成功と失敗

世に言う、成功も失敗もその本質は一如なりて唯、捉え方による価値観しだいなのである。人の価値、生きる価値とは、その行為の上にのみに在り、決してその結果には無いのである。好きも嫌いも表裏一体なものであり結果とは一過性なる現象に過ぎず、賢者はその行為から生ずる結果に捉われず、その行為だけに気を止める。所詮は世に成し遂げし物事など無常なり、どれだけ金財を蓄えようが、どれだけ偉くなろうが、どれだけ勢力を築こうが、心を汚したれば地獄へと堕ちる。心に成し遂げしものこそが、真の宝なりたるを識る。
地球上の生物の中に於いて頂点を極めた存在である人類ではあるが、その本質は「苦と不満」であり、「苦と不満」の活力により貴き存在へと進化してゆく未だ途上の未熟な存在なのである。
他の生物達と人類との違いは表層における論理的思考であるが、しかし論理を錯覚すると世に溢れる能書きや空理空論や形而上的思考、先入観や固定観念に翻弄され理性を惑わすものに覆われ捕り込まれる。これもある種の試練であり失敗でもあろう。
しかし人が人として在るためには理性が感情を抑制し主導する存在と成って行かねばならない。
人の煩悩とは「存在欲」であり存在に対する欲求が不安定な衝動を生じ、意識は存在欲の衝動に基づいて思考して、存在欲に基づいて主観を形成して、存在欲に基づいて自我を形成している。何かをする時には常に存在欲にとりプラスとなる結果を期待していて、期待通りの結果を得れば成功と思い、期待通りの結果でなければ失敗と考えるのであり、物事はそうそう思い通りには行かず、心とはいつも失敗しているものなのである。
しかし失敗が成功の元というが如く、失敗を改めて成功へと至る事もあれば、一見して失敗と思えたことが実は成功であったりもするものである。
自然界の動物の世界では一回の失敗(判断ミス)が命取りともなるので失敗を冒さないように実に慎重に生きているだが、人間社会に於いては危険はある程度まで想定でき安全も確保されているので、動物ほどには失敗を怖れる必要はないのだが、失敗することを極端に怖れ行動に移せない臆病な人もいるが、そんな人は人生を傍観者の如く生き、やがては自分こそが自分の人生の主人公であったことに気付き、その生き方を振り返る時、必ず後悔や不満に苦しむ。
慎重なことは良い性格であり、鉄砲玉のように何処へ飛んでゆくか分からない思慮分別のない性格よりは穏やかに生きられるが慎重に成りすぎると折角の人生を楽しみ味わう機会を失うことにも成りかねないこと。    人生とはそうそう予測通りの結果(成功)などなく多くの失敗の上に成功がもたらされる事を認識せず、自我を深め自己中心的で自分勝手な自我の錯覚に陥れば、物事を主観や都合で判断して間違った認識や見解により情報さえも捏造し、いつも期待が結果として失敗することに苛立ち悔やみ欲深く貪欲になってゆき怒りや苦しみの中を流れてゆく人も多い。
「失敗は成功の母」と言われる如く、失敗の中から成功は生じるのである
その為には、失敗とは捉われたり拘ったりするものではなく、失敗したことを如実に気付き、誤魔化さず隠さず、素直に認めて繰り返さないように努力してゆくものであり、「失敗に学ぶ」ことこそが真の精進であり修行なのであり、失敗に学ぶ事より自ら磨かれ、失敗に学ばず事なくして自ら堕落するのである。
失敗に学ぶことこそが、真の「自燈明」であり真の師匠でもあるのであり、ヒエラルキー(階層構造)を持ち込み、第六蓋とも成り果てた近年のサンガ(仏教宗派)に於いて、仏教の理論化を重視するあまり、偏り硬直化した教義に縛られ挙句に忘筌へと陥り、失敗に学ぶ事を知らず能書き・戯言・綺麗事により位階を授かり師僧とも仰がれる集団より離れ、釈迦尊が仰る如く、犀角独歩によりて「自燈明」「法燈明」を頼りとして他の一切に頼ることなく努め励め。これこそが、真の成功(達成)への道である。
社会でも政治でも個人でも多くの失敗の上に存在しているのであるが、失敗を失敗として認め誤魔化す事なく改めてゆくならば、社会でも政治でも個人でも向上してゆくのであり、社会でも政治でも個人でも失敗を失敗として認めず責任を転嫁し誤魔化してゆくならば社会でも政治でも個人でも必ず堕落してゆく。真の愚か者とは「自分は失敗などしない」と思い込み、失敗を失敗だと気付く事も認める事もできず失敗を繰り返し「失敗に学ぶ」ことの出来ない人間の事をいうのである。「己の愚を知るが賢者なり」    あらゆる試練を乗り越えて人類にまで辿り着いた人間が更に進化してゆくための試練が、理性が感情を制御してゆく事であり、理性が感情の制御に精進して生きる状態が「人」であり「真人」であり、その人格の完成、到達こそが「天」なのである。感情的に考え判断している神という存在をも凌ぐ存在となのである。それを私は人の質(クオリティ)を貴めてゆく仏道と説く。「人の質(クオリティ)の上昇とは心の境地の上昇であり、歓喜の上昇であり、幸福の上昇でもある。」これこそが、真の成功と不成功なのである。