心の余裕

宗教(宗ねとなる教え)とは本来.人の心を縛るものではなく、人の無明(本質的無知)や愚かな心を晴らして解放していくべきものなのに、残念ながら社会には、偏った思想や見解や理論で人の心を縛ろうとする宗教と言われる類のものが溢れ返っています…
そして現代人が最も失っているものが[心のゆとり][心の余裕]なのでは無いでしょうか…
あらゆる物事に縛られ、社会の忙しさに追われて余裕を失った心は、宗教にまで追われ.縛られるのを嫌い、宗教と言われるものを敬遠するあまり[宗教観]まで喪失して天地自然の摂理や恩恵に対する感謝や畏れ.敬いを忘れさせ.それは同時には倫理感(人倫)や道徳感(道理)までも喪失させ自分に捉われ拘り執着した主観で捏造して自我(エゴ)による自分勝手な自己中心的で自分に都合のよい倫理感や道徳感を造り出してしまうか、人から押し付けられた偏った見解による道徳感や倫理感というものに盲従し、人として在るべき本質的で理性的な道徳(道理)や倫理(人倫)を喪失してしまっているのでは無かろうか。
現代人は昔の人たちと比べて、随分と便利で恵まれて楽な生活をしているのに、世の中には却って苦悩や不満や怒りが増えているようである。
その原因が、時間・金財・約束・他人の眼・世間体・情報・仕事・地位・名誉・共同体・・・・などあらゆる物事に追われ、縛られる生活の中で、挙句の果ては自分の心を自縛してしまい「心の余裕」を失ってイッパイいっぱいの心で懸命に生きているからに他ならない。
物質的に豊かで恵まれた今の日本人が、失ってしまったものが日本人の美徳でもあった他者への気使いとか慈悲の心であるという皮肉的な結果こそが「物質的所有」と「精神的存在」である物質的な豊かさと心の豊かさとは違う次元に存在する物事で在ることを指し示しているのであり、かっては心に余裕と品格を持つ他者への思いやりに満ちている日本人像があったが、今の日本人が「豊かな物質社会に暮らす心の貧しい日本人」である事を証明しているのが近年、世界のあらゆる統計や調査や「世界寄付奉仕率・他者への気使い率・施し率」に於いて何と世界135ヵ国中の134位へと落ちてしまったという信じられない結果に表れているのでは無いだろうか。今の日本人は過去の日本人の持ち合わせた美徳、繊細で心に余裕を持ち、他者を労り、慳しみをしない大らかな幻影に誑かされて貪瞋痴(貪欲・瞋恚・痴愚)の中に自分の利得ばかりを追求し他者への思いやりや心を浄化する意識と心の余裕を失っている言わば「魂の貧困」なのであり、心に余裕がない「魂の貧困」こそが「所有の次元」しか見ることが出来ず、本質的な「存在の次元」というものが在る事にすら気付く事が出来ないアイデンティティ押し付けられ偏った教育と宗教感(倫理・道理)にも多分に問題があるのではないだろうか。
理性を悟性と言うが如く、柳の枝に例えられるように柔軟な心を失い、張り詰めてゆとりのない硬直し頑迷に捕らわれた心は折れやすく必ず苦や悩みに行きつくものであり、賢明で柔軟な心で「心の余裕」を失わないように心掛けて行けなければ、あらゆる物事に追われて縛られて、不安に苛まれ、翻弄されて次第に「心の余裕」は消え去って行くものなのである。
金に追われずとも時間に追われ、時間に追われずとも世間体に追われ、世間体に追われずとも他人の眼に追われ、何かしらに追われ縛られている自縛と妄想の中で「心の余裕」は泡沫の如く消えてゆく。
「心の余裕」とは真面目か不真面目かの問題ではなく、当然に不真面目に生きるならば面目を失いそして「心の余裕」も失い苦や不満や貪瞋痴の中を下流へと流れてゆく、真面目に生きていても硬直し頑迷な心で生きるならば、やはり「心の余裕」を失い自縛に苦しみ悩み、不満や貪瞋痴の中を流れてゆく事になるのである。
「心の余裕」を失わない為には「所有の次元」に翻弄され誑かされる自分の心に気付いてゆく事だけなのであり、それに気付く余裕さえ心に無ければ、心は容易に自我の欲求により「所有の次元」へと彷徨い出でて渇き、悶え、欲深くなってゆく。満たされることのない短命な満足による一時的な余裕でしかないことも識らずに振り回され「金が欲しい」「旅行へ行きたい」「認めて欲しい」「味方が欲しい」「地位が欲しい」「名誉が欲しい」「何か欲しい」・・・と言わば「心に余裕が欲しい」といっているのであり「存在欲を満たしたい」と言っているだけなのである。物事に頼ること依存することにより得る満足も喜びも余裕も、存在欲(感情)を一時的に満たし、やがて苦という本質へと戻ってしまう性質の「所有の次元」の産物でしかなく、真に「心の余裕」を持って感じ歓び味わう事は、「自我」が消え「無我」となるとき「存在の次元」の中に顕現するものなのである。
「所有の次元」へと向かう五官(眼耳鼻舌身)から得る刺激や情報や物事は、心の渇きを一時的にしか満たしてはくれない。その要求に応えたところで更なる要求を果てしなく繰り返して行くだけであり、そんな空しい志向を抑制して「存在の次元」へと心を向かわせれば幻影に過ぎない欲得や所有の次元の錯覚に気付くこともでき、「所有の次元」の産物に捉われ拘り、追われ縛られ自縛して「心の余裕」を失うこともなくなるだろう。
「心の余裕」を失わせるものとは「所有の次元」に生じる欲得や物事に対する執着であり評価・価値観への争いなのであり「存在欲」の罠なのである。
そして各処に述べている「失敗に学ぶ」とは、「心に余裕が無ければ浅薄な失敗を侵し、心に余裕が在れば今という一瞬一瞬に没入し集中して物事を成すことも考えることも気付くことも出来るのである。
故に「失敗に学ぶ」とは「心の余裕」を得ることであり、「失敗に学ぶ」ことこそが「心の師匠」となり「自灯明」となりえるのである。
ストレス社会とも言われる現代社会の中にあって「所有の次元」と「感情」に主導されて苦や悩みや不満を造りだしている人々に必要なものは、外からもたらされる不可思議な怪しい力や神仏などではなく、自分の心の中に埋もれてしまっている「存在の次元」の中にある「心の余裕」「心のゆとり」に気付いてゆく事なのだが、一時期志向された「ゆとり教育」という間違った見解により「ゆとり世代」とも言われる自分勝手で見劣りする世代を拵えてしまった反動で「心の余裕」「心のゆとり」さえもが愚かな事の如く主観的に捉えてしまっている錯覚からも目覚めなければならない。
「外に探し求めた物事に頼った心の余裕など所詮は儚いものでしかなく、心の内に真実を見出せば、心は自ずと平安と歓びに満たされる。」
 「真の心の余裕とは、他者に対しても我が事のように思いやる慈悲の心が持てる事である。」 如来品大師
善行為と意識して取って付けたような親切や慈悲から始まり、やがては心から他者を我が事のように思いやる事が出来るのです。
心に余裕が生まれたら行おうなどと考えるのは陽炎を追うようなもので、そんな了見な人には決して心の余裕など得られないものなのです。
人は悪い癖は付き易く、良い癖は付きづらいものなのであり、それは存在欲は、不善処(貪瞋痴)な思考や行為が大好きなのであり気に入っているです。しかしこの存在欲の軛(くびき)を乗り越えて行けなければ真の心の余裕を得ることも出来ないのです。何故ならば存在欲の軛を乗り越えられないという事は即ち自我(エゴ)による思考と行為により生きている事であり、自我(エゴ)により生きれば必ず、苦や不満、悩み、迷い、怖れ、渇き、憂い、怒り、貪り、執着などの中を流れてゆく事になるのです。この存在欲の軛を乗り越えてゆく事が「生死の軛」を乗り越えてゆく道であり、真に心の余裕を得てゆく道なのです。
「世間の人々は幸福を求めながらも、いつも幸福を取り逃がす。空しい物事に捉われ拘り、雑草を美味美味と食している様なものであり、真の美味を味わおうとしない。故に真実を知らず、何も知らず、気付かず、悟れない無明なのである。」