四苦八苦

釈迦尊(ブッダ)は人生とは四苦八苦の中にあることを直視され、何故苦があるのか.どうすれば苦から脱却できるかを追求された方でもあり…
世の中には苦が確かにある…
しかし苦があるからこそ楽もある…
それに明確に気付いた瞬間から.今まで怖れ.忌み嫌って自らが造り出していた妄想に過ぎない苦は消え去り、堅固な平安.悦楽.歓喜.静逸が顕現したのです…つまりは苦を直視し、苦を理解し.苦を乗り越え.苦から解き放たれるのが仏の教えなのですから… 
生きるとは苦(ドゥッカ)の中に存在する事であり、言い換えれば空(中道)という安定状態から.対称性(安定性)が破れた不安定状態こそが苦(ドゥッカ)の本質であり、仏教では肉体的な苦痛の他、精神的な苦痛.不完全さ.不安定さ.心痛.悩み.憂い.恐怖.儚さ.不満.哀しさ.悔い.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ.無明さ.実質のなさ.思い通りにならない欲望などを含めて苦(ドゥッカ)というのです…
釈迦尊(ブッダ)は「生きるとは苦である」と説かれ、「人間の生存は苦であり、その原因は欲望にある。」と説かれ、「もし人が一切の妄想から離れることが出来れば、あらゆる苦(ドゥッカ)から完全に解放される。」四聖諦を説かれました…。苦とは物質的苦痛、肉体的苦痛、精神的苦痛の総称でもあり、何れも外部からもたらされた事物によるのではなく.外部.内部の現象的な刺激に対して自分の感覚が作りだしたものであることへの気付きが重要であり、変化生滅してゆく現象的刺激に対して、過ぎ去った後も.まだ来ない事前でも今を疎かにしながら.意(心)が捉われ.拘り.執着して.怖れ.憂い.存在しない苦しみ(ドゥッカ)を造り出しても居るのです…
ですから苦しみ(ドゥッカ)から解き放たれるには、逃げる事でもなく、慰める事でもなく、無責任な暗示を与える事でもなく、目を背けさせる事でもなく、しっかりと苦(ドゥッカ)を直視してその正体を理解する事が必要なのです…
大宇宙もその存在に於いて「存在していたい。安定へ向かって変化して行きたい」という存在の意思が生じさせる苦のエネルギーによりして膨張を創め、空間を生じ絶え間ない躍動的な変化生滅の中に存在しています…
その空間に源物質が生じ(無色から色への変化)、離合集散のより素粒子へ原子へ分子へと集まり物質を生じさせるのも「苦のエネルギー」によって成されるのであり源物質も素粒子も原子も分子も「存在していたい。安定に向かって変化して行きたい」という意思により成り立っている。天地自然の法則(物理法則)はこの本質的な意思により生じ、天地自然の法則(物理法則)と空間との関係性(結び目)により因果の法則が生じているのである我々人間の肉体も分子の集まり(結び目)であり、分子から細胞、器官という集まり(結び目)も「存在していたい。安定へ向かって変化してゆきたい」という存在の意思を内包していて、その意志の集まり(結ぶ目)が心に渇き(渇愛)を生じさせ「存在していたい。安定に向かって変化してゆきたい」という存在欲(煩悩)を生じさせているのです…。       
このように我々も本質的な存在の意思(存在欲)により生じる苦のエネルギーで存在している事を先ず前置きとして識って頂きたい…(生)    
四苦八苦とは、生まれた瞬間から始まる業(カルマ)なのであり、どんなに本人が幸せだと思っていても、やがては必ず行き着く、人間として逃れられない必然的な人間の本性を「四苦八苦」であると説かれるのです…
しかし後ろ向きに「生きる事は苦しい、苦痛な事なのだ」と捉えてはなりません…釈迦尊が説かれるのは本質である「苦」を先ず見極めなさいと説かれているのであり、苦を前提として楽があり、楽を前提として苦があり、どちらも単独で成り立たないものなのであり、苦は楽の種なのですから…(例えるならば、息を1,2分でも止めてみれば苦しいから呼吸しているのに気付き、呼吸により生きるという存在の本質的意思に叶っている事に真に気付くならば、一呼吸一呼吸が快楽の中にあり、あらゆる束縛から解放された心は平安な愉悦を味わうことが出来る)
つまりは存在の本質的意思を満たそうとする渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)とその衝動によって生じる盲目的な意思による感覚、その感覚によって生じる感情によって五感官(眼耳鼻舌身)を外部へと向け五蘊という精神作用により刺激(情報)を得て存在を安定化させようとする、決して満たされる事のない欲望(究極的には不死への欲望)により、不善心処(貪瞋痴)を生じさせ主観や自我を生じさせ妄想を生じさせて「苦」を造り出しているのです…
一方、人間は発達させた理性(客観的な理解能力・認識能力)を具している此れを「悉有仏性」と呼ぶのです。
心の作用に気付くならば、理性は五蘊を制御し、外世界へと無駄に向かい感情による判断を制御し、存在欲(煩悩)の生成を制御でき、感情が造り出す妄想から離れられる。極論的に言うならば今、ここに在る(存在している)という事実以外は考えるべくして思考する以外の思考は全て妄想であるとも言えるのである。そしてその妄想により全ての苦は生成されているのである(つまりは苦が在るのではなく苦と感じているだけ…)
心をよく観察し、貪を伴ない瞋を伴ない痴を伴なう悪不善な尋(じん・想念)が在るならば、尋の過患(過ち・欠点)を理解すべきである。五蓋を打ち破り、平らかな心を保ち、努め精進するならば智慧を顕現し、真理へ至るだろう。サンカーラ(思い込み・固定観念・先入観・偏見)を厭離し、生死の軛を乗り越え、金輪際を超越し極楽浄土(涅槃)を見出すでしょう…   
●四苦八苦
苦には…

(内苦)=自己の心身より起こる苦

(外苦)=外的作用により起こる苦

(苦苦)=不快なものから感じる苦

(壊苦.えく)=好きなものが壊れることから感じる苦

(行苦)=物事が移り変わることを見て感じる苦

釈迦尊(ブッダ)はこれらの苦しみを整理して生・老・病・死の苦と.思うがままにならない四苦(愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五蘊盛苦)として大きく問題にされたのです。     

この現象世界に存在する全ての事物は生じては成長し.膨張し.拡大し.変化し.やがては消滅してゆく…凡そ、変化生滅しない事物は存在できない世界なのです。
【生 】生まれ、生きるという因縁により生じる苦       
【老 】老いてゆくという苦    
【病 】病傷で患う苦      
【死 】必ず死ぬという苦     
愛別離苦】愛する者と別離する苦
【怨憎会苦】怨み憎んでいる者にも出会ってしまう苦
【求不得苦】求める物が得られない苦【五蘊盛苦】五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦

★この五蘊盛苦こそが苦しみの根源ともなるのです…それはこの五つの要素が集まり[五蘊]を形成する時、自分は実存しているという自我意識を生じさせ、捉われ.拘り.執着した自己中心的で身勝手な自分を造り出すからなのです…

五蘊という精神作用は、感覚器官が刺激に対して.感覚器官(眼耳鼻舌身)で感受(感知)した感覚に対して.記憶情報などにより識別(認知)し、各々の感情を生じさせ、その感情に基づいて意識(主観)を生じさせている無常な現象に過ぎず、例えば気分がよければ肯定的であったり、腹の虫の居所が悪ければ否定的であったり、約そ真実を反映しているとは限らないものなのに.無明な人は此れこそが私の考えだと錯覚して感覚的.感情的.手前勝手な論理に固執してしまい、現実(真実)とのギャップに対して表層の思考が苦(ドゥッカ)を造り出すのです…

★無常な本質のものである感覚的喜びも.感情的喜びも.その執着による喜びも.その放棄による喜びも、また高度な瞑想によって得られる通常の意味での苦しみの片鱗すらない非常に純粋な精神的次元も、紛れもなく幸せと感じる心地よい感覚を超越した純粋に鎮静した意識の次元も苦(ドゥッカ)に他ならないのです[それらは無常で苦(ドゥッカ)で移ろうものである]のですから…常ならず移ろうもの全ては苦(ドゥッカ)のうちなのですから…

 

幸せを探し求める人々は、苦(ドゥッカ)というものから.なるべく目を背け.考える事さえ避けたがり、苦(ドゥッカ)を強調する仏教とは[受け入れ難い教え]とも映り.信者獲得を主眼として大衆迎合的に成立した大乗仏教新興宗教は、古来からの崇拝対象である得体の知れない神仏とか怪しげな超越的な力とか眉唾な霊魂.霊力.精霊からの救い.保護.安全.ご利益などを掲げて、無明(無知)の闇の中を盲目的に手探りで懸命に生きている憐れむべき人々を、更なる暗黒へと引きずり込んでゆくのです…

仏の教えとは無明の闇を深めさせる事ではなく、無明の闇を晴らす事こそが.人々に真の幸せ.悦楽.歓喜.平安.静逸をもたらす事を喝破し、無明.渇望.貪欲.怒り.迷い.無常さ.苦しみから目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され人々に真の堅固なる幸せ.悦楽.歓喜.平安.静逸への道を指し示す教えなのですから…