路傍の如来の説法-4 <初冬の集い.顕貴の集い>

f:id:bongteng:20190803201323j:plain

自分を高め世界を変える真正な仏教

覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て.
路傍の如来の説法
【初冬の顕貴(ときめき)の集い】
 
僅かに吹く風にも冷たさが感じられる初冬の上野不忍口前にいつものように路傍の如来は立って居られた。
上野の森の絨毯を引き詰めたような紅葉の彩を際立たせているお天道様が天中へ昇る少し前頃、路傍の如来の説法に欠かさずいつも参加している口数少なく発言も凡そしない若い学生が同じ年齢ぐらいであろう学生風の若者達五人を伴って訪れ低頭合掌してから施与を済ますと路傍の如来に語り掛けた。
路傍の如来よ、今日、如来の辻立ちの邪魔となりご迷惑だろうとも思いましたが路傍の如来がお帰りになる前に是非とも私達の悩みと疑問を聞いて頂きたいと皆で相談して今日参りました。
宜しい、宜しい、疑問を持つ事は大変良い事である
当たり前な事と慰めたり、仕方ないと諦めたり、偏り間違った知識や情報を鵜呑みにして居ては先には進めないばかりか歪んだ見解や色のついた主観で物事を判断するようになったり、無思考に盲目的に時間を浪費してしまい悔いと不満を造り出してゆく。
さあ学生達よ、君達のドゥッカ、悩み.苦しみ.迷い.空しさを話してごらん。
学生達は顔を見合わせ予め示し合わせたようにいつも集いに参加している学生が口を開いた。
路傍の如来よ、私達はときめきのない毎日と先の見えない毎日の中で不安と恐怖と空しさに包まれています。
前の集いで路傍の如来は[何故生きるか]ではなく[如何に生きるか]を問えと仰りました。それを友人達に話したら皆んなも全くその通りだと合点してどう生きるようかと物事を前向きに捉えるように変わる事が出来ました。
しかし世の中を見廻し知識や情報を集めどう生きたら幸せに生きられるだろうかと考えた時、皆どうしても金や財産や地位や世間体やら持ち物などだと考えてしまうのですが、路傍の如来は以前それら所有の次元の事物は手段(付随物)でしかなく決して目的物ではなく無明ゆえにそれらを目的物と錯覚して執着してしまうのだと仰りましたが.実は皆んなそこに迷っています。
そして時めきのない毎日は明らかに物足りなく.苦しみであり.悩みであり.空しいものです。どうしたら納得のいく真に満ち足りた生き方を見つける事が出来るのでしょうか? お教え下さい。
路傍の如来は緩やかに深く息を吸い込まれてから徐ろにお応えになられた。
貴方達がときめきが失われてゆく事を嘆くのは当然である、煩悩の欲望に従って物欲を追う事の空しさ儚さを嘆くのも当然である。
寧ろ嘆くべき事を嘆かず、気を紛らわせようと煩悩に翻弄されて所有の次元の事物に魅入られ盲目的に生きる無明な者は憐れである。
これらは[存在と所有]との関係性、[大楽と小楽]との関係性および涅槃(ニルヴァーナ)への到達にも欠かせない重要な顕貴(ときめき)を含むものであり多少長い説法となるだろう。
もし貴方達がそれでも聴きたいと望むのであれば今日のこの日を真に三宝のご加護のある[初冬の集いし説法]としよう。
釈迦尊(仏)が説かれた真の仏法(法)を正しく理解した僧(菩薩.如来)による説法や集い(僧)に三宝のご加護.福徳は現われるのだから。
若い学生は即座に応えた。
「有難い教えを拝聴できるのは無上の喜びであり、皆んな長くとも構いません。」
他の学生達も目を輝かせ相槌を打った。
路傍の如来は頷き、先ず[所有と存在]を語られ次に[小楽と大楽]を語られた。
参照 
所有と存在
苦楽一如(大楽と小楽) 
路傍の如来は少し間をおいてから語られた。
諸行は滅の性質の性質のものである。[所有の次元の事物]の本質的な価値と[存在の次元]の本質的な価値が真に理解できたならば当然に所有の次元の事物によってもたらされる小楽(喜び.快感)が如何に短命で.儚く.空しい便宜的なものなのかが理解でき、存在の次元による大楽という歓喜や悦楽が堅固なものなのか理解できるだろう。
悦楽の修養の中に大いなる涅槃は顕現する。
人は喜びや快楽を求めて生きている。
それは短命な現象に過ぎない内分泌物質による喜びや快楽を求めて病まない薬物中毒の患者と左程変わらないとも言え、喜びを求めてそれが得られると満たされ一時的な満足感を得て、やがて消え去るとまたぞろ喜びや快感を血眼になって探し回っている。
それら所有の次元の事物によりもたらされる喜びや快感とは、実はドゥッカ(苦.不満.心痛・・)が[]という姿を以て化けて現れているに過ぎない事に気付けないからに他ならず盲目的な無明なまま手探りで暗夜行路(暗闇)を歩いているようなものなのだよ。
単なる現象に過ぎない感覚を放っておく事が出来ずに翻弄されていては真理(真実.実相)を見る事など不可能であり、感覚器官で捉えられるもの全ては、世界(全体性)を分断し.切り出して捉えた断片に過ぎず、世界でも真実でも実相でもないのだ。つまりは真理(真実.実相とは感覚器官では捉え難いものなのであり
感覚的.感情的.主観的.自我的に真実だと捉え理解しているつもりになっているだけの捏造.錯覚.無明の中を盲目的に生きているのだ。
だから主観.感情.感覚.記憶.自我という五蘊作用に依存して生きる者は苦や不満から逃れられないのだよ。これを五蘊盛苦とも言う。
これら主観.感情.感覚.記憶.自我を離れた客観的知性(理性)による智慧により涅槃の理(この世界の真理.実相)の自覚を現わし(顕現)、叡智によりニルヴァーナ(涅槃)へ至る。
その涅槃(ニルバーナ)の核心でもある顕貴(ときめき)について語ろう。それは多くの人が魅入られている[所有の次元の事物]により得られる喜びや幸せや満足や時めきなどは短命なものであり却ってドゥッカ(苦.悩み痛み.迷い・・・)を造り出している事が理解できれば所有の次元の事物が決して目的ではなく手段(付随物)としての存在である事も理解でき、執着から離れる事ができるだろう。
幼い時代は何もかもが新しく鮮やかで胸躍り時めく事が出来た筈なのにいつの間にか自我の芽生えと前後して毎日が別段変わり映えもしないように見えだし同じような毎日を惰性的に生きているようにも感じられ、そんな毎日から逃れようと益々と盲目的に[所有の次元の事物]にのめり込み魅入られ捨て去り離れる事が出来なくなる。
恋愛や青い鳥や見てくれや見栄なども含めて所有の次元の事物による時めきは実に短命なもので体験や発見などによる時めきは一度きりの瞬間的なものでしかなく、その胸躍るような高揚感や多幸感はやがて飽きや倦怠感へと変化してゆく性質のものでもある。
そんな所有の次元の事物の[時めき]とは明らかに異なる別次元の高い幸福感である存在の次元における堅固で安定的な顕貴(ときめき)があるのだよ。
この世界は変化生滅の現象世界であり、この世界に於いて二つの連続する瞬間を通じて同一であり続けるものなど何一つなく、全ては因果律(縁起)に遵って一瞬ごとに生じ.一瞬ごとに変化し.一瞬ごとに消え、その一つの消滅が次の生起を条件つけながら流転している。この変化生滅する世界の今という瞬間と一瞬先に訪れる新たなる未来を叡智に基づいて観自在に見る事ができれば、常に新しい身体で、新しい心で、新しい世界を在るがままに見て感じ味わう事ができる現象世界の変化生滅という新しき出会いの、堅固なる顕貴(ときめき)による高度な多幸感.高揚感.平安.歓喜.静逸.安心.大楽が顕現するのだよ。そして世の中では本当は到達してもいない人達があれこれと宣うが、此れこそが真の涅槃(ニルバーナ)であり実存的なものなのだよ。
変化生滅して移ろい現象してゆくこの世界に於ける[無為なる実存]とは天地自然の法則と一瞬間の存在性だけなのだから、その法則と存在の中に顕貴(ときめき)は実存するのだ。
釈迦尊(ブッダ)が仰ったように「悦楽の中で智慧の涅槃(ニルヴァーナ)へと至る」
人は今という瞬間に集中し留まる事が苦手で
先へ先へと次の瞬間へ向かって何かしら求め続けずには居られない。
つまりはそんな衝動に突き動かされ今という瞬間に顕貴(ときめき)奥深く味わう事が出来ない
そんな人達はいつもゴチャゴチャと、どうでもいい物事.詰まらない物事.下らない物事に何気なく捉われ妄想(ヴィカルパ)したりしていながらも、難解で煩雑だと心象する物事は避けようとする。それが例え.一見どうでもいい物事であったとしてもよく眺め.分析し.思惟し.吟味し.検証し.現れていない真理(真実)を理解すれば自ずと智慧は顕現する。
今という瞬間々々を真理(真実.現実)に基づいて真に味わい深く顕貴(ときめき)かせる為には意志と信念が必要であり、自らが前向きに克己し啓発し努力し智慧により目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され.観自在な心で叡智を顕現させて行かなけれはならないのだよ。
学生たちよ、君達も是非に[所有の次元の事物]の真の価値と[存在の次元]の真の価値を理解して小楽に魅入られ惑わされる事なく、大楽を得て満ち足りて豊かな心で生きてもらいたい、金財などに魅入られ有益にもちいる事が出来ず盲目的に集めようと欲得に執着する不毛で心の貧しく.卑しく不浄な者となるなかれ、肩書や地位や称号などこの世での一時の位に過ぎないものに執着し徳を失い.礼を失い.存在的価値を汚すような者となるなかれ、自分の愚かな面には目を背け、他人の眼や世間体ばかりに気を取られ、妄想に陥り、承認欲に取りつかれ、自分を真摯に見る事も出来ずに自惚れ自我意識に従って自己中心的.自分勝手な者とはなるなかれ。
彼らが良いとか悪いとかは言わない、ただ一つ確かな事は彼らは必ず小さな喜びと大きなドゥッカ(苦.不満.悩み.心痛.不安.悔・・・・)の中を生きることとなるのだから。
路傍の如来は一息つかれると「さあ多少長くなってしまったが今日はこれで終わろう、質問も多々あろうが自身でよく思い返し.よく考え.よく吟味して.よく検証して理解できない処について質問してほしい。その時にはもっと深い処まで説いても理解できるだろう。…既に教えた集中(ジャーナ)と透察(ヴィパサーナ)との双極の瞑想の中に偉大なる叡智は啓く、しかし前にも話したように忘れずに注意し自覚していてほしい。条件(縁起)により生起するものは.条件(縁起)により消滅する性質のものでありドゥッカ(苦.迷い)に含まれるものであり、高度な瞑想によって得られる普通の意味での苦しみの片鱗もなく高度に統一された精神的次元も.心地よさ或いは不快といった感覚を超越し純粋に鎮静した意識の次元も大悟.解脱.涅槃(ニルヴァーナ)とは無関係なひとつの神秘体験.思議できない感覚.現象に過ぎずドゥッカ(苦.迷い)に含まれる、これら全ては心によって生起し.心によって生み出される縁起によって条件付けられたものであり、真理.実存.涅槃(ニルヴァーナ)とは無関係なものである事を忘れてはいけないよ。しかし高度な双極の瞑想の中に叡智ともいうべき大悟.解脱.涅槃(ニルヴァーナ)への道しるべは顕現するだから呉々もそれらの神秘体験.不思議な感覚.不思議な現象を追い求め.取り込まれ.惑わされて精神的倒錯に陥り叡智を取り逃してはいけないよ…
今日、集いし君達に至高なる真理が現われんことを! 三宝にご加護あれ! と路傍の如来は学生達を祝福されると仰、金剛鈴を三度打ち鳴らされた後、胸の前で低頭合掌され立ち去っていかれた。学生達も路傍の如来のその後ろ姿に向かい、路傍の如来の御姿が見えなくなるまで低頭合掌していた。
諸行無常なこの世界.人間いつも初体験
顕貴(ときめ)くような感動.歓び.興奮.愉悦な出合い
●ドゥッカの定義(生きる苦しみ)
不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.迷い.哀しさ.悔い.怖さ.心痛.恨み.儚さ.弱さ.脆さ.空虚さ.実質のなさ.惨めさ.無常さ.不満.無明さ.欲望など