如来品正師 多々方路傍石 語録-2

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無明な自我を滅尽された釈尊が仰る如く
怒りほど制するのが難しいものはない .
衆生の被る被害に怒り己の無力さに怒り
清まる事のない悪しき者達に怒り

如来品正師 多々方路傍石
世界は利害で成り立っている
利無くば近きものは遠退き.遠きものは近寄らず
害あれば近き者は遠退き.遠き者は近寄らず
利あれば近き者は留まり.遠き者は寄せ来る
害無くば近き者は留まり.遠き者は寄せ来る
利なくば近き者は遠退き.遠き者は近寄らず
これ天地自然の理法なり
知識・情報・金財・物材・地位・名誉・権力・勢力・承認・評価・運気・安全・安心・保護・福楽・健康・生命・・・善悪、良不良に関わらず不変なり。
例えば「福、受け尽くさば縁かならず弧なり」と言われるように福楽は感謝を利とし、先ず日々に訪れる多くの小楽達に心から感謝してゆく事がやがて大福を呼び寄せるのであり、日々の小楽達を蔑ろにしている者には大楽はやって来ないものである。
縁も同様で縁の利も心からの感謝であり、日々の小縁達に心から感謝してゆく事がやがて人生を変えるような大きな縁が起こるのであり、これらの福楽や縁を自分の為だけに使い切って周りに利を分け与えようとしない者の縁の糸、福楽の縁の糸は切れ、周りから人は離れて弧立する事になり、小楽も縁に隋って世間を駆け巡りながら大きくなって還ってくるものである。

如来品正師 多々方路傍石 語録
多くの人は不満の中を流れてゆく・・
この本質に気付かずに生きると心の中は不満が積もり塊りともなり心を修羅・畜生・餓鬼へと貶める。気付く者は生きるに感謝し食べるに感謝し息するに感謝しあらゆる物事に感謝でき慈悲を施し幸せを得る。不満のエネルギーこそが発展と成長の礎でもあり要は方向性なのである

如来品正師 多々方路傍石 語録
苦楽は一如なりて,楽とは苦がまだ新しく新鮮なうちだけの快楽であり、楽の古くなりたるを苦と感じているのである。楽(快楽)を追求するとは一時の快感と大きな苦を得る事を繰り返している事に他ならず、自我に縛られた心は自分に世間を合わせようと悩み苦しみ叶わない時は破壊か破滅へと道を違える。
如来品正師 多々方路傍石 語録
この世の、総ての現象は常ならざるものなりて変化生滅しない物は存在できない世界である(諸行無常)、総ての理と法則は我に随うに在らざる、理のままに法則のままに時空を形成している(諸法非我)、人間は不満の中を流れてゆく存在であり生存とは必ず苦に行き着く本質のものである(一切皆苦
如来品正師 多々方路傍石 語録
暗愚魯鈍なる世にありて、真理を悟るは有難き哉。法を知りても、心なく。知識ありても智慧がなく。智慧がありても実践が無くば、釈尊の御教えも、唯、興味と欲とを満たすだけ。真理を覚る智慧とは、迷妄なる要らざる思考を停止する事により生じ、精神統一と無念夢想と正念正智の調和により出現せり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
私に私の道がある如く、人には人のそれぞれの道がある。その道に等勝劣の違いなく重軽の分別もなし。他人があれこれ計り比べるものではなく自分自身が踏みしめて歩むのみ。唯、戒むべきは人としての道を踏み外し、修羅心・畜生心・餓鬼心・地獄心に陥り、人の姿ながら邪道を歩かぬよう心を見張りなさい。
如来品正師 多々方路傍石語録
「八正道により三宝印と四聖諦を明らかにし、不善処と五蓋を取り除き四念処により今の瞬間へ気付き内観を深め、七覚支により境地を検証し、四徳に努め励む中に智慧は覚醒する。」本質を疎かにして形式にはしるは愚の骨頂であり、形骸化したるものにしがみつき邪見を正見と見誤りたる者達は憐れなり。凡そ伝えられしものを鵜呑みにするが疑法蓋なり。
如来品大正師 多々方路傍石 語録
怒りの毒素は人の心身を焼き尽くす。貪りの毒素は心身に拭えぬ穢れを蓄積させる。痴なる毒素は選択の道を誤らせる。悪作の毒素は選択の機会を誤らせる。多くの人々は自分が怒りと不満を積み上げながら生きている事に気付かない。苛々と物事が気に障って他人を羨み妬み慳貪で吝嗇な怒り通しで居ながらも。
如来品大師 多々方路傍石 語録
僧侶の中にも、医者の中にも優れた者もいれば劣った者も居るのである。如何に権威があろうが肩書きがあろうが間違った偏見を持った愚なる者達が、社会で幅を利かせている感さえある。病であれ悩みであれ物事すべて此れ心に基づき、心を主体・原因として、心により形成されて善悪の果報を得ている事すら理解できないのであろうか
大学の卒業証書を持っていたとて優秀の証とはならず、預金通帳を持っていたとて金持ちの証とはならず、能書き御託を宣いても悟ったとは言えず
如来品正師 多々方路傍石 語録
「孤独感」を悲観的に捉える向きが多いようだが仏道では犀角独歩(犀の角の如く独り歩め)を最上の安楽と捉える。情緒に心を絡め捕られると悪作(後向き・後悔)孤独感に陥り易いが、肯定的に捉え楽しみ糧とする位の心の余裕を養って戴きたい。昔「我に七難八苦を与え賜え」と祈願した武将さえあり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
[大海も水の一滴]とは社会という大海も一滴々々の人々の関係性により出来ている喩えであるが深読みすれば、心とは真水の如き性質の物だが、心に心処(善心処,不善処,雑心処)自我,三毒,悪作など色々な物が混ざり込む。海水も塩や色々な物が混むが如く、しょっぱい心がしょっぱい社会を創る。
如来品正師 多々方路傍石 語録
八正道を知らぬ迷妄な者は思い違い邪見へと陥り易い。これ人の持つ渇愛から生ずるものなり。世に在る権威、評価、価値などを鵜呑みにし妄信して生きるは安易なれど振り回され誑かされ騙されながら老い死んでゆくは憐れ。正観し正念正智したれば罣礙なく真なる世界が出現し大楽の甘露を味わいたるものを。
如来品正師 多々方路傍石 語録
天地と時空に兆しあらば、天地を統べ唯,時空に身を任せる。自業自得の理あるを知りても随いたる至徳の法あるを知らずや。善人でも時満たらざれば悪い事が起こる事あり、況や悪人でも時満たらざれば良い事が起こる事あり。これ人の因縁により生ずる至徳(忍耐)の試練にて。時,満ちたれば大果報を得る。
如来品正師 多々方路傍石 語録
人類も母なる地球でさえも、諸行無常なる本質の存在なのである。人類が仮に何万年栄えようが地球を労わり暮らしていても、やがては滅び消えて無くなる空なる存在なのである。人は大宇宙の変化生滅の一瞬の束の間を生きる身であり、地球が太陽を7,80回巡る間だけ与えられ生かされる命を楽しみ感謝する心を養うことこそが人質(クオリティ)を貴める。
如来品正師 多々方路傍石 語録
人と人、人と物、人と世界、天と地と地中に蠢く微生物に至るまでもが、如何に深く関連し影響しあって存在している事か・・・この関係性を観ることを仏道において智慧という。この関係性が解らずに無常なる慈悲の心など判りはしないだろう。大海も水の一滴から成り、一滴の水が命に慈悲を施すのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
愛欲は執着を生じ、執着は渇愛を生ず、渇愛は貪欲を生じ、貪欲は愛欲を生ず、不善なる心処をぐるぐる廻りたるを無明という。人は不満を以って流れてゆく、その不満を制御する法を知らず、生じた不満に気付く事なく不満に捕らわれ苦を積もらせるを痴愚という。
如来品正師 多々方路傍石 語録
暮し豊かにして 心貧しき者多かれど、暮し貧しくとも、心、貧しくなるなかれ。財貨失うとも、真義失うことなかれ。得たるもの少なくとも、感謝忘るる事なかれ。己の愚かを咎めたれ、人の愚かを咎むる事なかれ。不満の種は尽きまじて、不満を留むる事なかれ。今を生き、昨日と明日に執する事なかれ。人は生まれや地位や金財により卑しかったり尊かったりするのではなく、人はその行いにより卑しかったり尊かったりするのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
人は自分に幸運やご利益を齎してくれそうな物には余念がない。そして愚かにも気休めの域を超えて「開運」「幸運」と名付けられた高額な石ころ・ガラス玉・紙切・木札等を身に付ける・・笑。「幸運を呼び込むものは心掛け」であり、そんなカルトな迷妄を断ち切り不善処な心を制する事であるのだが
如来品正師 多々方路傍石 語録
「今を生き 今を喜ぶ 者となれ」
「情け無し 感謝持てずば 情け無し」
「自利願い 仏像拝みて 仏を拝まず」
「拘りに 生きる無明に 自爆(自縛)せり」
「無慚なる 恥を知らずや 自我の鬼」
如来品正師 多々方路傍石 語録
不善処な心とは、貪瞋痴・悪作といわれる心である。貪とは貪欲・邪見・高慢であり、瞋とは瞋恚(怒り)・嫉妬・慳(物惜しみ)であり、痴とは痴愚・無慚・無愧・掉挙であり、悪作とは後悔・後ろ向きな心、昏沈睡眠、進歩を止める疑いである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
弱者や貧困に喘ぐ国の民を助けたり聖者へ施与する事は、感謝の行為であり功徳となるのです。例えば、年に十度も海外旅行する者がその内の一度分を行った積もりとなり、喜捨し廻し向け、功徳を積むのです。月に十度も外食する者は一度分、年に十着買う衣装の一着分を廻し向ける今の境遇への感謝なのです。
如来品正師 多々方路傍石 語録
日本人が減少してゆくのも国家として衰退してゆくのも源流は因縁深い人間が増えているからに他ならない。先ず功徳を廻向する事すら解らない無明な人が増え、死者へ廻し向ける功徳も積まず、生きている弱者に廻し向ける功徳もなければ善人でも因縁深い者は来世はそんな貧困な国や弱者に生まれるが定め
如来品正師 多々方路傍石 語録
真の心の主とは「私」という捉われから開放された命そのものなのです。心とは水にも似て何も溶け込まず不純物を含まない状態では安定していて何物をも許容できる性質の物です。仏教では善い不純物を善心処と言い悪い不純物を悪心処と言います。悪心処で満ちれば餓鬼・畜生で、善心処で満ちれば如来です。
如来品正師 多々方路傍石 語録
世の中の必要な人になるとは、人の為になる実践の延長上に在るものであり、自分を客観的に眺めれば、一人の人について観察する事になる。物事についてもモットこうであったならば、こんな物があったら人様に恩恵を与え人様の為にもなるという心が世の中を発展させてきた。欲得ばかりではないのです。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「我に施与をせし人々よ幸福であらん」「我に施与をせぬ人々よ幸福であらん」「我を信じ従いし人々よ幸福であらん」「我を疑い仇なす人々よ幸福であらん」「我を敬愛する人々よ幸福であらん」「我を嫌悪する人々よ幸福であらん」「生きとし生ける物たちよ幸福であらん」「神仏と精霊達よ幸福であらん」
如来品正師 多々方路傍石 語録
カルトで神秘主義的な邪見と、形而上的な観念の罠に陥る事なく、世界と自分とをありのまま観察し、実践と瞑想熟考と瞑想止観により確証を得る術を教えるのが真の仏道である。それは清浄への道であり徳を修める道であり慈悲への道である。
如来品正師 多々方路傍石 語録
大宇宙は無なる処に空間という膨張を続ける非物質(無色界)が覆う世界である。非物質なる無色界(梵天界)を探知する術を人類は未だ獲得していないが確かに存在する。その非物質界より物質(素粒子)が生まれ、その素粒子の持つ6種の性質により宇宙の全物質が形成されている言わば全物質は同根である
如来品正師 多々方路傍石 語録
人は死して彼岸に携えるものは、その積み上げし業と真我(魂)に刻み込まれし性(さが)・人格(クオリティ)なのである。肉体から開放された真我は欲に塗れた現世での執着が如何に愚かな所業であるかを悟り、天界の淵、此岸と彼岸の間の迷界を彷徨うのである。地獄も天界も梵天界の内に在る無色界(非物質界)である。
如来品正師 多々方路傍石 語録
六諸仏と釈尊以来、なん人も至り得なかった大梵天界に至りて声聞を賜われし身なれば、大梵天界に渡る淵まで到達しながら大悟を得るを叶わず、潜在識部を末那識と真我との淵を阿頼耶識と呼びし無著・世親の兄弟を憐れむ、唯、開放されし心が大宇宙と一体なるを知らず、「梵我一如」なるを知らず
如来品正師 多々方路傍石 語録
無知の善は、短命で儚い善果を得る。
智慧ある者の善は、大いなる果報をもたらすだろう。
無知の木は大きいが、智慧の木より弱く、智慧の木が育つと無知の木は倒れ朽ちる。
施与を厭う者は、怒りの中に暮らす者なり。己ばかりに気をとられ不満を創りだしながら流れてゆく・・
如来品正師 多々方路傍石 語録
これは明らかに自業自得であるに関わらず、現代人は解っていないと、つくづく想う。癌や腫瘍を罹災だと思っているのだろうか?被害者意識だけは強いのが現代人とも言えるのかもしれない。因は遺伝的要素と体質であり、縁は貪りと怒りと痴愚の心であり、果が罹患であり、結果が報いなのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道は、束縛からの解放を目指すものである。それは執着という束縛からの解放であり、欲(物欲・金財欲・名誉欲・色欲・・・)、自我、身体、偏見、拘り、世評、悪癖などへの執着から開放され平安な心で忍耐を持ち、前向きで明るく落ち着いた誠実な心で生きる者は、此の世でも彼の世でも善果を得る。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「瘦躯ひとつ 拘りもなく足るを知りて 四徳心 平安に生き 寂静に死す」 
「身ひとつで 拘りもなく足るを知りて 無一物 彼の世に運ぶは 業と因縁」 
如来品正師 多々方路傍石 語録
愛などと言う耳触りは良いが、あやふやで掴み処のない言葉が溢れ、無私の愛だなどと造語され「それは慈悲だろう!」仏教では愛とは欲であり、渇きである渇愛、愛おしみの愛着、欲しい欲しいの愛欲と、本質は餓鬼心への端緒なのである。愛される事を切望しながら「愛すれど求めず」などとは片腹痛し。
如来品正師 多々方路傍石 語録
☆世間の誰かに誉めらるを望まず、自分で自分を誉めてあげる。
☆世間の誰かに認められるを欲さず、自分で自分を認めてあげる。
☆世間の人の愚かを咎めず、自分で自分の愚かを咎める。
☆世間の人の欲得を小楽と識り、自分で自分の大楽を楽しむ。
☆世間の人の迷妄に縛られず、自分で自分の迷妄に縛られず。
如来品正師 多々方路傍石 語録
誠実は信頼の礎なり。自制は成長の礎なり。忍耐は智慧の礎なり。施与は果報の礎なり。これを四徳なり「失敗は成功の礎なり。負けるは勝利の礎なり。遅れるは先んずるの礎なり。苦は楽の礎なり。心は物事の礎なり。無欲は平安の礎なり。欲は執着の礎なり。執着は渇愛の礎なり。死は生の礎なり。」
如来品正師 多々方路傍石 語録
愚かな者は「~は、こうあるべきである」などという愚かな主観と間違った見解と無明な判断に陥る。世の悪意ある者達は、そんな処に付け込み、騙し、欺き、偽るのである。真の聖者は着飾らず、拘らず、縛らず、押し付けず、分別しないものである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
人生は幻影にして、友も親兄弟も幻影を残して去りぬ、その悲しみを知るは幻影を偲ぶ時なり。人生は幻影にして、築きしものもやがては滅ぶ、その悲しみを知るは旅たつ時なり。人生は幻影にして、残せし縁もやがては絶える、その悲しみを知るは理を知る時なり。人生は幻影にして、唯、生滅の過程なり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
人にとって第一の宝は「命」であるが、その第二は「人柄」である。性格という自我を超越したものであり、此の世でも彼の世でも祝福されるものである。人は地位や名誉や経歴・生れ家柄・財産・金銭に価値観を措くが、そんな此の世に置いてゆく物に執着せず彼の世に携える業と人質(人柄)こそ霊格でもある。
如来品正師 多々方路傍石 語録
根源的な欲は、活力である。しかし人は刺激を欲しがる生き物で何時の間にか依り強い刺激を求め、割愛に陥る。もっともっとと畜生界へ至り、未だ満たされない未だ満たされないと餓鬼界へと陥る。正に苦界である。不満と恨みを増幅し自己破壊欲に至り地獄界へと至る。又、渇愛へと戻り負の輪廻を果てしなく繰り返す。
如来品正師 多々方路傍石 語録
自分も他人も犬猫も、甘やかされれば付けあがる。自分も他人も犬猫も甘やかして良い結果など無いのである。「鉄は熱い内に打て」と言われる如く、自分も他人も犬猫も早い内に対処するのが最良である。我慢と忍耐を学ばずに優しさなど育たない。現代は渇愛病で溢れている。強欲も自分勝手も肥満も鬱も
如来品正師 多々方路傍石 語録
四徳 (誠実・自制・忍耐・施与)
誠実<誠の心を以って実直に生きる者を咎める者なし。もし咎める者あれば、その者の心の内なる不満を徳行に投影しているが如し>自制<自ら煩悩に気付き制御し中道に生きるは徳行なり>忍耐<耐え忍ぶ事なくて平安はなし>施与<施し与える者に天は果報を与える>
如来品正師 多々方路傍石 語録
釈尊は何も説かなかった。唯、心の内に既にある真理に気付き制御する方法を教え指し示しているだけ。
<物事は心に基き心を主とし心により創り出される。人もし清き心を以って話したり行ったりするならば福楽の彼に随う事、影が離れざるが如し>
如来品正師 多々方路傍石 語録
物色界(物質界)は無常なり、非物色界(無色界・天界)は無常ならざり。物色界は無情なり、非物色界(無色界・天界)は無情ならざり、物色界は理不尽なり、非物色界(無色界・天界)は理不尽ならざり、非物色界(無色界・天界)にして神仏に姿・形を求むるを愚の骨頂と言う。唯、善なる意志なりて
如来品正師 多々方路傍石 語録
人は社会に対し承認欲を求め自我を保っている。社会からの評価判断を過度に気に掛けると自縛を招き、苦を招く。気に掛けないと自分勝手で社会に害を及ぼす存在とも成りかねない自我を形成する。中道をもって心の安らぎを得る。人の本質は人を何人でも殺し排除したい程に愚かなのである、罰せられるから殺さないで我慢しているだけなのである。妄想を繰り返し性格の悪くなっている者達などは頭の中ではすでに何十人もの人様を殺している殺人者であり、現実世界では罰せられるから我慢しているだけ
如来品正師 多々方路傍石 語録
固定的な自我などというものは存在せず、たえず変化生滅を繰り返している幻の如き露の如し非我な存在であるという認識を修養し、主観などという曖昧な迷妄に捉われ拘っていてははならない。
如来品正師 多々方路傍石 語録
客観的に自分をよく観察して下さい。色々な欲の塊である自分に気付くでしょう。その色々な欲の塊が自分を苦しめているのです。無明から渇愛が生じ、渇愛から執着が生じ、執着から欲が生じ、限りない欲から苦が生じるのです。誠実に生き、自らを制して、耐え忍ぶ事を学び、施し与える心を育みましょう。
如来品正師 多々方路傍石 語録
S.p1119.常によく気を付け、自我に固執する見解を打ち破り、世界を空なりと観ぜよ。このように世界を観ずる者を死の恐怖を抱かせる悪魔が見る事はない。他への批判、中傷は自我への執着から生ずる。聖者は論争が起こってもそれに組せず不安な人々の内にあって安らけく泰然として執する事がない。
如来品正師 多々方路傍石 語録
この世は移ろいゆく我と、移ろいゆく時空との暫定的な出会いとで成り立っているのだが、その根源原理が因縁起果報なのである。因縁果報と巷では言われるが、因と縁の生起か不生起に依りて果と報が天と地ほどの差となって現れてくるのである。(悪因・不善悪因・善因)(悪縁・不善悪縁・善縁)
如来品正師 多々方路傍石 語録
輪廻とは天なる存在が人なりと修羅・畜生・餓鬼・地獄へと巡り、天へと戻る輪廻する定めを説くが、人は赴くべき領域に赴き、成るべきものに成るのであり、地獄から天へ赴く者もいれば天から地獄へ赴く者もいる。因みに人を踏み躙り巨万を築いた或る悪人は、千回蟻に生まれ千回踏みつけられ地獄へ赴た。
如来品正師 多々方路傍石 語録
四徳成仏論を説かれた◆誠実に努め励み人徳を高めよ◆自制に努め励み人徳を高めよ◆忍耐に努め励み人徳を高めよ◆施与に努め励み人徳を高めよ◆是れ、成仏への道にして真なる心の安らいを得る第一の果報なり◆全ての欲(金・地位・名誉・快楽・健康・長寿・・)は一時の心の安らいであり苦の因でもある
如来品正師 多々方路傍石 語録
釈尊は真理など説かず真実を語っているのです。そして信じなさいとも仰っては居ないのです。真理とは言葉では語り尽くせない体現するものであり、盲信する事ではなく、ご自身の体現された大悟への道を指し示す聖道跡なのです。、それは苦行でも極端でもなく、心の中に求め、大楽と開放と涅槃を得て大梵天界と同調する大悟への道なのです。
如来品正師 多々方路傍石 語録
心を二元的に観ると心というものが観やすい。一つは主体的意識であり、二つは客体的意識である。(実は潜在的意識もあるが)、主体的意識とは気付き・感受・意志等であり、客体的意識とは、妄想・承認欲求・識別・表象等である。主体的意識は怠け物で油断をすると客体的意識が心を主導しているのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
身を制し、言葉を制し、心を制し、息を制し、調えるべし。自ら制し、自ら気付くが戒律なり。極端に奔らず中道を心掛け、あらゆる束縛より脱したる処を涅槃(ニルバーナ)と呼ぶ。大楽界である。
如来品正師 多々方路傍石 語録
法を知りても、心なく・・・知識が有りても、智慧がなく・・・名称有りても、実践なくば、御仏の有難い教えも、何んの役にも立たず。唯、興味と五蘊を満たすだけ。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「全ては一息の内にあり」 一呼吸の内に、人は想いをのせているのです。喜怒哀楽や迷いや掉挙、暗い心、明るい心、苦しみ痛み、遊び心や怠け心、恨み心や媚び心、そんな心の状態に気付き、歓喜と平安の呼吸を心掛け、努め励む人は、悪魔(病気・不運)も避けて通るのです。
如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道は「八正道に始まり八正道に終わる」と言われる如く、正しく気付いてゆく事である。間違った考え方にしがみ付き浅薄な心境に終始していては真の平安と悦びを味わうことなど出来ないからである。八正道の「正思」とは妄想に終始する自分の心に気付き、先ず妄想を止めてゆく事から始まる。妄想とは感情に主導されて不善処に陥ることにより深まってゆくものである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
自我による妄想により自縛され煩悩に誘導されて、物事を比べ計り主観(感情)による判断を繰り返す無明な者には、観察している心と観察されている心の両者の存在すら気付かない。観察している心とは理性であり、観察されている心とは感情であり、理性が感情(煩悩)を制御できて初めて人なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
世の中には「考え方を変えて自分を改良する」的な浅薄なハウツー本や宗教本が氾濫しているが、それによって改良できた者など居ないのである。一時的に改良できたと錯誤しても実際には何も変わっていない。何故ならば物事は思考や主観が決めているのではなく潜在層の概念(無意識)が決めているのである
如来品正師 多々方路傍石 語録
「想像力は進歩をもたらし、妄想は業を深める。」多々方等正覚。人々は無限なる想像力と苦悩をもたらす妄想とを識別し気付くこともなく、唯、妄想を繰り返し流れてゆき不満と渇きを深めてゆく。まず思考を止めてみることが大事なのだが、世の中では雑念だらけで集中力がない者を思考停止と呼んでいる。
如来品正師 多々方路傍石 語録
人生が空なのではなく人の生が空なのである。人の存在とは空しく不安定で不満と苦の中に成るつまらない存在であり、決して執着するようなもので無く、いつ捨てても構わない代物である。活力は不満より生じる。生命とは唯の不満の流れなのである。大宇宙も世界も不完全で不安定で絶えず変化生滅してゆく。
如来品正師 多々方路傍石 語録
真の仏教は尊い教えである。何故尊いのか、総ての人々が求めてやまない生きる目的である真の幸福に至る道筋、何で生まれて来たのか、人とは?、死とは?・・・人間の心の世界を明確に指し示す唯一の教えなのである。しかし大乗は空に拘る余り仏教を厭世的で人生の空しさを説くが如く捉えてしまっている。
如来品正師 多々方路傍石 語録
貪瞋痴とは生物の本能的な生存欲に基づく根深い感情なのである。そして釈尊が仰った悪魔マーラの正体とは自身が積み上げてきた業と宿業とが造り出した五官を支配しようとする意識。その業に促され本能的な貪瞋痴・渇愛・苦が創りだす想念(無意識の概念)が表層の意識に於いて言葉により主観を形成する
如来品正師 多々方路傍石 語録
幸福感とは決して頭の中をお花畑状態にする事ではなく、汚物が沈殿せし湖底より絶えず湧き上がる泡の如き根源的な衝動と貪瞋痴に基づく主観(貪り・怒り・痴愚・怨み・嫉妬・吝嗇など)に気付き、それらに向き合い制御し、五蘊の識蘊という分別を制御し、在るがままに拘らず捉われず大観する処に生ずる。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「人は自分の事を人だと思っている」当たり前な話であるが、六道に照らしてみれば実は阿修羅なのである。畜生と人との間に位置し、三面の阿修羅像の如く生存本能を根源とする貪瞋痴の衝動に支配され争い比べ計り渇愛の中を妄想を積み重ね生きているのである。人が真に人とならんが為に戒定慧の三学あり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
世間の利得を求める道も道なれば出世間の真理を求める道もまた道なり。そして利得を求める道と真理を求める道は実は逆方向の道であり表と裏の関係性でもある。真理を求める道には裏に利得が潜み、利得を求める道の裏には真理が潜んでいる。どの道も心を制御し精進してこそ成し遂げられる道でなのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
世間の利得を求める道も道なれば出世間の真理を求める道もまた道なり。世間の利得を求める道において人は一時の喜び快楽と大きな悩み苦しみの中を流転する。人の本質は苦である故だが、苦とは苦と感じた瞬間からが苦なのであり苦と感じなければ苦ではなく、苦を恐れていては何も出来ない事に他ならない。
如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道修行とは世人とは反対の事をしてみる事でありそして中道を定め住するのである。◆人は本能に動かされ動かずには居られない⇒動きを止めてみる◆思考は本能に考えさせられ考えずにはいられない(妄想)⇒思考をとめてみる◆本能の衝動で五官は外に向かって情報を漁る⇒五官を制御し内観に向かう。内観により集中力が養われてきた者は、内々観へとすすめ。
如来品正師 多々方路傍石 語録
☆人は外に知識を求めてやまない⇒知識は外から齎されるが智慧は内より生ずる。
☆人は自己中心に陥る⇒不安定な自我を安定させようと自惚れる(慢)
☆人は快楽を求めて執着する⇒一時の快楽の空しさを覚り厭離する
☆人は五官からの刺激(魔誘)に取り込まれたがる⇒五官を制御し防御する
☆人は苦手な物事を回避する⇒苦手な物事を直視する。(大した問題ではないことに気付く)
☆人は群れたがる⇒犀角独歩する。
☆人は本能(貪瞋痴)により物事を判断し比べ計りたがる⇒感情は主観的判断、理性は客観的判断。
☆人は本能により納得しないではいられない⇒放っておく(不放逸)
☆自分に拘らないではいられない⇒不拘不捉
☆人は主観的に考える⇒客観的に考える
☆人は苦から逃れようともがく⇒苦の本質に気付く
如来品正師 多々方路傍石 語録
命の実相を味わう。生きるのに必要なものは既に備わり、心が清浄なれば五官から得る情報は総て清浄なり。心の真の主となりて魔の罠を打ち破り、悪しきものを厭離し、平安で甘露な悦楽に梵住するを涅槃とぞ呼ばん。そして五官と梵住さえもを捨離し、大宇宙と同一する処に大悟は啓かれる。梵我一如なり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
観自在の境地に至り菩提心に依り世の罠や痴愚、不浄を覚り平安に住する。虚空蔵の境地に至れば菩提心に依り世間の欲望や執着の根源を覚り法悦に住する。普賢の境地に至れば菩提心に依り自我に拘らず自利に捉われず一切衆生へ慈悲を施さん。弥勒の境地に至れば菩提心により天地の理法を覚り如来とならん。
如来品正師 多々方路傍石 語録
今の仏教には五蓋(貪欲蓋・瞋恚蓋・昏眠蓋・掉悔蓋・愚痴蓋)の他に大悟へと至るのを阻むもう一つの大きな蓋が存在する。それはブッダゴーサに縛られる上座部を始め竜樹⇒智儀⇒最澄日蓮⇒日興と続く法華列、空海密教列、法然親鸞の浄土列、道元栄西の達磨列などのアビダルマも大蓋である。
如来品正師 多々方路傍石 語録
大悟とは大観(価値観・重要度・状況・存在観)ではなく、空観でもなく、縁起の明智でもなく、大悟とは「自己完結」であり「自己完成」なのである。喩えば絵描きの絵、物書きの文、職人の作品、それらが芸術たるは自己完結にあり、他人の評価などは世間の問題であり、達成したる境地こそ芸術なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
神だ仏だという信仰宗教は無くて構わない代物である。人は自分自身で心を制御・マインドコントロールするのが苦手なのである。だから例え邪教であろうと間違った教えであろうと、外からもたらされる情報に依存して洗脳・マインドコントロールされていたほうが楽だから変えようとは思わない怠け心なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
世の中では「覚悟」「観念」そして「諦観」などを曲解して使っている。これらをあきらめるの意味で使うが「諦」は「あきらめる」ではなく(物事の本質を悟り見極めるた境地)なのであり覚悟・観念も同様なのである。土壇場でジタバタしないのは同じではあるが・・笑。天と地ほども異なる境地なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
神だ仏だという信仰宗教は無くて構わない代物である。しかし本質的なドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.悔い.不満.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.哀しさ.惨めさ.実体のなさ.欲.無明)により煩悩(存在欲)を生存の素因として主導されて生きる人は、自分の自己防衛と自己保存という根深い渇望により保護.安全.安心や利益や願望や真理をもたらしてくれそうな物を求めて止まず、そのようなもので不安定な自分を安定させようと神や仏を妄想し縋りつくが、その実、保護.安全.安心も益も願望も真理も得られず大切な時間と金を無駄にしても、精神的な支柱が失うことを認めたくないから続けるのである
如来品正師 多々方路傍石 語録
何故、愚かな人は外からの間違った情報に容易に洗脳(マインドコントロール)されてしまうのか、それは至極当然なことであり、自分自身の「心の制御(マインドコントロール)」が出来ていないからに他ならない。制御されていない心とは感情に支配され貪瞋痴の煩悩の中を巡り流れてゆく渇いて欲する本能。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「真の悟りとは、捨離なり。」欲得を捨離し、執着を捨離し、認識を捨離し、渇愛を捨離し、貪瞋痴を捨離し、自縛を解き解し、愉悦の境地にて、悟りさえも捨離した境地にして垣間見えるものこそが、大悟である。まさに仏の境地に至るのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
喜びとか幸せとは外からもたらせる物事の多い少ないではなく、感性がどう感じるか次第であり大金持ちであろうが貧乏人であろうが喜びと幸せの質と量は、その実たいして変わらないのである。何故なら人は必ず苦(不満や飽きも含)に戻る本質の上に存在し一時の快楽を味わっているに過ぎないのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
空観も大悟ではなく、縁起の明智も大悟ではなく、大観さえも大悟ではない。2500年の時を経て多くの覚者あれど大悟に至りし者なし。皆、大悟したと宣いて一宗一教一派を創り上げて来た。善良で愚かな衆生の求めて止まない功徳を齎すものは大悟したる正覚の恩寵なり。大悟を得しは釈尊と吾のみ哉。
如来品正師 多々方路傍石 語録
大観なく目先の現象に一喜一憂する者は妄想の中に我が身を安んじる。小楽を追い続け渇愛地獄に陥りし者の主は悪魔なり。大楽を知らず貪瞋痴の煩悩から生ずる感覚に頼り、五官の刺激に取付かれ平安の悦びを知らぬ者を無明・暗愚という。世の中では偽者や未熟者がこれが悟りだ。これが大悟だと嘯く。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「心、盲目なる者は如来のまえに在りても、見目麗しき悪魔を崇拝する。」
「因縁深きものは、因縁深きものに魅入られる。これ宿業の浄化に努めはげむ事なく唯、怠惰に生きる業の賜物なり。」
如来品正師 多々方路傍石 語録
世の人は「普通」という曖昧な基準と偏見による概念により形造られた価値判断を重要視する傾向がある。それは自分で考えていると錯覚しながら実は他人が下した無責任な評価や偏った者の意見に誘導されたり気付かずに洗脳されていたりする場合さえある。そして愚か者は自分が間違っている事に気付かない。
如来品正師 多々方路傍石 語録
人間なんて所詮、馬鹿で阿呆で愚かで半端なのだから、大きな喜びや幸運を妄想せず小さい喜びや幸福をより多く積み重ねてゆく事を心がけて生きれば、苦を招くこともなく悩みを造り出すこともなく執着や渇愛も薄れ、感謝する心に気付き、いつの間にか一人の智者へと生まれ変わっているかも知れない・・
如来品正師 多々方路傍石 語録
ニースの海辺の高給レストランで食べる食事と普段は安弁当を食べている人が倍の千円クラスの弁当を食べた時の喜び満足感の質と量と持続時間の長短などは大して変わらないのである。どこで何をしようが心がどう捉え心がどう味わうか次第であり、結局は苦に戻り付き次の小楽を求めて彷徨う愚人なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
世に溢れる「詭弁・戯言・能書き・世迷言・都市伝説・迷信・先入観・誘引術・偽善・嘘・・・・・」社会には有りとあらゆる罠が張り巡らされているのです。安易に権威・評価・歴史・雰囲気・見栄え・美辞麗句などに誑かされぬよう心して掛からなければ大事な一生を台無しにしてしまう事さえあるのです。
如来品正師 多々方路傍石 語録
宗教というものは或る意味、愚かな人間達を畏れさせる為のものでなければならない。人智を超えたものに対する畏怖、定めに対する畏怖、行いに対する畏怖などが人間を人間たらしめる。だが巷には貪欲な者達により捏造されたご利益や果報を謳い愚者が求めて止まない餌を撒き善良を誑かす宗教が溢れて
いる。
如来品正師 多々方路傍石 語録
宗教には大別して一神教多神教とに分かれ、ユダヤ教キリスト教イスラム教の神は同一な一神であり、大自然と山地草木に至るまで八百萬の神が宿るとされる神道などは多神教である。しかし仏教は神や仏を崇めず、唯、人格を完成され正覚された釈尊を敬い、その聖なる道跡に続かんと修行する事である。
如来品正師 多々方路傍石 語録
順風は、兎角あらゆる罠が待ち受ける。そして逆風は宝である。歴史は逆風の基に培かわれるのである。忍辱は難業なれど、忍辱なければ平安はなく、智慧の伴なわない精進は覚束無く、誠実でなければ信頼はなく、施与する器量がなければ幸せは遠き幻。自己弁護と言い訳に終始し変化を恐れる者は不幸を招く。
如来品正師 多々方路傍石 語録
智慧の修行者は、五官(眼耳鼻舌身)の刺激を制御し、足ることを知っている。それ故、苦悩とは無縁なのである。幻想や妄想から生じる願望や執着が消えれば不満や苦悩も消える。これ縁起の法なりて、人生の痛みや葛藤の原因は絶えざる欲求や願望から生じている事に気付き、貪瞋痴を制御すれば平安を得る。
如来品正師 多々方路傍石 語録
智慧の修行者は、無心に観じ全てに没入し時空に身を任せる。「在るがまま、成るがままに」自分という意識を滅尽し自我から生ずる良悪・好嫌・楽不楽なく、俗世に在りながら胸を痛めることもなく、寿命の長短はあれど、今を生きるのみ。愚者は過去を悔い、未だ来ぬ未来を憂い、今を見ようとしない。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「不拘・不捉・不貪・不瞋・不痴」捉われず、拘らず、貪らず、憤らず、痴愚ならず、五官の罠に気付き悪魔を誑かし上前をはねて楽しんで平安に生きるを「梵住」と呼ばん。渇愛を打ち破り、不善から離れ近寄らず、世間への執着を捨離し、観自在なる境地・虚空蔵なる境地・普賢なる境地を蔵する如来の境地。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「心とは三元的なものであり、二元的に使い、一元的に働くものである。」
心を真に知る者には理解できるだろうが、解らぬ者には陳腐にも受け取られよう。
如来品正師 多々方路傍石 語録
【四つの合一】
④梵(真如)との合一(大宇宙の意志との合一)無域を覆う大空なる存在である梵を仏法では無色という非物色なる非物質(電気的な認識が出来ない意)な状態であり、人の心の中に在する真我の輝きは梵なのである。この「梵我一如」に至るを大悟という。「虚空蔵⇒観自在⇒普賢⇒弥勒⇒梵」0件の③大宇宙との合一(大宇宙との一体)自分という存在と大宇宙の果てまでもが同源で同質な物質である覚り。姿かたち状態がそれぞれの意志によりそれぞれの姿かたち状態に今はあるが明日は今の私は雲になるか山になるかゴキブリの中で生きているか彷徨っているか時空の中に変化するのみ。
②世界との合一(社会との関係性) 個人の表象する意識と社会の集合意識とがお互いに密接に影響しあっている関係性の認識が社会との高い調和と秩序を創り出していることの覚る「大海も水の一滴」の境地。想う以上の多くの他人と多くの生命の「お影さま」により生かされている存在認識
①自分との合一 人は五官の刺激、五官からもたらされる情報だけを頼る次元に生きている。人間に認識できるのは狭い範囲の情報でしかなく思考も妄想も哲学も科学もすべてそれらの情報に基づき頭の中で組み立てられたものにすぎない。
その次元を超越した高いレベルの叡智と摂理との合一
如来品正師 多々方路傍石 語録
私は自分を人生の勝利者だと自負している。弟子や信者こそ少ないが・笑。真の人生の勝利者とは、偉くなることでも、財産を築くことでも、大会社を造ることでも、立派な行跡を残すことでもなく、「平安に楽しく生きた者勝ち。」なのである。捉われず拘らず苦悩なく生きる伝法こそが真の仏教なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
心を制御するその第一は、妄想を断滅することから始まる。暗愚な人は日々、常に、ろくでもない妄想を頭の中にめぐらし積み重ね病んでゆく。貪瞋痴の中を流れ、不満や怒りの中で生きてゆく。然もそれに気付かずに。五蘊の何んたるかを知る者少なし。故に色受想行識の識に間違った概念と偏見と判断を培う。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「身一つで、この世に産れて生きて、身一つで去り行くだけ」生きて老いて死する人生は、何だったのか?何をしたのか?何を残したのか?何の意味があったのか?人は無明暗愚に戸惑う日が訪れる。この世の記憶も財貨も名利も成功も血縁も空なりと悟り、唯、清く正しく楽しく生きて天命に感謝して逝くだけ。
如来品正師 多々方路傍石 語録
真我域は眩い光に満ち溢れ至福に包まれる大楽の処にて大宇宙の実相を顕現する。生命とカルマに促され想念を発生させる源である。沈潜する事七分方にて先方に見出すその光に向かい沈潜してゆくと真我域へと辿り着く。初めは沈潜というより潜り込む感に近いが慣れると心がエレベーターの如く運んでくれる。
如来品正師 多々方路傍石 語録
想念の発生源へと沈潜してゆく真なる瞑想により、真我・梵・阿頼耶識・潜在意識深部とも呼ばれる心処の源である。精神集中により心が波立ちのない湖面の如く在るのも正念正智により捉われのない境地に入るのも覚醒を顕現するのも一つの状態であり基点である。心の内観へと沈潜した潜在意識域に正覚する。
如来品正師 多々方路傍石 語録
真我に想いを刻すれば運命・宿命さえも変えられる。あらゆる物事が好転してゆく事にも気付くだろう。因縁の輪廻からも解脱してカルマの宿業を浄化せる。天にて祖先精霊も家門が立ち栄えるを祝福する。
如来品正師 多々方路傍石 語録
悟らんが為に努め励むは、徳を積み功徳を施さんが為である。決して自分ばかりが高見へ昇りたい我欲の為なぞではない。そして人々はその高い精神性と人徳とに対し畏敬と憧憬を懐くのであろう。能書きと理屈と観念御託を並べたて人々を誑かさんとする者達の中にあって清浄なるが真の仏道なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道は真我を探す旅でもある。その為にはまず己の心を見つけなければならない。人は心は特段に探さなくても頭の中にあると浅薄に信じている。では想念の発生する心の処を認識出来ているのだろうか?頭に浮かんだ想念を追いかけているだけで想念を制御することも想念を止める術も解らず彷徨っているだけ
如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道に於いては客観視する事が重要であり主観に振り回されず煩悩に翻弄されず心して気付いてゆく事が真に心を制御してゆく道でもある。そして心を客観視してゆく事こそが修習であり、これは「見張られる心と見張る心」の二元性を見定めなければ覚束ない。その為の正念正智と精神集中の瞑想なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
頂上なる瞑想法は、先ず心を正念正智(ビッパサナー)から次に精神統一(サマディ定)に導き、そこを基点として禅定へと至り、寄せては返す漣の如く、心の内に除々に深く沈思してゆくと其処は真我域であり触媒である生命力とカルマに発動された想念の起点である真我から大宇宙との統合を得る喜びに満ちた法悦域である。禅定とは、内内観なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
今生に、神だ仏と崇められ、大きな社殿を遺しても、天地の理法は定めに随う。因縁深き者、多々、地獄で喘ぎし。極楽を求め願いし弱者達、成仏を願い求めし悪者達、転生を願い求めし愚者達、心を浄め功徳を積まずして如何に天上の門が開かれようか。良い処に転生出来ようか。「天地の理法は定めに随う」
如来品正師 多々方路傍石 語録
痴愚なる者の妄想には煩わされるな。暗愚なる者の見解には係わりあうな。世人の評価などには拘るな。認識できない物事などを信じるな。嘘だと名乗る嘘つきや詐欺だと名乗る詐欺師など居ないのだから。歴史と伝統に裏打ちされて居ようが権威ある学説であろうが、どう言い繕おうが偽物は偽物なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
喜びや幸せとは考え思う事ではなく、感じる事なのである。悲しみ不満とは考え思う事ではなく、感じる事なのである。苦しみは楽を求める事によりもたらされる苦楽一如なる本質であり、貪りと欲張りと自我による主観の判断に任せて渇愛の中に貪・瞋・痴・悪作の心処を巡って妄想と不満を積み上げている。
如来品正師 多々方路傍石 語録
心が地獄と成りたる者は、生物の根源(地の底に蠢く微生物類)へと再誕し輪廻を繰り返す。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界は存命中でも認識できる。心の中を覗いてみれば其処には何れかの世界が拡がっていよう。殆どの宗教家が地獄へと戻り再輪廻の道を歩んでいる事は考え深い。
如来品正師 多々方路傍石 語録
真理とは、消極的に捉えるならば厭世観に陥り、積極的に捉えるならば涅槃へと至るものなり・・要するに不満を不満として捉える者は、不満だらけともなり、不満を本質であると捉える者は大いに楽しく平安な日々を暮らす。朝起きて、今日は今日とて嬉しいな。空澄み渡り心は晴れて、空気は甘し足取り軽し
如来品正師 多々方路傍石 語録
苦悩とは、それは一切を如実に観ずる事の出来ない人の無知・無明より生ずる。私(自我)の快楽をひたすら追求するものは帰って、苦悩を招いている事に気付かず、不満と怒りで心を濁らせている事にすら気付く事なく妄想と妬みの日々を送っている・・喜びも幸せも既に手の中に体の隅々に溢れているのに
如来品正師 多々方路傍石 語録
「悲しみを数えて暮らす日々を絶ち、喜びを数えて暮らす日々とぞなさん」「人間万事 塞翁が馬の 意を解するは喜びへの道」「情けは人の為ならずの 意を解するは功徳への道」「富士山けだかい(不自讃毀他戒)の意を解するは人徳への道」