感情と理性

思い通りに生きたい、思う存分に生きたい、心の望むがままに生きたい、心が欲するがままに、快きままに生きたいと彷徨う心は煩悩(存在欲)の衝動に絡め捕られ気分しだい感覚しだいで糸が切れた凧の如く流れ、行き着く先は、苦と不満を積み上げ自分勝手で碌でもない人生となり易い。
人の心は、本能の渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)により成り立つ。
故に煩悩(存在欲)は「生存の素因」とも呼ばれ、煩悩(存在欲)は「自我」という姿をとって現れる。つまり自我とは存在欲の化身そのものなのである。あたかも苦が快楽という姿をとって現れるが経過とともに苦という本質へと戻る。(一切皆苦
心の働きを「意識」と言う。表面の思考も意識であり、潜在域の意識(無意識)も意識である。
五感官(眼耳鼻舌身)を使い外界に意識を向けているのは「感情」という意識であり、外界へ向けた感情の意識により刺激(情報)を五蘊(色受想行識)という精神作用により感受し認識し表象し、それに対し意思の衝動を生じ感情により識別(良悪・好嫌・是非・美醜・肯定:否定・優等劣など)しているのである。そしてそんな「感情による意識」を「理性という意識」は監視しているのである。
つまりは「見られている意識と、見ている意識」「感情(主観)と理性(客観的理解・認識能力)」が併存していて、通常は感情による魔心(魔に魅入られる心)を理性という神心(正しい方へ向かう心)が制御しているのである
人は表面の意識(思考)で物事を決定していると錯誤している(錯誤させられている)が、実は潜在域の意識(無意識)により決定した「概念」を表面意識(思考域)で言葉や映像に調えて准っているだけであり思考域で違う決定を下した場合、不自然と感じ納得がいかなかったりするのである。
その思考域に対する決定主体である潜在意識も「本能域」の渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)の衝動に促されて決定しているのであり、人の心の真の決定主体とは本能の渇き(渇愛)により生じた存在欲なのであり
その存在欲の衝動が、感覚を生じさせ、感情を生じさせ。自我を生じさせて、五蘊(色受想行識)の精神作用に翻弄され、感情や自我により捏造された見解や認識を事実の如く捉えて、歪んだ判断を下すのである。
故に幾ら自己啓発や思考訓練などで思考域の考え方を変えようと努力した処で、そう容易に変わっては行けないのである。釈迦尊は仰っている。
「ものごとは心に基づき、心を主とし、心によって造りだされる。」
心とは表面の思考だけではなく、潜在域、本能域をも含めて造りだされているのである。「もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車を引く牛の足跡に車輪が付いてゆくが如く。」
「もし清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う
影がその体から離れないが如く。」
自我(存在欲)により欲得の世界(所有の次元)に魅入られ、自己中心的に捏造した見解を主観となし、物事を自分に都合よく自分の意に添わせようと思考するが「諸法は非我」なものであり、周りを自分に合わせようとすれば感情(貪瞋痴)は刺激され、不満や苦悩、怒りや失望へと必ず行き当たるのである。諸行無常(物質的な現象は常ならざるもの)な世界の中で、諸法無我(精神的な現象に、これこそが我れであるという実態など無い)のであるが、自我(存在欲の化身)は存在欲の不安定状態の安定化の衝動により果てしなく物事を貪り、本質的には苦でしかない「所有の次元」の物事は快楽という姿を束の間しているに過ぎない「本質的には苦に戻ってしまう性質」の物事でしかないので少しの喜びと代償として大きな苦や不満や負担を背負い込み、懲りることなく存在欲の更なる要求に答えようと「所有の次元」を彷徨っている。故に痴愚で暗愚で無明なのである。
感情といっても良い感情もあれば悪い感情もあるが、感情とは無意識に自己中心に排他・利己的に情報を選択しようと働く盲目的衝動であり、主観的なものである。一方、意識して他者優先に全体性により情報を選択しようと働くのが理性であり、客観的なものである。
人間の心は暴走しやすい主観的な感情(貪瞋痴)を、客観的な理解・認識能力である理性が見張っているのである。
本来、心とは存在欲を満たそうと貪瞋痴(不善処)の思考が好きで気に入っているから、貪瞋痴(不善処)の思考に主導され,思考が妄想へと陥り妄想を深めてゆき自我が成長し自己中心的で欲深い性格になってゆく。
これは人の本質である激しい生存欲による、貪欲で不安定で愚かであり苦と不満の活力により生きる存在でもあるからなのである。
人は感情と理性のバランスの上に思考している、自分勝手な感情を理性が見張っているのであるが、時として理性の働きが後退してしまうと悪を生み出し、理性が感情を制御してゆくと善を生み出してゆくのである。
「恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、他人を責め、大胆で、心の汚れた者は生活しやすい。しかし心が安んじることはないだろう。」
「恥を知り、常に清きを求め、執着を離れ慎み深く真理を見て、清廉に暮らす者は生活しがたい。しかし穏やかに安楽と安心の中に暮らすだろう。」
これらの感情や感覚を滅尽することを説く、無責任でいい加減な偽仏教が氾濫しているが、真の釈迦尊の御教えを読み解くならば「放下・放離」することなのである。開発された理性の能力により、感情や感覚に心が支配されることなく、放離(ほっぽっておく)のである。そうすれば「感情や感覚といったものは理性による客観的理解能力や客観的判断能力による気付く事により消え去る性質のもの」なのである。(人を誘惑しようとする悪魔は「この人は私のことに気付かれた」と囁き、その場から消え去った)