有学と無学

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仏教でいう有学と無学とは学暦.教育.知識が有るか無いかという事ではなく、知識(スートラ.経蔵)、情報(アビダルマ.論蔵)、見解などを一つの頼り道標とし規律(ヴィヤナ)に遵い学び理解し修養に役立て実践してゆく階梯であり、その到達する処は世俗に縛られる事から生じる自我意識からの超越であり、世俗からの解放により達成するが故に世俗諦と言われる、人間の認知的、心理的、精神的な錯覚による自我意識からの目覚めと、煩悩(生存の素因)による欲望と苦からの解放であり、因果の関係性による比縁的な縁起(現象)を悟るのであり、言わば大概のドゥツカ(苦しみ.悩み.悔み.不安定さ.不完全さ.迷い.儚さ.空しさ.哀しさ.惨めさ.怖さ.実質のなさ.愚かさ.不満.貪り.渇望.怒り.拘り.捉わり.無明)は、自我意識により自己中心的に自分本位に自分の都合に随って物事を観ようとする処から造り出されている事に自らが気付き、目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放し自由な存在(自在)に成るのである
そして沙弥(シャミ)、菩薩から阿羅漢(応具)に至り、知識や見解に準じた学びは最早修習し終え、それらあらゆる見解をひとつひとつ捨て去ってゆく事により真理を前提とした無為により齎される智慧に基づき涅槃(ニルバーナ・アートマン)へと向かう無学の境地による到達点を勝義諦(大悟)と言い、この宇宙の理法と因果の関係性による変化生滅してゆく万物・生命の流れの中における比縁的な縁起(現象)を悟る処にあり、この二種の相対的壮語な依存関係性による因果律という縁起(現象)への悟りがあるが、世俗諦も勝義諦も人間の思惟的・洞察的・感覚的・心理的・精神的な能力を乗り越え超越してゆく事により叡智として顕現してゆくのであり心調え高められた人間が具する理解能力及び判断力により、縁起(現象)により形成される一切の物事が一如なる法則の上に顕現される「大いなる意思(理法)」に包括されることへの気付きでもあり、大いなる意思により全ての事象はそれ自体で孤立して実体的に存在するのではなく相互に依存する関係性により存在している事への気付きでもあるのです。
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有学とは「学びて積み上げ気付き実践により検証し確証を得る」
無学とは「学びて積み上げたるを捨て離れ顕現する真理と叡智により検証し確証を得る」
仏道とは真理を探求し、安楽へ向かう道を歩んで行くのだが、平安を得て涅槃へと誘うには真正なる経典の指し示す有学の道なのであるが、大悟へと至るには内より(真如に通じし真我※魂などではなく生命エネルギーの本質的な性質により)齎される特別な智慧を頼りに真理へと至り、正しく解脱を果たし(正解脱)、正しく知見して(正慧)、無学による無為なる正見により四聖諦の実相を顕現する事にある。
例えば、人は本来、自分を実体として捉えている。否、実体としてしか捉えられない。
それを学び(知識)による実践により確証を得てゆく(変化生滅の実相)を得るのだが、存在と非存在のグラデェーションな実相は無学の境地による時空の全体性の把握の覚醒を待たなければ顕現することが出来ないのである。つまり観念か実感かの差なのである。
それは有学により今の境地を、四向四果及び七覚支に照らし、今、学ぶべき事の何たるかを明らかに正念し、努め励みて応供(阿羅漢)へと至り、ば「学び(経典類)による知識の探求は最早学び終えた。」と覚りて、経典が如何ほど在ろうが、それらは同じ道を視点を変えて指しているに過ぎない事を覚るだろう。「道はひとつであり他に道は無し」
しかしこれを「もう学ばない」と捉えてはならない。学ぶことを完了して、智慧の世界に住するも、世の中に溢れる知識や見解等の「正誤や真偽」を見抜く能力(天眼通・深淵なる洞察力)を以って臨んで行くのであるが、私も世の多くの物事についての表現の妙に感心させられ学ぶこと頻である。
無学の境地を有学の徒に語りても奇異にも異質にも捉えられるだけで、本来が言葉で表現するのが至難な体験的境地なのであるが敢えて語るならば、万物と精神作用の一切の実相を在りのままに観るならば、そこには現れては変化して消えてゆく現象が絶え間なく繰り返されているだけに過ぎない事を識るだろう。
無なる領域に意思が生じ、意思は広がろうと欲し認識を得る。
意思が広がるにつれ全体意思が生じ、全体意思は認識を欲し表裏一体の重ね合わせに現象世界を創造する。
その生じた現象世界に意思は色(物質)が在ると認識しようすると、意思は色(物質)を認識する。現象世界の物事は、認識しようとすると存在し、認識しようとしなければ存在しない本質的には物質としては存在しない世界でもあるのである。「認識を欲すると関連性の上に色(物質化)を生じ、変化して消えてゆく」これを果てしなく繰り返しているのが現象世界であるこの宇宙の実相なのである。」それを意思と色(物質)とが存在していると疑いなく認識して捉えてしまうだけなのである。
重なり合う現象世界の中で見るならば、現象として色(物質)が生じる事により生じた時間というものは一方向への流れであるが、重なり合う色(物質)が存在しない無色なる世界(恒常世界)には時間は存在せず、現象世界の時間に対してどの方向へも向かうことが出来るものなのである。
この重なり合わず絶対安定状態である恒常世界(無色界)と現象世界(色界)を繋ぐものを現代の科学では特異点と呼んでいるようであるが、現代科学がその進歩により釈迦尊(ブッダ)が明智なされた摂理(天地自然の法則)の域を理解する事が容易になりつつあるが未だ妄迷・無明で迷信的、倒錯的な次元から目覚める事が出来ない人々が多いのは歪めない。
理解し認識しろとは有学の徒に言わない.。到底、理解も認識も出来ず、偏った観念や倒錯した妄想に陥るだけであろうから、ただ真理は真理なるを心に留め置いて頂きたいのである。