如来品正師 多々方路傍石 語録‐7

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自分を高め 世界を変える真正な仏教
目覚め、乗り越え、解き放て!

如来品正師 
多々方路傍石.語録ー7

如来品正師.多々方路傍石.語録

覚醒と超越 
人々が真に目覚め.乗り越える為には.社会形態.生活様式.集団心理により洗脳(染脳)され罹患している[権威主義的メンタリティ障害]に気付き.解き放たれ正しく自由な見識を取り戻し心を浄化し.真実を受け入れ物事の本質を見抜き理解する叡智の育成に努め励まねばならない      
自分の中に幸せを見出しても所詮は一つの幸せを味わうに過ぎず、
無明ながらも一途に生きる人々の中に幸せを我が事の如く見い出せるならば、いっぱいの幸せを奥深く味わいながら生きてゆける。
懸命に生きる全ての生きとし生ける生命の中に幸せを我が事の如く見い出せるならば、この世界は幸せで満たされる。
         
自分の中に愛を見出しても所詮は一つの自愛を味わうに過ぎず、
無明ながらも一途に生きる人々の中に幸せを我が事の如く見い出せるならば、いっぱいの愛を奥深く味わいながら生きてゆける。
懸命に生きる全ての生きとし生ける生命の中に幸せを我が事の如く見い出せるならば、この世界は愛で満たされる。
 
 
自分の中に歓びを見出しても所詮は一つの歓びを味わうに過ぎず、
無明ながらも一途に生きる人々の中に歓びを我が事の如く見い出せるならば、いっぱいの歓びを奥深く味わいながら生きてゆける。
懸命に生きる全ての生きとし生ける生命の中に歓びを我が事の如く見い出せるならば、この世界は歓びで満たされる。           自分の中に怒りを見出しても所詮は一つの怒りを味わうに過ぎず、
無明ながらも一途に生きる人々の中に怒りを我が事の如く見い出すならば、いっぱいの怒りを奥深く味わいながら生きて行く事になる
懸命に生きる全ての生きとし生ける生命の中に怒りを我が事の如く見い出すならば、この世界は怒りで満たされる。
如来品正師.多々方路傍石.語録
煩悩に塗れず 煩悩を滅して世捨て人ともならず 煩悩とは存在欲から発したる生存の素因なれば 幻の如く露の如き、夢幻の如く泡沫の如き、無数の因縁の上に現れたる一夜の宿を 唯、奥深く味わうは甘露也

如来品正師 多々方等正覚語録

釈迦尊(ブッダ)の御教えを鵜呑みにして盲信する事が仏道なのではなく、釈迦尊(ブッダ)ご自身も仰っているように「伝説を鵜呑みにしてはならない、経典をそのまま信じてはならない、伝統が全て正しいと思ってはならない、如何に論理的な言葉であろうが誰もが揃って支持しようとも、哲理を語って居ようとも、例をあげて証明されようとも、己の主観に合致していようとも、権威ある人の言葉であろうと我が師とする人の言葉であろうが、例えそれが如来の言葉であっても安易に正しい信じてはならない。自ら確かめる事なく受け入れる事を妄信という、本当の確証を得て信じる事を正信という。」如実智見してゆく事こそが仏道であり、釈迦尊(ブッダ)の真理も無闇に信じ込む事ではなく又は懐疑的に捉えるだけでもなく自ら実践の中に観察し分析し思惟し検証し確証を得て理解してゆく事こそが仏道であり、その完全なる真理(真実.現実.実相.摂理)の前に初めて傅き崇めるのである。

如来品正師.多々方路傍石.語録

何事も喜びにするも苦しみにするも
自分の心の在り方次第.....

 
如来品正師 多々方等正覚語録

人の性根とは生前取得したものであり、その人が引継ぎ帯びた業因(カルマ)であり潜在域に潜みて通常は眠っているのが煩悩(存在欲)に強烈に触発されるとムクっとばかりに起き出すのである。                                   人の性格.性癖.傾向は生後取得されたものであり性根.環境.教育などに影響され形成されてゆくものであり、間違った見解ではどちらも浄化も汚穢れも不可能なものである如く説かれて居るが実は変化生滅も浄化も汚穢れも可能なものであり、潜在域に善い想念を送るよう努めて行けば精神性の向上に伴って先ず性格.性癖.傾向が改善されてゆき、また煩悩(存在欲)に翻弄されながら生きてゆけば性格.性癖.傾向が改悪されてゆくのであり、精神性を高めるか低めるかによりその人が帯びている業因(カルマ)による性根をも改善改悪されてゆくのであり「鉄は熱い内に打て」と言われる様に出来るだけ早く改善に務めるほうが苦労は少ない事は否めないが生きている今生が次の生起を条件つける摂理を流れる以上、少しでも性根.性格.性癖.傾向の改善に努め励むことが自らを愛おしむ事だと言えるのである                                                                                         如来品正師.多々方路傍石.語録

自 我

自我とは芽生えるものであって、潜在域に内包しているものでは決してなく、相互に依存し合う五つの要素が集まり(五蘊)結合して機能するとき「自分」という意識を生じさせ、因果律に遵って全てが変化生滅している世界にあって持続的.永続的.実相的.主宰的.本質的な魂や霊魂への渇望を伴って自我意識を妄想してしまうのであり、この自我的欲求による自己中心的で自分の都合に合わせようとする利己的な欲望こそが諸悪根源であり、同時に本質的にはドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.悩み.心痛.迷い.弱さ.脆さ.哀しみ.悔い.儚さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.無明な欲)により成り立つ世界に於いての苦しみ(ドゥッカ)を生起させる根源でもあるのです。                 

如来品正師.多々方路傍石.語録

精 舎

笑い話とも言えるのだが、托鉢をしていて世俗の人から先ず「お寺は何処ですか?」と問われる事があり、寺は持ってないと答えると大抵は怪訝な顔をされる………笑                                                                       マァ、世俗の人が正しく認識して居よう筈もなく重ねて問われなければ看過するのだが寺にしろ精舎にしろ在家が寄進するものであって僧侶が建てるものでもなく釈迦尊(ブッダ)も竹林精舎や祇園精舎も寄進されたから其処に居住したのであり無ければ無いでサンガを山野に結ぶだけの事であった筈であり、聖者や修行者が居住する処こそ庵であり精舎であり庫裡であり、また寺とは偶像の仏像を安置する処を意味し托鉢修行者は寺やサンガから派遣され托鉢する理由でもなくサンガとは集いであって決して組織や団体や法人ではないのである。       

如来品正師.多々方路傍石.語録


仏道を志し沙弥となる多くの若者は真摯で新鮮であるのだが愚かしき者も又多いもので、その第一は大乗に何の疑問も抱かずに無思考に受け入れ鵜呑みにする姿勢は仏道に非ずして信仰であり妄信に他ならず盲目的な者達の系譜に連なりし沙弥なり。                                                    その第二に、かと言って大乗の仏道の在り方や仏法に疑問を懐いて所詮は部派仏教の一つに過ぎない上座部へ鞍替えしオレンジ色の糞掃衣を纏ってほくそ笑む青い鳥症候群に冒された沙弥も愚の骨頂であり、又憐れとも言えよう。                                                             況して優れた翻訳本が揃う世にあって原典を原文で読む事に何の価値があろうか、釈迦尊(ブッダ)の心情.想いへの理解を阻むだけであり真理(真実.現実.実相)から遠ざかる愚行であるとも言え、他宗を敬いこそすれ他山に宝を夢見るは愚かだしいけない事であり、何処に在ろうと自らを灯明とし.法を灯明とし他の一切を依り処とせず自らと法(ダルマ)の光明で真理を照らし出す事こそ真の仏道である。                                              如来品正師.多々方路傍石.語録

僧侶(沙門)とは世間様のお世話になって暮らす身なれば、世間様の平和.安全.幸せなどを念じる努めは欠かせない、「唱えて得たものでくうてはならぬ」と釈迦尊(ブッダ)は仰った。御供養.廻向.浄化.法施とお世話になってる世間様から世俗の頼み事は多いが、それらはお世話になってる世間様への恩返しであり、もしそれらを生活の糧とするならば自ずと職業化するは必然であり仏道が汚れ穢れるは必然であると考えられた釈迦尊(ブッダ)が敢えて残された警句でもあり、釈迦尊(ブッダ)の洞察が如何に正しいものかは実に嘆かわしい処ではあるが現在の仏教界の為体を眺めれば自ずと証明されて居るのではなかろうか            如来品正師.多々方路傍石.語録     
自ら輝く存在となりて、装束で輝くな
徳無きを金キラ衣装を以って誑かすな
法は実践するものであり語るは能書き
 
  大僧正.大阿闍梨を名乗る欲深き者達
  乞食僧(托鉢修行者)に向かいて跪け
  戒律を破りて説く法は 仏法に非ず
  不色欲.不妻帯.不妄語.不飲酒.不物欲
  不摂生.不殺戒.不精進.不相続.不邪見
 
 

如来品正師.多々方路傍石.語録

憐れなれども、       
この生を今生だけに限って観れば
無思考に追従してゆく者は幸せ哉
お馬鹿で無明な先達を崇め奉りて
流せし歓喜の涙の空しさも識らず
目覚め乗り越え解き放つを知らず
成仏せずに激しき流れを繰り返す

如来品正師.多々方路傍石.語録

発展は争いにより為され、
進化は環境により為され、
進歩は努力により為される
汚れるも清まるも自分次第
映し出す世界は心境の投影

主従関係性(潜在意識)

無明(無知)な世の人は意識改革を叫べども
何も変わりもせずに却って苦悩を深めゆく
人の心を造り出すは思考に非ず意識に非ず
潜在し形造りし業という潜在意識なりせば
潜在意識を浄め.調え.育成するが仏道なり
潜在意識の有り様が気分.気持ち.感覚.主観
生じさせ分泌物質.ホルモン作用をも司る
物事は心に基づいて心を主として為される
心の真の主は潜在意識であり意識とは従者
世人は意識こそが主であり潜在意識は従者
だと思い違いをして煩悩に操られているが
心の真の主は潜在意識であり意識とは従者
だと目ある者は確かに識って意識によりて
潜在意識を浄めながら涅槃へと向かうもの

如来品正師.多々方路傍石.語録

我れ人の拠り処となるも
暗愚の玩具となるを望まず
先達も暗愚の玩具とぞなり

失敗を怖れ踏み出ぬ者は愚か也
踏み出して失敗に学ぶ者となれ
成功は失敗の中に芽生えるもの
主観的な世界のマイノリティとは賢者なり
主観的な大衆に迎合するのは愚者か打算者
そんな世の趨勢に逆らって進歩は成される
一事を為すには意志と信念と努力が必要だ
万事、意志と信念と努力とを怠らなければ
迷いと失敗の先に道は必ず啓けるもので、
助けるのも貶めるのも自分次第なのである

如来品正師.多々方路傍石.語録

率先垂範・・・肝に銘ずべき良い言葉です

打算と自利に明け暮れ欲得尽くな見方しか出来ない心が汚れ.卑しく.貧しい人が殖え、能書きと要領ばかりいい人間が重用されるような世の中は既に自浄作用は失われ衰退へと向かっている事に気付かねばならない。古来、それに気付きし目ある僅かな人々が幾ら声高に叫ぼうが衰退の潮流は最早押し止める事が出来ないものであり、そこに一筋の希望を見い出すならば、無私無欲に率先垂範する者に触発され啓蒙される理性への崇拝だけではあるまいか。                         信仰と宗教

民衆迎合的なものが信仰であり、民衆覚醒的なものが宗教である。勢力や権力など所有の次元の事物を欲する者は信仰を起こし(それも得体の知れない神仏や眉唾な超能力を主張する)無明な民衆の家畜化を試みる、民衆の目覚めを欲する者は草の根に目覚めの道を指し示し無明な民衆に真理(真実.実相.現実)の光明を翳し目覚めさせ乗り越えさせ解き放ちてゆくものである。                          仏道とは得体の知れない神仏を祈り崇める道ではなく心を清めさせ徳を積ませてゆく道であり、仏道とは祭祀を執り行い儀礼を修める道ではなく真理に向かう菩薩の道と真理を具現する如来の道である      疑うことを妨げだと誤解して、無闇に信じる事を強制され、それこそが理性的だと染脳(洗脳)され錯覚し妄迷な信仰.信心に陥れられ、折角の人生を得体の知れない神や仏や力に捧げ、眉唾な約束された神の国へ赴く事も成仏する事も叶わない者こそ愚かで憐れである。        物事を前向きに捉えしられずに疑心暗鬼に疑うような後ろ向きな姿勢から進歩はなく、かと言って確証もなく闇雲に信じてしまう者は騙されるのが世の中である。                          世の中にはあちらこちらに汎ゆる罠が張り巡らされていて注意して疑わしきは疑って居なければ「ボーと生きてるんじゃないわよ」とNHKチコちゃんに叱られる事にもなるのである。             世の中に数ある得体の知れない神仏や力への信仰.信心とは物事が見えていない者が多いから成り立って居るのであり、真理(真実.実相.摂理)が見えた瞬間から消え去るものである。                  唯今の生
生きるとは一度切りの唯今の生を味わう事、過ぎ去りし過去とは夢幻に如かず、未だ来ぬ未来とは妄想に如かず。過ぎ去りし過去や未だ来ぬ未来に捉われて居ては折角の唯今を奥深く味わい尽くす事なく生命を終える事と同じ、唯今を生きて終わる時には終わり、唯今を生きて滅する時は滅するだけ、愚かな人はこの唯今の生を見ようとしない...     今更どうにもならない過ぎ去りし過去に捉われたり拘ったり思い患ったりしながら一度切りの唯今の生を疎かにしてしまう                          愚かな人はこの唯今(ただいま)の生を見ようとしない                           どうなるかも在るか無いかも解らない未だ来ぬ未来に想いを巡らせ妄想したり夢見たり杞憂したりしながら一度切りの唯今の生を疎かにしてしまう                                                                            所有の次元の事物

所有の次元の事物とは飽くまでも一時的な価値.手段.付随物であり、その身に纏い着飾る衣装や持ち物の如き物に過ぎない無常なものであり、決してその身の本当の価値を高めず浄めずその所有の次元の事物による輝きを自らの輝きと錯覚させるのであり、無明(無知)な自我意識はその身の本当の意味、価値、輝きを貶め低め汚穢れさせてゆく性質のものである事に気付かずに魅入られて一時的価値・手段としての付随的価値しか有さない所有の次元の事物を目的物であるかの如く錯覚して必要以上に貪り欲し拘り捉われ執着させる。                                        そんな無明な生存の素因でもある煩悩(存在欲)に翻弄され煩悩(存在欲)の要求に従って生きて行けば人は必ず決して満たされる事のない苦と不満の中を生きて行く事となり人の心を欲深くさせてゆく、仏教ではこの様な満たされる事なく常に何かを欲しながら「欲しい欲しい」と生きる心を餓鬼心と言い、その道を餓鬼道と言いその行く末を餓鬼界と説き、欲深くなってゆき身勝手で自己中心的.自分本位な他の人々や他の生命を顧みず思い遣れない心を地獄心、そんな生き方を地獄道、その行く末を地獄界と説くのである。             
♥所有の次元の事物(一例)
金.財.所有物.地位.名誉.名声.称号.経歴.権力.勢力.知識.情報.技能.健康.長寿.理解.賛同.承認.声望.評価.評判など・・・
♡存在の次元の価値(一例)
精神性.人間性
人としての質(クオリティ)・人としての格(レベル)・人としての境地(ステージ)・人としての器量(ラージ)・人としての柄(カラー)
●参照「 所有の次元と存在の次元 」
http://blogs.yahoo.co.jp/bhagavat_buddha/66067480.html

再 生

朝とは新たなる再生の時なり、昨夜、私は眠りに付き心は自分を離れ確かに昨日の自分は死んだ。昨日までの過去の記憶は最早、入力された単なる情報か現実か真偽さえ定かではない夢幻の如きもの、そして朝は又また突然にやって来て、新たなる自分という存在が再生され始まった事を認識し新たなる生命を与えられ、生命力に満ち平らかで静かな心とは何と甘露なものであるのか奥深く味わい堅固なる今在る歓びに感謝し、有り難しこの存在を当たら煩悩の欲求に費やすは惜しく愚かしく、他の者達に役立つ者として存在するを選択せり、善き選択に遵い存在する事こそ真の幸せの具現であり、こよなき幸せは外世界には在らずして心の中に築かれるものなり                     
道に目覚め、乗り越え、解き放ちたれば、朝(あした)に生き、夕に死すとも悔いなき、良い一日を味わん。          自我意識に捉われ.拘り.執着し、自分の主観に偏よって自分を正当化して、他人を誹ったり攻撃したりするのは、愚かでいけない事である。それは自らが心の中に積み重ねて来た不満を他人にぶつけているだけなのだ。そんな殺伐とした心に気付き捨て去り皆んな仲良く暮らしていこう!     

名は体を現さわず
 
人の名とは、親の願いが込められ名付けられるが清にも不浄な者が居たり幸子には不幸な人が多いと聞く、因みに私の多々方等正覚という名も如来蔵へ到達された釈迦尊(ブッダ)と等格の正覚への到達を目指し願い称したのであり法名釈尊継である・笑 さて本題であるが虎は死して皮を留め武士は死して名を残すと言われるが、実は後世に残る名とは後世の人の願いや欲望の投影に過ぎず本人の預かり知らない誇大.誇張に脚色されたり或いは毀損.捏造.誹謗を施されてゆくものであり、本人の実相を現わすことも本人に帰属する事もなく独り歩きしてゆく幻影に過ぎず、名を後世に残そうと執着し足掻く様こそ愚の骨頂であり、名を捨て実を取り自分という存在が他人様の役に立てたならば生まれ甲斐があったというものであり、真の武士道精神「葉隠れ」の境地とも言えるのではなかろうか。    
何故ならば仏教に於いて真に理解され難い処でもあるが、仏教では主宰的.実相的.永遠的な魂.霊魂.霊体などというものは完全否定され諸法無我が説かれる、そして同時に輪廻転生が説かれているのであるが、この一見相反する論理に先達を初め多くが迷い、果ては色々な新説が編み出されているのだが、要は輪廻転生してゆくものは魂の類ではなく業(カルマ)であり、業(カルマ)とは心的エネルギー(生命エネルギー体)の性質(運動性)であり、心的エネルギー(生命エネルギー体)が注ぎ足されながら次の何かに成り続けてゆく時(集合要素)の心的エネルギー(生命エネルギー体)の形成力(性質)なのである、故にその人の質(クオリティ)、格(レベル)、境地(ステージ)、柄(カラー)、器量(ラージ)などにより当然に適合する処に形成力が働き流動してゆくのである(ここで何故に洗練され磨かれた形成力により人として生まれている筈なのに程度の低い者が混ざるのかという疑問にぶつかるが、それは一つに生後取得された問題であり、一つは生物多様性の問題であり、一つは微生物から進化の階梯と同様に上ってきて真人に成り切れていない無明な者ー暗闇から光へと現われ、やっと辿り着いた人の身を克服できない者達は多いのである。)        
●つまりは名を遺そうとジタバタする事の暗愚とは、例えば未来に残した捏造された自分評(名)を尊敬し敬愛する者が、その時に犬と成っている自分に対し五月蠅いと足蹴にされた時、自分は果たして尊敬され敬愛され崇拝されていると言えるのだろうか 

具 現

無闇と言いても闇の中、無欲と言いても欲の中、無心と言いても心在り、字面に捉われ真を解さず、どうでも良い処や物事、詰まらない処や物事、下らない処や物事に、捉われ拘り執着しながら無明(無知)なことに気付けず理解していると錯覚しつつ、煩悩に翻弄され生きているのが世間の人々、だから平らかで静かな甘露な奥深い心を味わえず、渇望と自我の妄想を正当化しながら争いとドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.痛み.不満.怖れ.悩み.哀しさ.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.無明.欲)の中に一生を送る事になるのだ。          真理(真実.現実.実相)は知る事でも語るものではなく具現して味わうものなのであり、幸福は外界に築くものではなく心の中に築くものなのだから。          

土壇場

死とは必ず訪れる逃れられない約束事であり、生まれるとは死へと向かう旅路の始まりである。              
人は何故生まれ何の為に生きるのかさえ解らずに兎に角、生きていたい!存在して居たい!喜び(安定)が欲しい!と無明(無知)に煩悩(存在欲・生存の素因)の要求に従って懸命に生き、決して尽きる事も満たされる事もない欲求に翻弄されながら盲目的に暗夜行路を行くが如く、死から遠ざかろうと藻掻きながら却って死へと生き急いで居るのである。               
死へのアクセルは不満という本質的な怒りに他ならず、一回ぽっきりの今という生命を奥深く味わう事を忘れ、約束事を遠ざけ固定的な実体(実相)の如く妄想や錯覚により形成された自我に捉われ拘り執着しながら本質的な苦と不満を深め、欲望を深めながら却って生命を削っている事に気付かないのである。              


負担量(負荷)小品

負担(負荷)とは苦楽一如なものであり、苦とは負担量(負荷)が増し苦だと感じた瞬間から苦となるものである。         
生きるとは即ち汎ゆる負担(負荷)の中に存在する事に他ならず、負担(負荷)により生かされていると言っても過言ではなく、実際に病床に根付けば歩けなくなり宇宙で過ごし重力の負担(負荷)から逃れた後に地上に戻れば満足に立つ事さえ覚束ないのである。 
人間、日々負担を負担とは感じずとも身体への負担(負荷)により維持継続し、心への負担(負荷)により無明(無知)の闇から智慧の光明を照らし出すのである。       
昔から苦労は買ってでもしたほうが良いとか、我れに艱難辛苦を与え給えと神仏に祈った武士が居たそうだが、苦楽とは相対して存在しているものであり、楽苦其々は独立して単独には存在し得ないものであり、もし仮に楽や苦が単独に存在したとする時それは苦でも楽でも無い単なる一つの感覚なのである。苦楽とはその負担量(負荷)により自分の尺度を生じ、その尺度により物事を計るならば凡そ苦の種でもある負担(負荷)は楽の種ともなるのである。      
苦楽は一如なりて、苦とは苦と捉えし時より苦であり、苦と捉えるまでは楽乃至静かなる不苦不楽なのである。       
愚かな人は世の中に楽だけ在れと願いながら却って楽を取り逃がす、苦あっての楽なるを識らず              
愚かな人は世の中に美味しいものだけ在れと願いながら却って美味しいものを取り逃がす、不味い物あっての美味なるを識らず
愚かな人は世の中に美しいものだけ在れと願いながら却って美しいものを取り逃がす醜いものあっての美なるを識らず    
愚かな人は世の中に善人だけ在れと願いながら却って善人を取り逃がす、悪人あっての善人なるを識らず          
愚かな人は世の中に歓びだけ在れと願いながら却って歓びを取り逃がす、哀しみ在るっての歓びなるを識らず        一如なる両極を識らず、       
死なくば生に価値なく、皆苦に他ならず
       
 
悟りを求め欲する者に、悟りなく(声聞)
己れを求め欲する者に、覚りなく(縁覚)
利他行に努め励む者に、覚醒なく(菩薩)
唯.自我を捨て去る者に、涅槃あり(如来)
諸悪.皆苦.迷妄……全ては我欲に生じる


●ニルバ~~ナ~~!

涅槃(ニルバーナ)は語るものに非ずして、
涅槃(ニルバーナ)は語れず味わうものである
    ご馳走は語るものに非ずして味わうものである如く、
    その味を語り尽くす事など出来ず百聞は一見に如かず
    唯、味わうものなり。
無明(無知)で不安定な煩悩(存在への欲)の要求に翻弄され、人は、何時も何かしらの喜びを求めて彷徨っている。
真の歓び.満足.悦楽.平安.静逸.幸福.安定が、善く調御された平らかで静かな心と叡智の中の在ることを知らず

●慈悲と布施(施与)と心の浄化

自分(自我)に捉われ拘り執着している内は、本当の意味での慈悲も布施(施与)も心の浄化も覚束ず錯覚した偽善的な慈悲と布施(施与)と心の浄化を繰り返すか自分を納得させる理由を設けて避けて通る   
多くの人達は無我なるを識らずに空しく自分の為に生き、空しく死んでゆくがそれは自分がなぜ何の為に生まれ、何の為に生き、何なぜ死に、なぜ輪廻してゆくかも知らずに無明なまま暗夜行路をゆくが如く生きているからに他ならず、自分が他から独立して単独には存在出来ない現象に似た存在である事が理解できない詰まりは他との関係性の中にこそ自分そして人間は存在し自分と他人との関係性の中にこそ自分は見い出せる自他同時・自他一如なものであり一身という小さな自分にしがみつき分別し、大いなる因果律(縁起)による相対的な相互依存関係の中の全宇宙的な自分を発見する事が出来ないからに他ならない。     

●説教と説法 

仏の教え、宗(むね)となる教えと言われるが凡そ仏教には説教と呼ぶべき上から目線的なものは存在しない、それは何故ならば仏教とは多様性と自由を説くものであり、多様性と自由の方向性を指し示すだけであり人々の志向や生き方に対して良いとか悪いとか、こうしろとかああしろとか、大いなる意志に適うとか適わないとか型にはめたり洗脳(染脳)を試みたりする事などなく、依り幸せに、依り平穏に、依り安楽に、依り静逸に生きる道を選択の自由の元にその方向性を指し示しているだけなのであり説法により法(自然法則.真理.真実.現実)を説くが、ああしろ、こうしろとか従えとか信じろとか教えを垂れるのではなく道を指し示しているだけであり、その道を自らが眺め分析し検証し確証を得ながら、道は自らが切り開いて歩いてゆくものなのだから。 
故に対機による説法であり、気魂に沿った説法であり、無記を選択もあるのである。                

彼 岸

相対性理論の事象の水平面の彼方が彼岸であり、光学的.電気的.物質的にも認知出来ない領域であり、唯一、高度に覚醒し開発された心的エネルギーの認知力により検知し得る領域なのである。         
因みに釈迦尊(ブッダ)が言われた亡者が彷徨う彼岸の淵とは取りも直さず事象の水平面の淵を亡者は彷徨って次の何かしらに成り続けてゆく事、即ち輪廻転生してゆく事である。              
立てよ!座れ!

仏教も本質的には立禅も重要視され托鉢に始まり歩行、経行(きんひん).辻立ちと日常の生活の中での立禅による四念処を軽視してはならない、釈迦尊(ブッダ)が沙羅双樹の下での瞑想により大悟された結果を以ってして座禅を特別視しがちであるが座禅も.釈迦尊(ブッダ)以前からあるものに過ぎず、完全なる真理に到達する事など出来ない事を覚られ、立つ.歩く.座る.臥するを含めた現象の内に透察(透視.洞察-ヴィパサーナ)による内観法.外観法視の一形態に過ぎす立禅有りて座禅あり、歩禅ありて臥禅あるのであり、禅定を座禅(瞑想.観照.内観)を特別視する偏りが観念的で盲目的な不毛な偏った思想の荒野へと陥らせるのである。
波立たぬ静かなる心鏡が真理(真実.現実.実相)を、在るがままに映し出す

我らは仲良く生きてゆこう
争い事を持ち込まず 
人と敵対するも事なく
我らは仲良く生きてゆこう

我らは楽しく生きてゆこう
不満だらけの世の中で
欲望に拘らず無欲恬淡に
我らは楽しく生きてゆこう

我らは人に役立つ者であろう
人の物欲を満たす為ではなく
心のドゥッカを癒す者として
我らは人に役立つ者であろう

命を奥深く味わっていこう
生ずる時は生じ、
滅する時は滅するものと
確かに識って 
我らは今 命あるを感謝し
奥深く味わい生きてゆこう

我らは心.静かに生きてゆこう
自我や妄想に取り込まれず
雑念や杞憂に煩らわされず
心を浄め欲望の炎を吹き消し
我らは心.静かに生きてゆこう

光音天の神々のように
真理の光明に照らされて
法の悦楽に浴して
我らは真の幸せに生きてゆこう

●ドゥッカ(毒華とは、不安定さ.不完全さ.苦しみ.心の痛み.悩み.迷い.悔い.不満.怖さ.哀しさ.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無明な欲望)


苦楽一如

楽は苦の種 苦は楽の種
苦とは負担の別称なり
負担だと感じて姿を現す
楽とは負担の別称なり
負担だと感じざる一時なり
           苦楽は負担の量次第

欲の次元を乗り越えて静かな処に梵居あり

求め集めしは無常にて何時は滅る定めあり
捨て行きて見ゆるは在るがままなる歓び

欲の次元(所有の次元)
所有欲.物欲.金財.地位.称号.名誉.権威.権力.
勢力.名跡.承認.理解.賛同.健康.寿命.家族・・

人々が平安で在りますように
在るがままに平安を感じ取り
奥深く味わえますように。

人々が幸せで在りますように
在るがままに幸せを感じ取り
奥深く味わえますように。

人々が息災で在りますように
在るがままに息災を感じ取り
奥深く味わえますように。

人々に喜びが在りますように
在るがままに喜びを感じ取り
奥深く味わえますように。

良い一日を過ごしますように
在るがままに良日を感じ取り
奥深く感謝出来ますように。

天地自然は恵みと災害をもたらし悠久の時の流れは進歩をもたらす        
太陽は温もりを与え台地を照らし、雨風は潤いを与え台地を清める        
昼夜は活気と静けさをもたらし季節は移ろい変化生滅を気付かせる        
仏教徒は天地東西南北の六方の全てを崇拝せよ。                

AI化社会

●まるで大宇宙が安定化へ向かって加速的に膨張を続けてゆく如く、世の中は幸せに向かってAI化が進行してゆく·····しかしそれで果たして人々は本当に幸せを得る事が出来るのだろうか。時間を少し巻き戻して見れば自明であり、縄文時代から弥生時代へ移りゆく得失は先進中華文化と便利な制度を得て平和と素朴な心の安らぎを失い、明治維新で先進西洋文化と社会制度を得て純朴な歓びを失い、終戦で自由と民主主義を得て民族的アイデンディテーと根源的目的を失い、今まさにAI化社会という便利なコンビニエンス社会の到来により人間性を喪失しようとしている。それは電気炊飯器.洗濯機.テレビ.自動車·····と生活が便利にそして快適になるに従って世の中には不満や怒りや心の病や現代病と言われるものが殖えてゆく現実が指し示しているように、社会生活の便利さや豊かさは心の情緒や心の豊かさを喪失させ人間自身もAI化され家畜化され真の価値観を見失なう危険性を伴っている事を忘れてはならない。そこに待っているのは一部の人間達への更なる富の集積と偏った理念への染脳(洗脳)化と物質文化を尺度とする階級化という人間性と多様性を喪失させてゆく人間を至高の存在たらしめる精神性[人としての質(クオリティ).人としての格(レベル).境地(ステージ).度量(ラージ).人間性]の育成の価値観を軽んずる自我と我欲と争いに明け暮れる社会であり、社会の豊かさに反比例して失われてゆくもの
☆それは心の豊かさなのではなかろうか

それは人間はドゥッカという不安定な本質を持つ存在である事を忘れてはならず、不安定状態こそ苦(ドゥッカ)なのであり、仕事や成果や煩悩的(生存欲)な興味や欲に依存しなが辛うじて一時的な安定と生きる意味を見い出して生きるのであり、ある意味に於いてはAI化とは人間の肉体的負担は軽減してゆくだろうが精神的には却って安定性を喪失させてゆく事になり、その不安定な精神性に刺激を与えて漬け込もうとするカルト的・妄想的な偏った思想や信仰宗教が染脳化(洗脳化)や家畜化を試みてAI化や科学の発展に反比例して人間の精神性は益々と堕落してゆくを憂慮せざるを得ない。   

目覚め、乗り越え、解き放て!

物質文明、科学文化の発展に伴って精神文化の発展を忘れては必ずその先には破滅が訪れるのである。精神性とは人としての質(クオリティ)・人としての格(レベル)・人としての境地(ステージ)・人ととしての器量(ラージ)を育成し高めることであり、知識や情報を蓄積して能書きや主観を披露する事でも得体の知れない神仏や能力や呪文を持ち出して選ばれた者であると嘯くパラノイア(妄想)なものであってはならないが、不安定な本質を持つ存在(人間)には正しく健全に生きてゆく上には宗ねとなる教え(宗教)は必要であり、真実が見えずに見ようともせず漠然と宗教を毛嫌いして糸が切れた凧のように不安定に彷徨い歩いているのが多くの現代人なのではないだろうか。     論理に偏らず、情緒に偏らず

●凡そ愚か者の極みとは、根拠のない主観を真実だと錯覚し、理解していると思い込んでしまう進歩を阻む自惚れだろう。   
生存の基本要素(飲食・睡眠・排泄・呼吸)を貪らす必要に応じ調る煩悩の基本制御法
●食せる喜び
食べる物が有る喜び
食べる機能が健全に働く喜び
●水分を補給出来る喜び
清潔な水が有る喜び
水分摂取機能が健全に働く喜び
●睡眠の喜び
安全に睡眠出来る寝床が有る喜び
安らかに睡眠できる喜び
●排泄の喜び
飲食に伴う残滓を排泄できる喜び
排泄機能が健全に働く喜び
●呼吸の喜び
生を奥深く味わう呼吸の喜び
生体を調え集中力を増す感性の喜び
呼吸機能が健全に働く喜び
●生の喜び
味わい深く生を紡ぐ喜び
如来衆生の煩悩への願いには応えないが、これら生存の基本要素への願いには全く応えよう。
●安定.静けさの喜び
●真理に目覚める喜び
●無明を乗り越える喜び
●無明から解き放たれる喜び
 
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●コンピュータは表層からの記録情報(記憶・知識)は内層(OS)に蓄積する事ができるが、内層(OS)のオペレィションやプログラムを変えてゆく事は出来ないが、生体である心は表層から良質または悪質な刺激情報(知識・記憶)を内層(五蘊)に送り続ける事で内層(五蘊)を除々にではあるが、変化(浄化また汚穢化)させてゆく事が出来る   
●コンピュータは内層(OS)からの記録情報(記憶・知識)を潜在層に送り続けても潜在層(基本システム・バイオス)を変えてゆく事は出来ないが、生体である心は内層(五蘊)からの良質または悪質な刺激情報(知識・記憶)を潜在層(潜在煩悩・随眠煩悩・業)に送り続ける事で潜在層(潜在煩悩・随眠煩悩・業)を除々にではあるが、変化(浄化また汚穢化)させてゆく事が出来る。

●基本的には「飲食・睡眠・排泄・呼吸などを貪り、阻むものに怒り、得られぬ事に不満を覚える」のであり、つまりは貪瞋痴(三毒)の煩悩思考によって生きている。だから日々、意識して自浄してゆかねばどんどん心は汚れてゆくのである。何故ならもし何も要らない(無貪欲)、飲食・睡眠が得られようが得られまいがどうでもいい(無瞋恚)生きようが死のうがでもどうでもいい(無痴愚)と開き直って生きる事など出来ず、生きてゆく為には飲食・睡眠・呼吸は欠かす事が出来ないものであり、生存の素因である煩悩の要求に疲れ果てて、自暴自棄に意欲や気力を喪失した無意欲、無気力で生きる事とは生への冒涜であり、即ち煩悩とは存在欲(生存欲)そのものに他ならないのであり、小さな悪魔とも言われるが子供の頃の無垢な純真さ純粋な心が今の貴方に果たしてどの程度残っているのか         
積み上げた知識や記憶は財産ですが積み上げた貪瞋痴は果たして財産なのでしょうか汚穢れなのでしょうか。        
だから死亡時の後悔する事の第一位が「もっと他人の為に何かしてあげればよかった」という思いであると言うのも「汚れてまった悲しみに・・・」と詠った中原中也ではないが、貪瞋痴の煩悩思考で生きて、何時しか自我に蝕まれ自分の事ばかりに捉われ拘り執着して生きてしまった事が心の汚穢であった事に慄然と気付くのである

人が説く 真理とやらに 染められて