現象世界

この世界は現象世界なのである。
全ての事物は「生じては成長し変化し滅してゆく」という現象を永遠に繰り返しているだけなのであり、私とは生じ成長し変化しながら軈て消えてゆく途上にあるだけの存在なのであり、妄想された神や仏の差配によって現象が醸されている訳ではなく、すべての現象は天地自然の法則(物理法則)と因果法則によって現れては変化成長し消えてゆくのである。★但し、事物が(生じ現れる)も(変化成長する)も(消える)も状態が変化しているだけであり、この事物(物色)は不増不減なのである。
物色には生命にしろ心にしろ物質にしろ(存在していたい安定に向かい変化してゆきたい)という根源的な意思により存在し、大宇宙も(存在していたい安定に向かい変化してゆきたい)という意思により存在している。
そして細胞の集まり(結び目)でもある生命とは各細胞の(存在していたい安定に向かい変化してゆきたい)という根源的意思の集合体なのである。
しかし愚かな者達は存在欲の衝動(生きていきたい)に翻弄され不死の幻想、永遠の命への渇望から逃れることが出来ずに苦悩している。
「現象世界に在る全ての物事とは仮体(一時的な仮の姿)にすぎず実体(実相)は存在出来ない世界である。」「すべての現象は、因縁により生じ、因縁により変化し、因縁により滅する連続体である。」
「現象の集起を在るがままに正しい智慧をもって観る者には世界において(ない事)はなく、現象の滅を在るがままに正しい智慧をもって観る者には世界に於いて(有る事)はない。(存在するでもなく今は存在している状態)か(存在しないでもなく今は存在していない状態)であり、故に(一切は有る)という極端な定見にも(一切な無い)という極端な定見にも陥ることなく中道により観ることが正見である。」「生じては滅し、滅しては生じる」
この世界が現象世界(現象界)であることを自覚できない未熟な心は、自我に固定的な実体の如く固執し、この社会が進化こそすれ永遠に続くが如く錯誤している。
だが現象世界は「因と縁により生じ、変化し、やがては消えてゆく。」(因子の離合集散)の理の上に存在している固定的な実体の無い世界であり、変化生滅しないものは存在できない不安定な世界でもあり、その不安定な現象世界(大宇宙)に安定をもたらしているのが、数学でいう「素数」という「理」なのではなかろうか。
物質とは粒子として存在し波動として変化する単なる流れなのである。
「物色(物質)は絶えず変化してやがては最小単位の粒子へと戻り、再結合により又、別な何かとなり生ずる。」「現象は無常なりて空なり、存在は無常なりて空なり。」
生まれたものは消えるのが定め、例え何が消え、誰が去ろうとも何も悲しむことではない。現象として存在していない状態へ戻り、現れなくなるだけの事である。
人の一生とは、この世界のあらゆる現象に振り回され命を終えるだけ「生きるとはその程度の物でしかない。」と理解し実感できれば現象世界は歓喜と安穏に満ち溢れていることに気付けるだろう。
現象世界に捉われなくなって初めて安穏は訪れる。
「吾は存在しているものではなく存在していないものでもない。在るでもなく無いでもない現象の変化の過程なのである。」
五官の刺激(現象)から離れて、快く息をして、快く眺め快く想い、快く生きれば、この世と存在に罣礙など無く、故に執着もなく、苦や不満の生ずることもない。
普通の人は、五感官(眼耳鼻舌身)から入った現象を、在りのまま認識できずに捏造して誤った認識をして居る。その間違った認識が偏った見解を形成し、それを積み重ねて主観を形成し、その主観が更なる間違ったり偏ったりした見解を新たに乱造してゆく。(その乱造を手助けして増幅しているのが妄想なのである。)
例えば、人は五感官から外界の現象を捉える(色蘊)、その現象を、眼は「色や形」、耳は「音」の刺激(現象)として受ける(感受蘊)、その「色・形」や「音」に対して知識や記憶や先入観などにより眼では「花だ」耳では「自動車のエンジン音だ」などと思考判断している(想蘊)、それらに対して人は時々の衝動を覚える「花」に対しては「見ていたい」とか「欲しいとか」、自動車のエンジン音に対しては「煩しい」「どんな車種か見たい」とか意思が働く(行蘊)、それらの精神作用に対して、人は感情により何かしらの判断や判定を行う(識蘊)、執着したり、感情移入したり、魅入られたり、嫌ったり怒ったりもする。それは云わば眼や耳など五感官により「執着しなさい」とか「怒りなさい」と命令されているようなもので、その時々の感情により重要度・必要度・価値観などが選別され、実相を留めるものではないのである。五感官から入る現象「生じては変化し消えてゆく」空しい本質の刺激、どうでも良いような刺激や下らない刺激に、捉われたり拘ったり苦しんだり悩んだりを繰り返しながら流れ、やがては老いて滅する生涯が、果たして報いある人生なのであろうか。
物事は、移ろいゆく自分が、移ろいゆく時と、移ろいゆく空間の中に於ける、暫定的な出会いに過ぎず、因と縁により生起し、変化し消えゆく現象にすぎず、生起した原因が消えれば、消えてゆく現象に過ぎないのである。
空であり無常なるものに捉われ、
空であり無常なるものに拘り、
空であり無常なるものに執着し、
空であり無常なるものに怒り、
空であり無常なるものに悲しむ
唯、感情の赴くままに生きる人を、「愚かな人」という。
主観的な感情を制御するのは、客観的な理性である。
それが人の質(クオリティ)を高めてゆく道(真聖な仏道)なのである。