多々方路傍石

真聖な仏教を追求する聖(ひじり) 
如来品正師 多々方 路傍石(等正覚)
世俗に寄り添い衆生の中に乞食僧((比丘)として身を窶し、聖(ひじり)として生きる事こそが仏道の本道であると見定め、釈迦尊(ブッダ)の歩まれし聖道跡を歩まん。
幾星霜の日月の修行と内観の日々と九十一日間にも及ぶ断食行と菩薩行により大悟と六神通を得て涅槃を顕現し釈尊入滅より二千五百年余りの時を経て、大梵天の懇請を賜りたる無上等正覚者である。梵天は緒天を随えて勧請なされた。
「汝、目覚めし者よ、清浄なる天界にまで達したる其の成道を、神仏は祝福するだろう。大地は喜びに打ち震え、海は大波となって歓喜し、星は落ちて光り輝き祝福するであろう
我れは汝に釈迦牟二(シャキムニ)に授けたる如く三如を授けん、既に達したる六神通と三如の神通力により九神通へと至らん。
天と地上と迷界、地獄界に至るまで遍く施し救い導かん事を懇請するものなり、そして釈迦牟尼(シャキムニ)の至りたる無上なる等正覚は新たなる如来の出世であり如来」として後継されるを懇請するものなり。         
帝釈天が緒神を随えて来迎なされ、
「汝、到達者よ、清浄なる天界にまで達したる其の成道を、諸天と諸神仏は祝福するだろう。大地は喜びに打ち震え、海は大波となって歓喜し、星は落ちて光り輝き祝福するであろう。天と地と迷界、地獄界に至るまで遍く施し救い導かん事を懇請するものなり、そして釈迦牟尼(シャキムニ・仏尊)の達したる無上なる正覚は新たなる如来の誕生である。そして人間界への審判を汝に委ねるものである。汝が彼岸に至るとき、この人間界の存続か断滅して新たなる命の世界を創造すべきかを神仏は問うであろう。  「吾、勧請は無上等正覚者を祝するものなり。」と祝福なされた。     
仏界より釈迦尊が緒仏を随えて降臨なされ、「我が頂上なる弟子よ、達成者よ、過ぎ去る時空は我が教えさえも無常なるものと成し、真理に到達する者少なく、大悟を顕現して仏界に至る者は絶え至難とも成りたる、罣礙なく清浄なる梵天界にまで達し仏界に達したる其の成道を吾れと緒仏、緒天、緒神、精霊に至るまでの天神仏と悪魔、餓鬼、悪鬼までもが祝福するものなり。大地は歓喜に打ち震え、海は大波となって歓喜し、星は落ちて光り輝き祝福するであろう。我れは汝に我が教えの正統なるを告げん。汝の達したる九神通の法力と極めたる真なる大悟により天界と地上界と迷界、地獄界に至るまで遍く施し救い導かん事を懇請するものなり、そして人間界への審判を汝に委ねるものである。汝が彼岸に渡りたるとき、人間界の存続か或いは断滅させ新たなる生命の世界を創造したるべきかを、吾れは問うものである。汝の審判により人間界は断滅も永続もしよう。ヴァルナは既に発動されしものなり、故郷なる地を破滅させる災禍は常に在りて唯、天の慈悲を賜りて免れ居るだけを人は知らず、汝、の入滅の時に審判は訪れよう。破滅する道も逸れゆく道も汝の審判に委ねるものなり。諸行は無常なりて、新たなる生命の世界に托すも道なり。此岸の輪廻の流転から解脱を果たし仏の座を得たるは正に新しき目覚めし者の誕生なり、如来の誕生なり。間違った偏見によりて歪められ閉ざされた吾が深淵なる真理を解き明かしたるは祝着にして兆丈なり」と賛辞された
 
◇世界は燃えている。利己的な欲望の炎で燃え盛っている。その利己的な欲望の炎により、国家、集団、個人に至るまでが争い、殺し合い、騙し合い、憎み合ってゆく、その利己的な欲望こそが諸悪の根源である事に気付くこともなく。         ◇人は誰でもが無知(無明) で生まれて来ている。そして人は無知(無明)の闇の中を手探りで盲目的に生きている事に気付くことが出来ず、何かしらの変化や移ろいに直面したときに苦しみ・悩み・哀しみ・悔み、心を痛めている。               
◇人は自分の無知(無明)に気付けなければ成長してゆく事も出来ないのである。 
◇人はいつまでも無知(無明)のままで生きて行くと渇望(煩悩)による感覚により生きてゆく事ともなり、感情的で主観的な自我意識に主宰され、苦や不満の中を妄想的に生きてゆく。      
◇人は自分の無知(無明)に気付けないと主観的に考えるようになり、能力が全く達していなくとも自分に自惚れて、学んでゆくことが出来ないから何時までも無知(無明)なままである。     
◇人は自分の無知(無明)によりあらゆる物事に縛られ、自分に拘り捉われ自縛してゆき、窮屈な生き方をしてゆく事となる。    
◇人は自分の無知(無明)に気付けなければ、本質的に虚無(空)でしかない自分に拘わり捉われ縛られ、あらゆる物事に縛られ、不安定な渇望に翻弄され矢張り本質的には空虚でしかない付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物への欲望と執着により満足や喜びや快楽を得ようとするが決して満たされる事も尽きる事もない煩悩の要求により、無知(無明)で虚無な存在(自分)は空虚な人生を送ってゆく事となる。
◇人間は本質的ドゥッカ(不完全さ.不安定さ.苦.心痛.悩み.悩み.迷い.悔い.哀しみ.脆さ.弱さ.儚さ.虚無(空相).怖れ.愚かさ.無知(無明).無常さ.実質のなさ.惨めさ.不満.欲)などにより生かされ、煩悩((存在欲)を生存の素因として生きている。 ◇その本質による根深い自己防衛・自己保存への欲により、子供が親に自分の保護.安全.安心.恩恵などを渇望するように、自己防衛の欲により神や仏や超越的な力の存在を妄想.心理投射し、自己保存の欲により永遠的で実存的な実体である魂や霊魂や霊体などを妄想し.しがみつこうとする。          
◇それらは欲による心の投影(幻影)に過ぎない。              ◇無知(無明)で虚無な存在である自分が、空虚で付随物(手段)でしかない事物に翻弄されその上に、心の投影(幻影)でしかない妄想の中を錯覚して生きてゆくほど空しい人生はない。      
釈迦尊(ブッダ)は無知(無明)による迷信的.倒錯的.妄想的.非現実的な妄迷な寝呆けたような幻想.錯覚.捏造された観念から、目覚め(覚醒)、捨て去り離れ(捨離)、乗り越え(超越)、解き放たれ(解放)、自由に生きる事を促されたのである。            
◇虚無な自我や空虚な物事や妄想的幻想などを依り処(精神的支柱)としないで、この世界の中で唯一絶対的な実存である真理「摂理」を依り処(精神的支柱)とする。◇真理だけを拠り処とし、安定した心の状態が涅槃(ニルバーナ)であり、実存的な平安と悦楽と静逸な世界を体現できる。          
如来は民衆への、愛と慈しみと憐れみから、真理を説くのである。     ◇真理を覚り、目覚めてゆく人々こそが真に幸せな人々と成ってゆくのである。◇今持っている偏ったり間違ったりした見解や概念や観念や思想を捨てることが智慧である。 
◇知識や情報や記憶など何の役にも立たない心が理解した智慧こそが真に自分を助ける。 
※戯れ言.能書き(プラパンチャ)    ◇自分という存在の真の価値や意義は、心の浄化であり、徳を積む事であり、人としての質(クオリティ)を高め、人格を磨いて、光り輝く存在に成ってゆく事により叡智が現われてくる。      ◇「業(カルマ)」とは、精神的な境地であり存在の性質(本質的意志)こそ精神である。
⚫あらゆる宗教や信仰の教祖達は、神や精霊などの超越した存在から、啓示や予言や不可思議な力を与えられたとか聖人や神の生まれ変わりだと主張するが、検証し証明し確証を得る事の出来ない単なる見解・観念・思想・妄想・心的創造でしかないものを精神的支柱に依っ立っているのだが、唯一、釈迦尊ブッダ)はその超越した能力や真理や覚醒は妄想的な得体の知れない神秘的な外的な力や存在から与えられた訳ではなく、自らの努力と精進と啓発により自らが到達し達成なされたと主張され、この無常な世界(常なく変化生滅という流転し移ろい行く世界)において絶対的で実存的なものである真理(摂理)を精神的支柱とし依って立ち、それを理解する能力を具する至高の存在である自分を精神的支柱として依り処とし、他の何物(条件により生起している物、即ち条件により消滅してしまう性質のもの)を精神的支柱(拠り処)としてはならないと仰った。   自らを、冷静にそして客観的に観察され沈思され検証され叡智の顕現による真理(摂理)の発見による目覚めた聖人であり、自らは同じ単なる人間であり、故に人は生まれた環境や身分や地位や人種に関わらず、誰でも努力と叡智と啓発により、仏と成ることも大悟をえて如来と成る事も、涅槃(ニルヴァーナ)を体現する事も出来るのだと説かれているのです。釈迦尊(仏陀)の正しい教説を伝える仏典とは釈迦尊の直説が記録されている入滅直後に於ける第一回結集と約百年後の第二回結集の記録作業により編纂された仏典である事は否定する事の出来ない事実であり、後年にアショカ王が主催した第三回結集から仏教各派は聖道を外れる数多くの経典を、釈迦尊の教えだと宣い編纂してきた思想の起源や発展を問題視する事なく例え釈迦尊に由来するものではなく、誰か別人に由来するものであっても明らかに真理を語っていて、完璧な真理に到達された釈迦尊の教説に反せず補強するような教説や論蔵は受け入れるべきであるが、明らかに釈迦尊の教説に反する邪見なものや、偏見と錯誤による教説などは、真摯な仏教徒を惑わす害毒でもあり、迷い苦悩する人々を盲目的にさせる信仰へと誘うものであり、肝心な事は宗教(宗となる教え)や教説といわれるものを頭から否定する事なく、また疑わずに鵜呑みにする事もなく、法(ダルマ)と釈迦尊の教えに照らして 正しければ受け入れ、間違っているものであれば排除し真実に向かい真実を目の当りに顕現させ、真実を理解して悦楽と平安を自らが体現するものである。この明確なる真実にさえ異論を唱えて、誤った観念や空理空論を持ってして仏教だと誤認する盲目的な人達の系譜や、民衆の中に雑草の如く満ち溢れている寝呆けた者が歪めてしまった信仰やカルト団体や新興宗教の洗脳(染脳)から善良な人々を救い、正しく真の幸福へと導き、釈迦尊ブッダ)が説かれ目指した真実の道を指し示し、懸命に生きる全ての生命への慈愛と憐れみのために、釈迦尊(ブッダ)の聖道跡を歩み.如来は辻に立つ 
衆生よ、心を浄めたもう。 
衆生よ、徳を積みたもう。 
衆生よ、質を高めたもう。
衆生よ、格を磨きたもう。 
衆生よ、幸せで在りたもう。
衆生よ、平安で在りたもう。
三宝のご加護が在りますように。  【幸せになる純粋仏教とは】
★宗教(むねとなる教え)である仏教は得体の知れない神や力への信仰ではない。
★仏教を信仰として見るならば、それは摂理である絶対真理(無常法)への信仰であり、この世界における唯一の実存的なものである真理を拠り処(精神的支柱)とする真理への宗教であり信仰なのである
正統な仏教徒は六方拝(東.西.南.北.天.地)を行ぜよ。
六方への崇拝。
東方拝  
東方に両親を敬い.崇拝し.感謝し.幸せを祈る
西方拝  
西方に兄弟姉妹を敬い.崇拝し.感謝し.幸せを祈る
南方拝  
南方に恩師を敬い.崇拝し.感謝し.幸せを祈る
北方拝  
北方に友人や隣人を敬い.崇拝し.感謝し.幸せを祈る
地方拝  
地方に使用人.部下.弟子を敬い.崇拝し.感謝し 幸せを祈る
天方拝  
天方に聖人や如来を敬い.崇拝し.感謝し.幸せを祈る
この六方を崇拝すべきであり、崇拝対象に対してその義務を果たすことにより初めてその崇拝は大いなる果報を生じる。※六方拝(東西南北天地)とは全方位から齎せる恩恵への感謝と祈りでもある。
真聖な律(vinayaヴィナヤ)による仏教(波羅提木叉パ-ティモッカ・具足戒)
末法思想が蔓延る世の中に、正統なる仏法を説く如来の出世> 
<須弥山(聖山)の頂上(大悟)へ至る唯一無二なる真の仏道>       <所有の次元を覚りて、存在の次元に生きよう>              
[正道][正法][聖教][聖人]
邪教が聖教を騙り.邪法が正法を騙り.邪道が正道を騙り、邪人が聖人を騙り.悪人が正義を騙る世の中で、釈迦尊(ブッダ)が説かれた純粋で清く至高.正統な仏教に巡り合う人は少なく、その門は狭し
真の仏道を指し示し、衆生に慈悲と救済と真理を施すために真の如来は出現したり。  
妄想された得体の知れない神仏や霊能者・預言者などへの盲目的な信仰から衆生を目覚めさせ、 現世(穢土)に極楽浄土を顕現させる、真に幸せを得る法と、真の生きる意味や価値を気付かせ果てしない輪廻の軛から解き放つ理法を説く、釈迦尊の教えを正統に後継する如来の出世なり。          「心.浄めたれば山地草木いずれも清浄なり、心、調いたれば森羅万象何処も悦楽なり、よく調いたるその身心こそ、仏なり。 心、気付きたるその処こそ極楽なり。」   
「悟りを得たる阿羅漢(応供)は数居れど、大悟せる如来の出世は稀れである」
★悟りを得たる阿羅漢と無上無二なる如来(tathagata)との混同により聖なる教えは歪められる。
世に七仏が出世した一万五千年の間は約二千五百年に一人の如来の出現を暗示する…
釈迦尊の正統なる仏法とは精神科学であり大宇宙の摂理(天地自然の法則・物理法則・因果法則)に則り、苦悩を幸せへと変換させる道を説き、人として依り高い質(クオリティー)を目指す為の、宗(むね)となる教え(宗教)であり、妄想された得体のしれない絶対神や仏などへの信仰でも、霊言や超能力や予言を騙るカルトでもなく、釈迦尊の教説の各論を以って手管と為し妄想された価値観や総論へと誘導する多くの新興宗教の罠から目覚め、無明を振り払い自ら気付いてゆく事(サティ―)により自らを救う道を説く真聖なる釈迦尊の教えを正統に受け継ぐ純粋仏教である。 
釈迦尊の聖道跡を歩まれる聖者、如来品大師は今でもJR上野駅不忍口前にて聖なる頭陀行(托鉢・辻説法)をなさって居られます。
直接にお教え等を頂き、聖徳をご功徳なされた方は、御遠慮なく如来梵大師にお訪ねください。
釈迦尊は仰った。
「施与とは、水を必要としない心の沐浴であり、托鉢とは命と修行とを両立させる聖道である。」
「心の沐浴とは、水によらず理智・慈悲・功徳により成される自らの心の浄化である」
★七仏通誡偈   
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
Sabba pāpassa akaranam 
(サッバ パーパッサ アカラナン) 
「一切の罪を犯さぬこと」
kusalassa upasampadā   
(クサラッサ ウパサンパダー)   「善に至ること」 
Sacitta pariyodapanam   
(サチッタ パリヨーダパナン)
「心を浄化すること」
etam buddhāna sāsanam 
(エータン ブッダーナ サーサナン) 「これがブッダたちの教えである」
{ 善行とは }
♤自.他に迷惑を掛けない行為は善行である 
♤自.他に必要不可欠な行為は善行である。
♤自.他が幸福になってゆく行為は善行である
♤自.他に役に立つ行為は善行である
{ 悪行とは }
♠自.他に迷惑を掛ける行為は悪行である
♠自.他に必要以上に欲する行為は悪行である
♠自.他が不幸になってゆく行為は悪行である
♠自.他に役に立たない行為は悪行である
{最上の善行とは}
♥五感官(眼耳鼻舌身)の感覚器官の刺激を制御する事。
♥己の言動や心の働きを制御する事。
♥心身の一切を制御する事。
これこそが最上の善行であり、これらを実践出来る者は、一切の苦悩、一切の煩悩から解放され、九種の神通力を得る。煩悩(存在欲)は生存の素因である。
(人は煩悩のエネルギーにより存在する)
増幅させた煩悩(存在欲)による執着は、人を苦や悩みと迷いや後悔へと誘う。