仏教経典

純粋な仏教における最重要な教典は「自燈明経典」「法燈明経典」という無記の至上なる二巻の経典であり、それを補足するのが幾千と有る経.律.論蔵経典類だと言え、中でも釈迦尊(ブッダ)の生のお言葉や真実の御教えを多く収蔵しているのが南伝大蔵経典である事には異論を挟む余地もなく真に仏道を志す者にとって決して欠かす事の出来ない経典類であるとも言えよう。
釈迦尊(ブッダ)は一人であり御教えも一つであり、一つで有りながら完全であり、完全であるが故に尊いのである。しかし釈迦尊(ブッダ)の入滅後に数多くの異論を唱える者達が現れ其々、各々に分裂してしまい、南伝大蔵経を信奉する上座部仏教各部派を始め、信仰色を強めた大乗仏教各宗派に至るまでが各宗派のドグマに縛られ、真実の釈迦尊(ブッダ)の完全なる教えを目指す事が出来ないでいる。
況して利他を標榜すると宣いながら、自説に捉われ根拠なく自派を大乗と称し上座部を小乗と貶めて、大乗こそ発達した教えだと嘯き釈迦尊(ブッダ)の到達した完全なる御教えが理解出来ない故に、釈迦尊(ブッダ)の完璧に真理へと到達した御教えが人類に幸福.平和.安定.歓喜.悦楽.涅槃(ニルバーナ)をもたらす完璧な御教えを貶めながらも釈迦尊(ブッダ)の権威を標榜している矛盾を内包しつつ、釈迦尊(ブッダ)が目指された人々の目覚めとは逆行する大衆迎合的な人々をより盲目的へと導く、物事の象徴化(シンボライズ)に対する信仰心から逸脱した得体の知れない神仏への信仰宗教化してしまい無明の闇に覆われた盲目的な者達による系譜を連ねている事にすら気付けていないのではなかろうか。

●仏教経典には、多くの経典群が存在するその経典群をまとめて、大蔵経と呼び大蔵経とは仏教経典(経典群)すべてをまとめて指す言葉であるが、釈迦尊ブッダ)が説かれた真正な教えを色濃く遺す南伝大蔵経を原始経典と蔑み、大乗経典は高度に発展した経典だと錯覚し疑いもせず嘯く者達には仏教思想を真に理解することが出来ず全ての事物.現象は常な無常なこの世界において、自然法則こそが永遠的な唯一絶対なる存在であり、唯一絶対の堅固で安定した拠り処でありこれらの釈迦尊(ブッダ)の発見された真理を原始的であり古く時代遅れな思想だと言って憚らない脱落していった者たちにより編纂されまとめられた多くの大乗仏教とは釈迦尊ブッダ)に必ずしも帰趨せず、釈迦尊(ブッダ)が否定なされた万物への象徴化(シンボライズ)から逸脱した得体の知れない物への信仰宗教を造りだしたのだと言えよう。
大蔵経の仏教経典(経典群)のすべてが、歴史上の釈迦尊の説いたことを伝えるものではなく大乗教の経典は、ずっと後世になってから、文筆家、理論家たちによって新たに創作された経典であり、それら創作された経典も、「われはこう聞いた(如是我聞)」というような書き出しで始まっているので、今でも全ての経典を歴史上の釈迦尊が説いた教えだと誤解している人は多い
大乗の教えとは釈迦尊の入滅後、数度の結集の間に迷信的で倒錯的な旧来の思想や観念に冒されて大衆迎合的な信仰集団が編纂した経典と約7百年後に龍樹(ナーガールジュナ)らにより理論付けされたとされる空理空論と本覚思想から成るものである。
○大乗教で創作された代表的な大乗経典
般若経(一つの経典ではなく経典群)
華厳経
法華経(本質的には脇経.観音信仰を褒め称える目的で編纂された、❖無量義経も同種)
・涅槃経(大乗仏教の涅槃経)
浄土三部経
密教系経典
大日経金剛頂経等の経典群)
密教経典は釈迦尊ブッダ)の説かれた仏教とは相反する反仏教経典であり、その教義はバラモン教(現ヒンデュー教)の一派であるタントラ教を起源とする。
尚、大乗仏教と言ってもガンダーラで体系化した大乗仏教と中国や日本において体系化された新仏教とに分類されなければならず、主な相違点は仏教(宗となる教え)から信仰へと変質化し、中国に起源をもつ先祖崇拝思想により輪廻再生という主要命題を受け入れる事が出来ない点だと言えよう
真に仏道を志し仏法を学ぶのであれば、
仏典の中に仏法を求めようとするは、当然であり、間違いであろう筈もない。
しかし全ての仏典は其々が思惑のある者達の手により書き記され編纂されている事実に留意しなければ、空理空論に侵されたり観念論的な思想の荒野に陥ったり形而上学的な不毛な迷路に惑わされ、真実(真理)に到達することは出来ない。
しかし、そのような経典類ではあるが凡そ全ての中には作者の思惑と共に、脈々と釈迦尊(ブッダ)の輝ける御教えが散りばめられている事も又、事実である。
要は「一句の実践的」であるとも言え、一句一句を、自分の内に照らし(自燈明)真理.現実.自然法則の中に照らし(法燈明)、実践の中に吟味分析し、思惟し検証し、確証を得て真実(真理)を理解してゆく道こそ真の仏道であり、経典に書かれているからと言って経典を鵜呑みにして信じて追随することは、他宗教ではいざ知らず決して仏道とは言えないのである。
私を始め大乗仏教の国に生まれ育ち学んで染脳(洗脳)されて来た日本人としては先ずその偏りを修正して行かねばならないだろう
その為には、真正な仏教での基本的な修行体系は何であるのかを分析したいので、大乗教の経典群は基本的に考察の対象とはしない。
真実の仏道を学ぼうと欲する者は、仏法の研究者でも学者でもないのだから大蔵経典のすべてを読み理解する必要はなく、また仏陀となることを目指すなら、その目的に関係した経典だけを読めばよいのであるが、仏陀となる事を欲し求める事自体が煩悩による執着でしかなく先ずそんな無明(無知)で愚かな自分に気付けなけれは、仏陀への到達は疎か、菩薩行を全うする事さえ危ういだろう。
仏道とは今の自分自身の真価に気づき理解する処から始まり、自分自身の真価さえ理解出来ずして先へは進めない。
部派・宗派という集団や教団は数多く存在するが、真正な仏教経典と呼べる経典は、釈迦尊(ブッダ)の御教えを色濃く残す阿含経典と呼ばれるものの中に見い出すことが出来、阿含経典(南伝大蔵経典)と呼ばれるものも、一経ではなく、幾つもの経典を集めた経典群である。阿含経という経典群の中には長部経典から、短部経典まで数多くの経典が含まれている
○真正な仏教経典
阿含経典(一つの経典ではなく経典群である)
但し.現存する南伝大蔵経典は.大寺派の祖ブッダゴーザ師が、釈迦尊(ブッダ)の教えを記録した経典類が.各部派集団へと四散五裂してしまった僧伽(サンガ)の衰退に伴い.散逸し埋もれ失いかけた経典類を捜索し収集し編纂されたものであり、中には各部派の都合によって書き直されたものや新たに書き加えられたものも採用されている事実も忘れてはならない。
阿含経とは、漢訳仏典中での名称であり、上座部仏教(南方仏教)には、阿含経に相当する仏典(南伝大蔵経)しか存在していない。上座部南伝大蔵経は、すべてが漢訳の阿含経に相当した仏典のみということができる。大乗仏教の経典に相当する仏典は、上座部仏教(南方仏教)には存在しない。
真正な仏典である阿含経を基に釈迦尊(ブッダ)が説いた仏教の修行科目を考えてみたい。何故なら、この修行科目こそが釈迦尊が弟子たちを指導した内容であり、解脱.涅槃(ニルヴァーナ)へと向かう道だからである
釈迦尊は単に哲学的な思想体系を説いたのではない。ニルヴァーナへと向かう実践的な方法を説いたのである。そのためには、最初期の仏典である阿含経をもとに、どのような修行体系が説かれているかをみるしかないのである。
ここでは阿含経をもとに、ブッダが何を説いたのか、どのような方法で弟子たちを指導したのか、仏教で最も大切な、解脱するための方法とはどのような方法であるのか、仏教の目的を達成するための方法とは何なのか、仏道とはどういうものなのかを考察する。
大乗仏教が問題視し、上座部仏教が陥った大乗思想と小乗思想を考察すると、両部派ともに中道を外れた偏りによる事が理解出来る。
仏道に於いて菩薩行(ボディサットバー)こそ聖道であり、釈迦尊(ブッダ)の聖道跡を歩まんとする僧侶.沙門.比丘の歩むべき道程であり、両部派ともに欠かす事が出来ないものである。
そして菩薩行の本質こそ仏法の実践であり、自分への拘り.囚われ.執着.渇望を離れ、他者(全ての生きとし生ける者達)への無量な慈悲・愛・救済の為に、努め励む修行があり気付きがあり自身の浄化があり自身の向上があるのであり、其々が目的を異にして在るのでは無く、それによって到達する覚醒.大悟.涅槃(ニルバーナ)とは決して目的ではなく、結果なのである。
上座部仏教大乗仏教も全体性.相互依存関係性.常ならざる無常な世界の中で全ての生きとし生ける者達の幸せと平安と歓びと静逸の為に成り立つのであり、到達者(ブッダ)の大慈悲の実現なのである。

【八正道】
八正道は、八つの悟りへの正しい道である
八正道には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、八正道を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
八正道は意識して正しいと思われる行動を取る事から修行を始める。
八正道の修行は、正見(正しい見解を持つこと)から始まる。
1.正見(正しい見解)
正しい見解を持つことは、悟りへの正しい道である。
修行の最初の段階での正しい見解から、他の八正道の項目(特に正念、正定)が進むと、さらに深い正しい見解を持てるようになる。その修行段階での正しい見解というものが存在する。
正しい見解が進んでくると、三毒を断じて越えることができる。
2.正思惟(正しい考え)
正しい考えを持つことは、悟りへの正しい道である。
3.正語(正しい言葉)
正しい語を発することは、悟りへの正しい道である。
嘘偽り、人を傷つけるようなことを話さず、真実のみを愛を持って述べる。
無益なことを話さず、有益な言葉がない場合は貴い沈黙を貫く。
4.正業(正しい行為)
正しい行為をなすことは、悟りへの正しい道である。
倫理・道義・徳目・道徳・礼儀・思いやりに基づく行い。
5.正命(正しい生活)
正しい生活を行うことは、悟りへの正しい道である。
6.正精進(正しい四正断)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動は悟りへの正しい道である。
7.正念(正しい四念処)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想は悟りへの正しい道である。
8.正定(正しい四如意足・禅定)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想は悟りへの正しい道である。
八正道では、正しい見解を持つことから始め、日常生活のすべてに対して、正しくあるように、意識的に行動する。
意識的に正しい(と思われる)ことを、日々の生活の中で行う、というのが八正道の考え方である。これはとても分りやすい考え方であり、八正道が多く説かれている理由もここにあると思われる。
ただし八正道においても意識的に正しいことを行うだけではなく、四正断、四念処、四如意足の修行にも取り組んでいくのである。
八正道では、正しい見解を持ち日常生活のすべてに対して正しくあるように意識的に行動することを目指す。ここで何が正しいか、どう考えることが正しいのか、どう行動することが正しいことなのか、ということが問題となる。正しいことは何かを考えるなら、目的である解脱ということを重視しなればならない。解脱という視点から考えると、解脱を助けるものが正しいことであり、解脱を妨げるものが正しくないことである。心を平安に保ち執着(煩悩、結)を減少させる事が正しいことであり、心を乱し執着(煩悩、結)を増大させる事が正しくないことといえる。正しい行動や考え方、正しい生活ができるようになるためには、戒を意識した生活をすることが必要になる。こういう視点(これが正しい見解となる)から、正しくあるように意識的に行動するのである。

【七覚支】
七覚支は、七つの悟りのための支分(方法)である。
七覚支には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、七覚支を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
七覚支は、四念処の実践から修行を始めている。
七覚支の修行は、四念処から始まる。
1.念覚支(四念処による悟りへの方法)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想による悟りへの方法である。
2.択法覚支(選択による悟りへの方法)
四念処を実習することで、悪を捨て、善を選ぶことができるようになる。選択することができるようになると、選択することが悟りへの方法となる。
四念処から、さらに発展したものである。
3.精進覚支(四正断による悟りへの方法)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動による悟りへの方法である。
4.喜覚支(喜びによる悟りへの方法)
四正断を実践することで、心の中に喜びが生まれる。喜びが生まれると、喜びが悟りへの方法となる。
四正断から、さらに発展したものである。
5.軽安覚支(軽やかさによる悟りへの方法)
喜覚支を経験すると、さらに心が落ち着いて、心身が軽やかになる。軽やかになると、軽やかさが悟りへの方法となる。
四正断から、さらに発展したものである。
6.定覚支(四如意足・禅定による悟りへの方法)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想による悟りへの方法である。
7.捨覚支(捨てさることによる悟りへの方法)
定覚支により、対象への執着がない状態となり、すべてを捨てさることができるようになる。すべてを捨てさることができるようになると、捨てさることが悟りへの方法となる。
四如意足から、さらに発展したものである。
七覚支は、四念処による自己への観察と気づきから、深い瞑想へと導く修行といえる。自分自身の内側の変化、気づきに重き置いた修行である。

【四念処】
四念処(四念住)である。四念処とも、四念住とも呼ばれる。
総合修行科目のうち、「念」と訳されたものが、四念処のことである。
五根五力の「念根・念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」が、四念処(四念住)のことを指す。
四念処(四念住)は次のものであり、観察する瞑想である。
1.身念処(身念住)
わが身は不浄であると観察する。身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する。
息(出息、入息、止息)、全身、身体を観察する。
私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている、私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている、私は全身を感知して息を吐いている、私は全身を感知して息を吸っている、私の身体について生起する性質、私の身体について衰滅する性質、私の交互に生起し衰滅する性質、これら身体について観察する。
2.受念処(受念住)
感受は苦であると観察する。一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を感じている、これら感受作用について観察する。
3.心念処(心念住)
心は無常であると観察する。心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する。
心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する。
・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である。
・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である。
・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である。
私は心が執着している、私は心が欲張っている、私は心に怒りがある、私は心に妄想がある、私は心に想念がある、これら心の状態について観察する。
4.法念処(法念住)
諸法は無我であると観察する。諸々の法(この世のすべてのものごと)には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。
意識の対象(考え、想像)を観察する。
私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている、私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている、私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している、これら意識の対象について観察する。
ここでいう「念」とは「念ずる」とか「念力」を意味するのではなく、「気づくこと」、「観察すること」を表し、観察する瞑想のことである。仏道、仏様を単に念じるというような意味ではない。
「念」とは、もともと「サチ」が原語であり、四念処観を行うということである。「サチ」は、通常は気づきと訳される言葉である。
八正道の「正念」の説明として、「雑念を去り、仏を一心に念ずる」などという説明を読んだことがある。「雑念を去り」という部分は禅定につながりはするが、単なる一般的な心得以上にも思えない。「仏を一心に念ずる」では、一生懸命に仏様におすがりするような行動のようにも思える。この説明では「正念」とは、どのような修行内容なのか、内容があまりよく分らないだけでなく、「正念」の指す本来の意味を取り違えていると言わざるをえない。「正念」の本質である、四念処を行うということが理解されていないのである。ここでいう「正念」とは、仏様を「念じる」というような意味ではなく、四念処を行うことを指しているのである。
現在、日本でも広く知られるようになった、上座部仏教南伝仏教)のヴィパッサナー瞑想(気づきの瞑想)は、四念処観の修行からきているものである。
四念処の瞑想を正しく教えている日本の仏教教団は存在しないように思われる。四念処については、上座部仏教の修行の一環であるヴィパッサナー瞑想から入るほうが体得しやすいかも知れない。
天台止観などの「止観」の「観」(観察する瞑想)も、もともとはこれからきている観法(瞑想法)である。禅宗の座禅、天台宗の止観、真言宗の観相や諸種の儀式次第なども、四念処との関係性は深いので修行の上での参考とできる。
四念処を正しく行うためには、色界の禅定である初禅(第一禅)には、到達している必要がある。
しかし四念処を行う中で初禅(第一禅)には、自動的に到達するのである。
そいうことから四念処により、色界の禅定に達成することができ、色界の禅定との関係が深いといえる。

【七科三十七道品】
真正な仏教経典である阿含経典群に説かれている修行体系は、七科三十七道品と呼ばれている。
三十七道品とは、ニルヴァーナに至るための、つまりは解脱するための、三十七種類の修行方法のことである。
三十七種類の修行方法とは、四正断、四念処、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の七科(七種類)に分かれるので、七科三十七道品とも、単に三十七菩提分法ともいう。
七科(七種類)の修行方法のすべてを合計すると、三十七種類の修行方法となるので、三十七道品、三十七菩提分法と呼ぶのである。
しかしながら七科三十七道品は、内容的には重複するものがあり、三十七種類すべての修行科目に取り組む必要があるわけではない。
○七科三十七道品(三十七菩提分法)
① 四正断(四正勤)
② 四念処(四念住)
③ 四如意足(四神足)
④ 五根
⑤ 五力
⑥ 七覚支
⑦ 八正道
これが阿含経に説かれているニルヴァーナへと到る、解脱のための修行体系である。
釈迦尊が説いた思想、世界観には、縁起の法、四諦の法門、十二因縁などがあるが、ブッダが説いた修行体系としては、これしかないのである。
日本においては一般に仏道という。仏道というと、何か仏教の修行というか、仏陀への道があるように思えるが、実際には何が仏道なのか、何をすることが仏道と呼べるのか、僧侶にとってさえ、よく分らないのが実情ではないだろうか。そいう意味では大乗教に仏道はないのである。
もし仏道と呼べるものがあるとするなら、ニルヴァーナへと到る七科三十七道品、これしかない筈であり仏教に説かれている他の事柄は、思想であり概念に過ぎない。それらの思想なり、概念なりを知り理解したところで、ニルヴァーナへと至り最終的な解脱が果たせるわけではないのである。思想や概念や見解で解脱できるなら、仏教の文献学者なら解脱できるはずである。しかし学者では、ニルヴァーナへと至る解脱は果たせない。
仏教の失われた道があるとすれば、それは、この七科三十七道品の修行体系の中にしかないのである。
七科三十七道品の修行科目の名称や項目は出てくるが、詳しい内容までは述べられていない。経典に記述されているのは、七科三十七道品の簡単な内容説明だけである。そのため後世には、七科三十七道品の修行科目の内容が曖昧となり、具体的には何を指しているのか、どのようにすればよいのかが、よく分らなくなってしまった。そのため同じ八正道を指していても、さまざまな解釈が生まれる余地が生じてしまい論蔵(アビダルマ)という仏教哲学化した間違った見解に導かれ実践的な仏教が観念的、哲学論的なものとなり、拙い指導者達により空理空論化して行ってしまうのである。
☆仏教での三蔵とは、仏教文献全体を大きく三つに分類し、まとめたものを指している。「蔵」とは「くら」という意味で、仏教文献全体をまとめたカテゴリーである。三蔵とは、次のものを指す。
1.経蔵
釈迦尊の説いたとされる教えをまとめた文献。
2.律蔵
規則・道徳・生活様相(戒律)などをまとめた文献。
3.論蔵
経や律についての注釈や解釈などを集めた文献。
次に修行体系である七科三十七道品の内容を詳しく分析してみる。
七科三十七道品の七科(七課)の修行科目を仔細にみてみると、七科は内容的に2つの種類に分けることができる。
七科の修行科目のうち、3つは基本的な修行科目であり、残りの4つはその基本的な修行科目を含んだ総合的な修行科目となっていること。
総合的修行科目に、基本的修行科目は包含されているのである。
1.基本修行科目
総合修行科目に含まれる、個別の基本的な修行科目である。
基本修行科目、単独の修行でも、もちろん効果はあるが、通常は他の基本修行科目と組み合わせて取り組む修行科目である。
これには、次の3つの修行科目がある。
① 四正断(四正勤)
② 四念処(四念住)
③ 四如意足(四神足)
2.総合修行科目
基本修行科目を含む、網羅的、総合的な修行科目である。
総合修行科目のいずれかに取り組めば、基本修行科目のすべてを含んでいることになる。そういうことから解脱のためには、総合修行科目のどれかを選んで実行させたものと思われる。
これには、次の3つ(五根と五力を分ければ4つ)の修行科目がある。
① 五根と五力
(五根と五力は別々の修行科目というより、密接な関係性があるので、ここでは一体の修行科目として扱う)
② 七覚支
③ 八正道
☆1.四正断(四正勤)
四正断(四正勤)は、次の四つの修行科目である。
① 断断
② 律儀断
③ 随護断
④ 修断
「精進」と訳されたものが、四正断のことを指している。これを理解していると修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「精進根・精進力」、七覚支の「精進覚支」、八正道の「正精進」が、このことを指す。
四正断は「仏道に精進する、努力する」というような、あいまいな抽象的な内容ではない。
2.四念処(四念住)
四念処(四念住)は、次の四つの修行科目である。
① 身念処(身念住)
② 受念処(受念住)
③ 心念処(心念住)
④ 法念処(法念住)
修行科目のうち、「念」と訳されたものが、四念処のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「念根・念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」が、このことを指す。
四念処は、色界の四つの禅定(四禅)に関係が深い。
四念処は「心に仏を一心に念ずる」というような、何のことだか意味のよく分らない内容ではない。
3.四如意足(四神足)
四如意足(四神足)は、次の四つの修行科目である。
① 欲如意足(欲神足)
② 精進如意足(精進神足)
③ 心如意足(心神足)
④ 観如意足(観神足)
修行科目のうち、「定」と訳されたものが、四如意足のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「定根・定力」、七覚支の「定覚支」、八正道の「正定」が、このことを指す。
定とは、禅定のことであるが、色界の四つの禅定(四禅)、無色界の四つの禅定がある。
ただ、定はすべて四如意足のことかというとはっきりとしない点もある。色界、無色界の禅定をただ指している場合もあるかもしれない。とはいえ、ここでは定は、主に四如意足のことを指していると考えて説明しよう。
四如意足は、特に無色界の四つの禅定に関係が深い。これを達成するために四如意足が使われる。
定については、禅定のことと理解されているが、四如意足が意識されることは少ない。一般には座禅のようなものだけと思われている。
1.五根と五力
五根は、次の五つの修行科目である。
① 信根
② 精進根(四正断の根)
③ 念根(四念処の根)
④ 定根(四如意足の根)
⑤ 慧根
五力は、次の五つの修行科目である。
① 信力
② 精進力(四正断の力)
③ 念力(四念処の力)
④ 定力(四如意足の力)
⑤ 慧力
五根と五力は、末尾に付く「根」と「力」が違うだけで、まったく同じ修行科目を指している。五根と五力は、非常に関係性が深いので、ここでは一体の修行科目として扱う。
つまり五根と五力は、まとめると次の五つの修行科目である。
① 信根・信力
② 精進根・精進力(四正断の根と力)
③ 念根・念力(四念処の根と力)
④ 定根・定力(四如意足の根と力)
⑤ 慧根・慧力
2.七覚支
七覚支は、次の七つの修行科目である。
① 念覚支(四念処の覚支)
② 択法覚支
③ 精進覚支(四正断の覚支)
④ 喜覚支
⑤ 軽安覚支
⑥ 定覚支(四如意足の覚支)
⑦ 捨覚支
3.八正道
八正道は、次の八つの修行科目である。
① 正見
② 正思惟
③ 正語
④ 正業
⑤ 正命
正精進(正しい四正断)
⑦ 正念(正しい四念処)
⑧ 正定(正しい四如意足)
このように、五根と五力、七覚支、八正道は、内容的にそれぞれ重複したところがあり、そのどれかを修行すればよいようになっている。ブッダは修行者の気質をみて、五根と五力、七覚支、八正道のどれかに取り組まさせたものであろう。
修行者の必要性にあわせて、四正断、四念処、四如意足については、個別に詳しく説明したものであると思われるのである。
つまりは、五根と五力、七覚支、八正道のどれかを修行すれば、七科三十七道品の大切な基本修行科目はすべて含まれているのである。

【十 結】  五下分結と五上分結
五下分結(ごげぶんけつ)、五上分結(ごじょうぶんけつ)とは、三界(欲界、色界、無色界)に、衆生(人)を結びつける束縛のことである。五下分結と五上分結を合わせて、十結(じゅっけつ)という。
ここで「結」とは、束縛のことで、煩悩の異名でもある。ここでの煩悩の内容は、日常語として使われている煩悩とは、かなり意味合いが異なっている。日常語では、煩悩は欲望と同義語として扱われることが多いが、欲望では煩悩の中の欲貪(よくとん)のことだけを指している。もともとの仏教語としての煩悩は、欲望のことだけではなく、普通の意味では欲望とはいえない意味をも含むものである。
五下分結と五上分結は、四向四果(しこうしか、特に四果)の聖者の階梯と密接に関係している。
○五下分結
五下分結(ごげぶんけつ)は、五つの下位の束縛のことである。衆生(人)を俗界に結びつける五つの煩悩(結)である。
三界のうち下方の世界である欲界(感覚で知ることができる世界)に衆生(人)を結びつけ、束縛している五種の煩悩(結)のことであるので、五下分結と名づける。五下分結のあるかぎり、衆生(人)は欲界に生を受ける。
五下分結を完全に断滅すると、欲界には戻らない不還果(ふげんか)を得る。つまり五下分結を断滅すると、阿那含(アナゴン、不還)になる。
五下分結は、次の5つである。
1.身見(しんけん:有身見)
私という不変の存在があるという見解のことである。
私(私の身体、私という心身の集合体)など、とにかく私というものが変わらず存在すると思うことである。
無知に分類される、誤った見解・邪見である。
2.疑惑(ぎわく:疑)
何が真実か分からない状態のことである。
仏道の真実が分らない無知な状態といえる。
3.戒取(かいしゅ:戒禁取見)
こだわりに、とらわれることである。
しきたりや苦行など、いろいろなことにとらわれ、こだわることである。
4.欲貪(よくとん)
激しい欲のことである。
5.瞋恚(しんに)
激しい怒りのことである。
○三結
三結(さんけつ)は、五下分結のうち仏教修行で最初に消える、最初に断ずることのできる三つの煩悩(結)である。
三結を完全に断滅すると、預流果(よるか)を得る。つまり三結を断滅すると、須陀洹(シュダオン、預流)になる。
さらに三結を完全に断滅し、五下分結の残り二つ(欲貪、瞋恚)が薄くなると、一来果(いちらいか)を得る。つまり三結を断滅し、欲貪と瞋恚が薄くなると、斯陀含(シダゴン、一来)になる。
三結は、五下分結のうち、次の3つである。
1.身見
2.疑惑
3.戒取
○五上分結
五上分結(ごじょうぶんけつ)は、五つの上位の束縛のことである。衆生(人)を色界と無色界に結びつける、五つの煩悩(結)である。
三界のうち上方の世界である、色界と無色界に結びつけて、解脱させない煩悩のことであるから、五上分結と名づける。
五上分結を完全に断滅すると、応供果(おうぐか)を得る。つまり五上分結を断滅すると、阿羅漢(アラハ―ン、応供)になる。
仏教修行の最終段階で断滅することのできる、精妙な五つの煩悩(結)のことである。
五上分結は、次の5つである。
1.色貪(しきとん)
色界に対する執着のことで、色界の禅定のすばらしさに対する執着である。
2.無色貪(むしきとん)
無色界に対する執着のことで、無色界の禅定のすばらしさに対する執着である。
3.掉挙(じょうこ)
私は到達した、というような心のたかぶりの感覚である。掉挙とはあまり使わない言葉であるが、心のたかぶりを指している。
私はこの段階まで達したというような達成感のような、心のたかぶりの感覚である。
欲界でも掉挙はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な心のたかぶりである。
4.我慢(がまん、慢)
私がなした、というような慢心の感覚である。ここでは、慢心のことを我慢と呼んでいる。
欲界でも慢はあるが、ここでは色界、無色界の微かで微妙な慢心である。
5.無明(むみょう)
どうしても最後まで、僅かに残っている根本の無知のことである。
☆四果と十結(五下分結、五上分結)の関係
仏教での聖者の段階である四果(しか)と、十結(五下分結、五上分結)の関係をまとめておこう。
1.須陀洹(シュダオン、預流)
五下分結のうち、三結(身見、疑惑、戒取)を完全に断滅すると、預流果(よるか)を得る。
2.斯陀含(シダゴン、一来)
五下分結のうち、三結(身見、疑惑、戒取)を完全に断滅し、五下分結の残り二つ(欲貪、瞋恚)が薄くなると、一来果(いちらいか)を得る。
3.阿那含(アナゴン、不還)
五下分結(身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚)を完全に断滅すると、不還果(ふげんか)を得る。
4.阿羅漢(アラハーン、応供)
五下分結の断滅に加え、五上分結(色貪、無色貪、掉挙、我慢、無明)を完全に断滅すると、応供果(おうぐか)を得る。
阿羅漢(アラハーン)へ至る為に五上分結を断滅することはかなり難しい。
【四向四果】
仏教における解脱へ向けた修行の階梯についても説明しておこう。仏教での修行の階梯が、どのように考えられていたかがよくわかる。
四向四果(しこうしか)とは、もともとの仏教(上座部仏教)における修行の段階を表す階位である。
「四向」の「向」とは、修行の目標に向かっている段階を指し、「四果」の「果」とは、修行の結果として到達した境地を示す。「向」と「果」の名称が同じであり、八種の段階が区別されている。
○聖者の四段階(四果)
仏教では、修行の結果として到達する四段階の結果(果)が存在する。
1.預流(よる、須陀洹:しゅだおん)
聖者の流れに入った者のことで、今生を終わった後に、最大7回まで、欲界の人と天の間を生れかわり、その後、ニルヴァーナに入る。
須陀洹とも、預流(聖者の流れに入った者)とも呼ばれる。
2.一来(いちらい、斯陀含:しだごん)
今生を終わった後、1回だけ、欲界の人と天の間を往来して、ニルヴァーナに入る。
斯陀含とも、一来(一度だけ戻って来る者)とも呼ぶ。
3.不還(ふげん、阿那含:あなごん)
今生を終わった後、欲界には再び戻ってこず、色界へと登り、色界の生を終わると同時に、そこからニルヴァーナに入る。欲界には生まれ変わらないが、今生の終わりでは、まだニルヴァーナには至っていない。
阿那含とも、不還(二度と戻らない者)とも呼ぶ。
4.応供(おうぐ、阿羅漢:あらかん)
今生の終りと同時に、ニルヴァーナに入る。今生でニルヴァーナに至り、再び生まれ変わることのない者である。
阿羅漢とも、応供(供養を受けるにふさわしい者)とも呼ばれる。
○四向四果(四双八輩)
修行の結果として到達した四段階(果)に加えて、各々に向かう段階(向)を考えて、四向四果となる。四向四果とも、四双八輩(しそうはっぱい)とも呼ぶ。
1.預流向(よるこう)
須陀洹(預流)へと向かっている者。
2.預流果(よるか)
須陀洹(預流)となった者。
3.一来向(いちらいこう)
須陀洹(預流)から、斯陀含(一来)へと向かっている者。
4.一来果(いちらいか)
斯陀含(一来)となった者。
5.不還向(ふげんこう)
斯陀含(一来)から、阿那含(不還)へと向かっている者。
6.不還果(ふげんか)
阿那含(不還)となった者。
7.応供向(おうぐこう)、または阿羅漢向(あらかんこう)
阿那含(不還)から、阿羅漢(応供)へと向かっている者。
8.応供果(おうぐか)、または阿羅漢果(あらかんか)
阿羅漢(応供)となった者。
そこへ到る途中の段階を加えて、4つの修行段階から、8つの修行段階へと拡張されたわけである。
阿羅漢(応供)となった者が、仏陀(覚者)なのではなく阿羅漢(応供)は、阿羅漢(アラハーン)であり修行到達者なのであり無学の境地に於いて、
大悟を啓きて大梵天の勧請を受けし聖者こそが如来蔵(タターガータ)であり仏陀(等正覚者)なのであり、死後に涅槃へ至るのではなく、此の世の内にてニルバーナへと入るのである。、最高の段階であるニルヴァーナへと到る。仏教の修行者の階梯では、阿羅漢が最上位である。阿羅漢に至ると最終的にニルヴァーナに入り、大悟を啓きて仏陀となるのである。
このことから、仏教は最終的には、阿羅漢(応供)となることを目指すものではなく、阿羅漢(応供)となった者達による無学の境地に於いて大悟を得る方法体系が真正な仏教の修行体系であり阿羅漢(アラハーン)を以ってして仏陀であり正覚者であると宣うのは部派仏教の一つである上座部仏教に於けるブッダゴーザの間違った見解に過ぎないのである。

【縁起の理法】
縁起の法は、仏教の根本的な教説である。仏教における縁起は、仏教の根幹をなす思想の一つである。
縁起の法は、ブッダが自身の悟りの内容を、分りやすく表現しようとしたものとされている。この縁起の法は、「縁起を見る者は法を見る、法を見るものはわたしを見る」ともいわれる根本的な説である。
ここでいう「縁起」とは、縁によってて起こることを意味する。縁によってとは、条件によってという意味であり、現象あるいは存在の相互依存関係を表している。
縁起の語は、「因縁生起」の略からきている。「因」とそのは原因のことであり、「縁」とはその生じる条件のことである。
世界の一切は、直接にも間接にも、何らかのかたちで、それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指している。
「わたしの悟った縁起の法は、深甚微妙であり、一般の人の知りがたく、悟りがたいものである。」
縁起の法は、釈迦尊によって説かれた思想ではあるが、「この法則は、如来ブッダ)が世に出ても出なくても、それに関係なく、法として定まり決定しているもの」とされる。つまり縁起の法は、すでに法則として、この世界に存在している法則自体であるということである。
縁起の法の基本となる考え方は、次の文章で示される。
「此れあれば彼れあり、此れ生ずるが故に彼れ生ず。」
「此れなければ彼れなし、此れ滅するが故に彼れ滅す。」
「此れあれば彼れあり」とは、「苦」の存在する理由であり、「此れ滅するが故に彼れ滅す」とは、「苦」を滅する「道」が存在することを示している。
縁起の法があるからこそ、「苦」を「滅」する「道」であるニルヴァーナへと到る修行体系が生まれるのである。「これ滅するが故にかれ滅す」により、ニルヴァーナへと到り、解脱する方法がある。
縁起は、「これあればかれあり」「これなければかれなし」という二つの定理によって、簡潔に述べられうる。後者の「これなければかれなし」は、前者の「これあればかれあり」を証明し、補完するものである。
具体的な例としては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。
仏教とはこの世には単独に存在するものは何もなく全てが相対的であり全てが依存的な関係性の上に存在していると説くき、それぞれの事物が他の事物を条件として生起きし変化成長し滅してゆくという縁起の理法からドゥッカ(苦)という存在の本質からの解放への道を四諦(四つの真理)として説かれている。それは言い換えるならばドゥッカ(苦)を前提として楽が存在している事の検証法とも言え、ドゥッカ(苦)とは何かが明確に理解出来たならば、楽とは何かが明確に理解でき、平安とは何かが明確に理解でき、存在とは何かが明確に理解出でき、涅槃(ニルバ-ナ)とは何かが明確に理解できるのであり、釈迦尊が目指したもの、それはこの世界の実相、真理の発見による目覚めなのである。