来るしかなかった…
すると、さらに誰かが言う。
その幸福なら、貴方が探しに行った場所よりも.確かもっとずっと遠い山の向こうにあるのにと…]
他人というものは無責任な事をいうものであり、自らが理想を追うことを放棄してしまった人達は、理想の世界を夢.幻の如く捉え.忘却の彼方へと追いやって現実社会からの排除を試みるのは、大概が理想の実現に失敗した人とか.初手から諦めてしまっている人とか現実の前に打ち負かされた人に他ならず、しかし幸せとは足下に埋もれているものであり、それを教えてくれるのが[青い鳥]のチルチルとミチルだと言えよう…
世界中を幸せの青い鳥を探しながら.旅したが見つける事が出来ず.失意のまま故郷に帰り着き、何気なく家の窓の外の木の枝を見つめた時、そこに幸せの青い鳥がとまっていたというお話し…
 

勝者は怨みをかい敗者は苦しみを味わう安らかな人は勝敗を捨て幸せに生きる。
安らぎと幸せをもたらす唯一の勝利は、自分自身に打ち克つことである。
[戦場に於いて百万の敵に勝つよりも己一人に打ち克つ人こそ、実は最上の真の勝利者である。]
人は、他人の承認を欲したり、他人を征服しようと目論む限り、堅固で安定的な平和も幸せも手にする事は出来ない。

老子曰く[他人の優劣が理解できる者はただ知恵があるだけ]…つまり自分を理解できる者こそが聡明と言えるのです。他人に勝つことのできる者はただ力があるというだけ、例え世界チャンピオンになったとしても一時の栄華に過ぎず、例え世界の征服者になったとしても風の前の塵に同じ.今生の栄枯盛衰という無常な一時の現象に過ぎないのですから…唯一.来世へと運んでゆく心的エネルギーの次元運動性(業・カルマ.形成力)こそが次の生を決定付けるのですから…
感覚.感情に翻弄されて、煩悩(究極的には存在欲)を主として五感官(眼耳鼻舌身)への刺激(情報)を貪り.五つの要素の集まり.五蘊(色受想行識)の精神作用により造りだされる主観的な想念を[自分の本当の心]と実相的に見誤る人達には、決して勝ち取ることが出来ない真の勝利とは全ての心的要素(名)も物質的要素(色)も現象に過ぎず、心的要素(次元)と物質的要素の結合(名色)こそ生命体という現象であり、そこには[自分]という実相的な実体などないのですから…
煩悩(存在欲)は盲目的な生命への意思(不死への欲)により、全てを判断させ.行動させ.生きて行かせるのだが、決して適えられる事なく敗北し死んでゆくのである。(これこそが存在欲により顕現する表象(実相)なのである。)
存在欲は生命に対して肯定的に捉える事物に対し、貪り執着させ渇きを癒そうと騒ぐ(不善処・貪欲)
存在欲は生命に対して否定的に捉える事物に対し、怒り物惜しみ怨み渇きを癒そうと騒ぐ(不善処・瞋恚)
存在欲は生命に対し捕捉できない事物に対し、不満や悔やみ痴愚し渇きを癒そうと騒ぐ(不善処・痴愚)
人は五蘊の精神作用により、このようにして貪瞋痴の感情を積み上げてゆくのである。(輪廻の激流への因縁)
渇き(渇愛)を制御するのは妄想を止めることであり、存在欲を制御するのは智慧により安定化(潤い)させ、五蘊を制御するのは「所有の次元」の事物の本質(空・無常)を理解することである。
存在欲を乗り越えるならば真理(存在の次元)は啓け、「生死の軛」を乗り越え心は解き放たれる(解放される)。
これこそが釈迦尊の教えであり、人生(生命)の真の勝利者なのである。
世に言う、億万長者も、世に言う成功者も、世に言う王や皇帝さえも、如何ほどの幸福を得たのであろうか。
歴史は証明している・・・・皆、多くの苦悩と後悔と恐怖と無念のなかに旅立っていった。<諸行とは空しいもの>
生きている間も、如何ほどの幸せな日々を生きたというのだろうか。
「事(状態)の幸せは短命で、物の幸せは更に短くて、心の幸福とは一時的なものであり、永遠不変な幸福などありはしない、追い求める者は不満の中に暮らす。」
人の一生とは、幸福を求めずにはいられない不満と苦の日々の中に過ごしているのである。
幸せを求めていない人間など一人も居ないし、例え此れから死のうとしている人でさえ、その行為の中に幸せを見出しているからに他ならない。
善悪、あらゆる手段を駆使して日夜、幸福を追求してやまないのである。(苦や不満がそう仕向けている。)
しかし多くの人々は幸せには成れず苦と不満の日々を流れてゆく。
貧乏であれば金持ちはさぞ幸せだろうと思い、無知な人であれば知識人はさぞ幸せだと思う。うだつが上がらない人は地位の高い人はさぞ幸せだと思っている。だから幸福になるための対象として、多くの人たちが各自それらを目指すのである。
幸せとは他人から見て、幸福だと誤解される為のものではなく、凡そ幸福のための手段とされる物事を獲得してゆく事でもなく、又、一日でも永く生きることでもない。
それらの人々にも、皆それなりの悩み苦しみや問題を抱えて生きているのである。<幸不幸も一如なり>
苦・不満とは「不幸」の原因であり、楽・喜びとは幸福の条件であり、日々、楽しく歓喜して暮らすことこそが幸福というものなのである。
苦や不満というものの本質を見破ったならば、苦や不満は最早、苦でも不満でもなく、幸福へのパスポートなのである。真正なる仏道を達成なされた釈迦尊が、往時の「世界一の幸福者」「世界一の勝利者」で在らせられた。(釈迦尊だけが真の幸福を達成なされた。)
心ある人々よ「迷妄想な日々より目覚めよ」「愚かな日々を乗り越えよ」「苦悩から解き放たれよ」「劣悪なもの事を捨て離れよ」