幸せとは…

如来は路傍の幸せ売り…
[麗らかな春の日差しに照らされて    歩くが如き 歓びの日々]
      路傍の如来 多々方路傍石
「愚か者は.幸福を願い求めながら、いつも幸福を取り逃がす…」
[人の身に生まれるのは難しく…
今.命あるは有りがたし…
正しい法を聴くのは難しく…
如来の出現は有りがたし…
人間として生まれることは尊く、今.生きている事はもっと尊い、真理を聴き.如来に出会えるのは.更に得がたき幸せである…]


悦楽は悟りへの一歩
悦楽の中で智慧の悟りを得る
感覚を制御した平安こそ最高の快楽である
幸せを理解する事こそ. 幸せでいられる秘訣…人間が生きていくためには空気、水、食料、住まい、衣類などは欠かせません…
空気がなければあっという間に人間は死んでしまうのに、空気に感謝し.有難く呼吸し.幸せを味わっている人は溺れかけた経験者か、無明の闇を晴らして真実を見透して生きている人ぐらいでしょう…
また水がなければ人間は生きていく事は出来ないし.生命自体も発生も存在も出来ま水が充分な社会で暮していると、水に対する認識は希薄になり水道使用料金が気になる位のもので.別に有難いとも感謝し幸せを味わう事もないでしょうが、世界の約半分の人々は水を遠くまで汲みに行かねばならなかったり.汚れた水や僅かな水で命を繋いでいるのです.しかし水に対する認識や自覚が有ろうと無かろうと水が重要であるという事実は変わりません…
また平和ボケして平和で安全な社会が当たり前であるかのように錯覚して.平和や安全に.有難いとも感謝し幸せを味わう事もなく暮している人々が居る一方、戦争が行われている地域や.紛争地域では絶えず自分が殺される危険、家族が巻き込まれる危険の中で命からがら生きている人々も沢山いるのです…つまりは平和と安全がなければ将来に対する希望さえ持てないのが現実であり、その地域の人々にとって平和と安全こそが希望であり夢であり幸せの重要なファクターなのです… 平和と安全が如何に甘美で幸せなものなのか忘れてしまって.下らない物事.つまらない物事.どうでもいい物事などに魅入られ執着して.不満と怒りと欲望に翻弄されているのが今の日本人でもあり、平和と安全に暮らせる喜び.幸せ.有り難さへの感性が麻痺してくると、感覚.感情.衝動への刺激が優先され、平和と安全を破壊しようとするものさえ蔓延るようになるもので…今の日本は正にそういう処に居るのではないでしょうか…
たとえ認識や自覚が有ろうと無かろうと空気や水やお日様が重要であるという事実は変わらないのです…
つまり多くの人々とは、当たり前のことを当たり前とは思わず、当たり前でないことを当たり前だと錯覚しているのですから…当たり前に幸せなのに、ゴチャゴチャと煩悩の要求に急かされた欲望の炎に煽られて、決して満たされる事のない夢幻を追いかけ、苦と不満を.せっせと生み出しながら大切な時間をすり減らしているのですから…


[人間は生きているのではなく、生かされているのです…]

食べ物も有り余るほどあれば、感謝の念も起きなくなるもの…かつて日本が貧しかったころ、今日も元気に生きていて.腹いっぱい食べる事が出来るだけが夢であり.幸せでもあり.将来への希望だったのですよ…
今でも貧しい国では充分に食べることが.夢であり.希望であり.幸せでもあるのです…そこで考えてみて下さい…物が溢れ返るほど恵まれて.欲望の炎に煽られ.心を貧しくしながら不満と怒りの中を生きる人々と.貧しい暮らしの中でも喜びや幸せを見出して生きている人々と、どちらが本当に幸せなのでしょうか?

しかし今、我々日本人は自分たちの置かれている状況がいかに恵まれているかを忘れてしまっているのではないでしょうか…戦争・紛争に悩み、また食糧難に困る多くの人にとって、夢と希望が叶(かな)えられている憧れの国でもあるはずの日本に住んでいても、決して幸せだとは感じていない…それは何故でしょうか…


◆心の貧困が堅固な幸せを奪い去る
知識.情報.物品などの流通経済を根幹におく社会に於いて.提供者は消費者となる人々の欲望の炎を燃え上がらせようと虚偽や錯覚や洗脳や誇大表現を織り交ぜた高度のテクニック(手練手管)を駆使して煽りまくります…そんなある種の罠に無警戒に近付いた人々は、その感覚.感情に訴えかけ.欲望を刺激しないでは置かない熟達した手管に雑作なく絡め取られ、無常で短命な僅かではあるけれど喜び.快感.幸せ感の味をしめ、喜び.快感.幸せ感を求めて彷徨っている内に我利我利亡者となってゆくのです…
◆我利我利亡者(がりがりもうじゃ)とは
我利我利亡者とはその字の如く、自分の利得(金銭など所有の次元の事物)への執着.執念に取り憑かれて.決して満たされることのない自分の欲望の事しか考える事が出来ない存在となってゆくのです…(吝嗇.もの惜しみ)     
◆心は三階建て(三層構造)       心の三層構造で説明して来たように、
心の一階部分はその人の人格(レベル).精神性(スピリチュアル).人の質(クオリティ).器量(スキル)など[存在性の次元]であり[心の充足]を形成させるのです…
心のニ階部分は絆.関係性.距離感など社会性の次元であり心の安定感に関係します…
心の三階部分は[所有の次元の事物]への所有欲(欲望)の所有の量.所有の質.所有の価値などによる[欲望の充足]に関係します…
三階部分への欲望が強ければ強いほど一階二階部分へ負担を掛ける事となり.負担を掛けたり.毀損したりして行きます…
つまりは三階部分に住む[自分]の所有欲に執着すればするほど、絆.関係性.距離感は歪み.一階部分の人格.精神性.人の質.器量などを貶める事となるのです…
欲望の充足への執着心が.不満.苦しみ.怒り.怨み.哀しさなどを積み上げて、心を貧しくさせてゆき、尊大.横柄にもさせてゆくのです…  他人や他の生命への功徳や慈しみが、自我の利得への執着から解き放たれてゆき.結果的に[心の充足]を生み出してゆくのです…
★所有の次元の事物に執着していると、人はそれらに支配されるようになってしまう…
感覚.感情.意志.意識といった五蘊(精神作用)と思考も.それら所有の次元の事物に影響され、心身ともにそれらに縛られてゆく…
もし.それらにより真に満たされるのならまだしも.欲望の炎は.足ることを知らずに燃え盛り決して満たされる事なく追い続けながら、心を貧しくさせながら.苦と不満を携えて生きる事となる…
[人は、自我意識(エゴ)が造り出す.自分.の幸せを追求せず…それが幸せだと思い込まない時だけ、幸せで居られるのです…何故ならば自我(エゴ)が造り出す自分の欲望は果てしなく決して満たされる事もなく、変化生滅しながら移ろいゆく世界の中では苦しみや不満(ドゥッカ)を携えて生きる事となるのですから…]
[心の貧しい人とは、心が欲望の炎で燃えさかっている人…]
五蘊(色受想行識)
色は無常なり.受は無常なり.想は無常なり.行は無常なり.識は無常である…色は無我なり.受は無我なり.想は無我なり.行は無我なり.識は無我である…
全ての行は無常である…
全ての法は無我である…
「目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない」
「口は食べることに飽きることがなく、欲は満足することを知らない」
美しいと感動した花でさえ、見続けたらその感動を持続することはできない…
写真、映像、自然の美しさはいつも見ていれば飽きてしまう…忘れてしまう…
音楽も同じ曲を聞いていれば飽きてしまう。
食べるものも同じものでは飽きてしまう。
絶えず新しいものを求めることが人間の本性の一面なのです…

つまり人間はそのままの状態では満足し続けるようには出来ていないのです…
幸せになっても、その状態(感性)は永続して行かず、飽きたり.麻痺したり.負担とになったりして苦(ドゥッカ)へと戻ってしまう性質があるのです…
それは言い換えると.無常な移ろいゆき変化生滅してゆく物事を.依存し.依り処とし.精神的支柱とすれば、時間の経過とともに色褪せ.朽ち果て.消え去る性質のものを.満足.幸せ.安心の為には必要不可欠なものだと勘違いしているだけなのですから…
しかし、幸せが終わってしまったわけではなく、本当は幸せな状態であったとしても実感出来なくなり幸せではないと思い込んでしまう…これも不幸.不満なのです.
◆幸福は進歩を阻まない…       
幸福は進歩を阻むものなのでしょうか?
それは決して目的物とは言えない便宜的.付随的な価値しかない所有の次元の事物により幸福や満足を得ようとした場合であって.誰でもが熱中して好きな物事とか興味のある物事を開拓してゆく喜びや幸せの為に生きていた筈なのですが.金とか名声とか付随物が後に付いてくると、金を増やしたり名声を上げたりする事が目的化してしまい.そんな無常な本質の物事の多い少ないに一喜一憂しながら、決して満たされない欲望の充足に翻弄されながら進歩が阻まれてゆくものなのです…
其れどころか本当の幸福は知れば知るほど具われば具わるほど.更なる上を目指してゆくものなのです…悦楽の中に智慧の悟りは顕現するのですから.
幸せには感覚的.感情的な面と、知性(精神性)に到達してゆく面の二面があるのです…
それは満足にも言えることで、感覚的.感情的な満足と知性(精神性)による満足があるのです…しかし短絡的な人達は[人間、満足したら進歩しなくなる]などと詭弁だか弁解を弄し.無明な自分の不満や怒りを正当化し.それが為に.却って自確かに.進歩することと幸福の満足度との関係には相反する面があるようにも見えるのですが、それは飽くまでも物質的.装飾的でもある便宜的.付随的な[所有の次元の事物]に於いての事柄に過ぎず、存在性の真理(真実.事実.実相)を見い出す事が出来る人間として具わった能力.精神性の開発と進歩は多幸感.愉悦.平安.静逸.涅槃(ニルヴァーナ)へと到達しても尚、高み(高次元)への進歩を欲するのです…               また感覚的.感情的な幸せ.満足については.変化生滅して移ろいゆくこの世界では変化により持続が出来ないものであり、感覚的.感情的なものにとって最大の苦しみ(ドゥッカ)でもある麻痺と飽きと空しさがあるのですから…お陰様で、人間には感覚的.感情的に持続的な幸福(満足)を得ることが出来ないのです…
心の充足(満足)の為に進歩することが人類すべての人の幸せのためであり、欲望の充足の為の進歩とは.多くの犠牲の上にしか築けない本質的には悪や苦しみ(ドゥッカ)をそれに倍して.生み出している事にも気付いてほしい…

人は誰でも幸せを求めて生きています…仕事でも、警官になるのも.泥棒になるのも.医者になるのも.政治家になるのも.弁護士になるのも.学者になるのも.技師になるのも.ビジネスマンになるのも.教師になるのも.カメラマンになるのも.スポーツ選手になるのも.調理師になるのも.フリーライターになるのも.僧侶になるのも.遊び人になるのも、その中に生き甲斐と幸せを見い出すからで在るべきで、収入.権力.権威.社会的地位など付随物に過ぎないものが選択理由で在るならば、その人は自立した自分が無かった為に.僅かな幸せと引き換えに.大きなドゥッカ(苦しみ.悩み.心痛.空しさ.憂い.不満.飽き.儚さ…)を背負って生きる事となるのだから…
◆所有の次元の事物(定義)
金.財.物欲.地位.肩書.名誉.称号.賞賛.権威.権力.勢力.承認.評価.知識.情報.健康.寿命.伴侶.家族...
◆存在の次元(定義)
存在性.精神性.人格.人の質.人間性.器量...

涅槃(ニルヴァーナ)への道

●涅槃(ニルヴァーナ)への道
欲望や不満.愚痴.憂い.哀しみ.怒り.苦悶といった煩悩は、自分の利得を渇望する処から生じているのです…
それを正しい修養を通じて[諸行無常]の真理を覚り.この大宇宙には永遠普遍の実体も[私]という実体的存在もない事を覚らるべきなのです…
そのような自覚を以って内面や外界と向き合うならば、意のままにならない世の中や思うようには運ばない人生に苦しむ事もなくなり、[自分が.私は.]といった自我意識(エゴ)は次第に影を潜めて.安らかな心が現れてくるはずなのです…
正しい人生観.正しい生活.正しい修養などにより、誰でもが苦しみ(ドゥッカ)と縁を切り、安らかで悦楽に満ちた境地へと到達することが出来るのですから…
このとこしえで堅固な平安と安楽の境地こそが涅槃(ニルヴァーナ)なのです…
つまりは私達の苦しみ(ドゥッカ)とは無明(本質的無知)のなせる業であり、大宇宙の真理(天地自然の理法)に反することを希求する愚かさによって引き起こされ、世の中がままならない…望みが叶わない…と言っては煩悩を生じさせ自らが苦しんでいるのですから…
この大宇宙の真理(天地自然の理法)を正しく理解し、正しい実践的修養を通して.着実に真理に向かって歩むならば、誰でもが輪廻転生という激しい連鎖の流れからも脱出して.成仏してもゆけるのですから…


◆修養の要
欲望に執着するならば、それによって魔に取り憑かれる…
欲望への執着がなくなれば自分を束縛する軛(くびき)も消え去り、解放される…
所有の次元の事物(富.金.財.物欲.地位.出世.名誉.権威.権力.長寿.健康.世評.承認.家族…)などに執着していると、それらの為に煩悩に塗れた生涯を送ることとなる…
心も同じ事で…自分の感覚.感情.意志.意識という五蘊(精神作用)や思考(主観)に執着していると終生、自分を縛り付けている軛(くびき)の束縛から解き放たれることが出来ない…
日頃.つまらない物事、下らない物事、どうでもいい物事に執着していると、人はそれらにさえ支配されてしまうようになり、感覚.感情.意志.意識(五蘊.精神作用)そして思考(主観)は.それらに影響されやすく.心も縛られ自由になるのを妨げる事となるのです…

一水四見

 

お釈迦様の言葉

物事は心に基づき.心を主とし.心によって造り出される…もしも汚れた心で話したり.行ったりするならば.苦しみはその人に付き従う.荷馬車を引く牛に.車輪が付いてるゆく如く…

物事は心に基づき.心を主とし.心によって造り出される…もしも清らかな心で話したり.行ったりするならば.福楽はその人に付き従う.影がその身体から離れない如く…

 

苦しみ悩みから脱却する為に必要なのは.対象の排除などではなく.物事を正しく見ることが大切なのです…

しかし人間にとって.物事を正しく見る事が案外と難儀であり.中々出来ないものです…

社会にあっても.学校の中でも.或いは仲間達との間に於いても.一人でも嫌う人がいると落ち着かないという経験があるのてはないかと思います…

しかし.その人は単にそこに居るだけであって.別に自分に危害を加えるわけでもないのに…

それは結局のところ[嫌い]と思う自分の感情が[あの人が居なければいいのに]という見方で見てしまっているだけに過ぎず.自ら態々.苦しみや息苦しさを生じさせてしまうわけです…

そうすると.自ずと自分の感情は相手に伝わり間違った見方がなければ本当は自分にとって最大の理解者であったかもしれない人とも互いに傷つけ合い.最後には苦しみ合う結果になってしまう事さえあるのです…

つまりは無明な主観が造り出した根拠のない妄想に自らが縛り付けられ.物事に対して正しい見方が出来ない事の一例なのです…

 [認識する主体が変われば.認識される客体も変化する]

仏教の唯識に[一水四見]という言葉があります…

水といっても四つの見方に見えるという意味ですが.つまり同じものでも見る立場や心の持ちようで違うように見えてくるという意味なのです…

水ひとつとっても…

 ① 天人には水が清浄な透き通ってガラスのように見える…

② 人間の私達には.そのまま水に見える…
③ 魚たちには住み家と見える…
④ 餓鬼には燃えた血膿に見える…

 これは[天人][人間][魚][餓鬼]という立場で[水]を見た場合.それぞれ異なって見えることを例えたものですが.また現実的に捉える場合でも.例えば砂漠の真ん中で喉が渇いた人にとっては水は黄金に勝る価値があるかと思えば.水害地の人達には水は恨めしいものでもあり.水に生かされも.苦しめられもします…

状況.環境.時間や心の在り方により.その見方は違ってゆくのですから…

これを私達に当てはめてみると.人間は皆んな生まれ育った環境や境遇や時代.受けた教育.経験.知識.情報や考えてきた事など様々で.その上.性格.嗜好など興味を持った事などにより.人それぞれの独自の世界観や価値観があります…

そんなアガティ(偏見.バイアス)が一つの[物差し]となって.色々な物事にそれぞれの認識を与えているのです…


 ですから自分が見ている世界は.他人には違って映っているかもしれませんから.同じものを見ていても.意志をそちらに向ける人もいれば気づかない人もいるのではないでしょうか…

ですから世界と呼んでいても.一つの世界に皆んなが居るのわけではなく.人それぞれがそれぞれの世界を造り上げ.人それぞれの世界をそれぞれの見方で見ているという事なのです…

つまり人それぞれが各々の世界を持っていて.それぞれの世界で暮らしていて.何処か.何かしらの接点で共有を試みて[絆]とか[繋がり]を造り出すしているのです…

人生の中で.いろいろな苦しみや悩みに出合った時.それらの原因の[自分の世界は正しくて.他の世界は間違っている]という自己中心的な自我意識による.ものの見方が大半であり.ものの見方を自分自身が変えてゆく事によって.今まで見えなかったものが見えて来たり.気付かなかったことに気付かされたりして.小さな世界(井の中の蛙)が.大宇宙的世界へと拓かれていくのではないでしょうか…

欲望の充足.心の充足

世俗の人が喜びだと言うものを.真理を見透した如来は苦しみと言う…
世俗の人が苦しみだと見るものを.真理を見透した如来は喜びと言う…
どちらも.充足(満足.喜び)を求めてゆく道なのに[心の充足]と[欲望の充足]とは.実は真逆の方向の道であり.しかも[心の充足]は無明の闇を晴らしてゆくと現れる堅固な実相なのですが.[欲望の充足]は永遠に到達できない夢の国なのですから…

人は誰もが充足を求めて生きています…この求めている充足とは.言い換えれば幸せ.満足.喜び.安らぎ.安定…など[スカ]への欲望ですから.通常はドゥッカ(不安定.不完全.不満.苦.悩み.心痛.迷い.悔い.憂い.哀しさ.儚さ.弱さ.脆さ.虚しさ.無常さ.無明さ.欲望…)の中を懸命に生きているのです…

そして皆.この充足[スカ]を求めて懸命に生きているのですが、でも本当は.どうすれば良いのか…何処へ向かえば良いのか.充足とは本当は何なのかさえ解らずに、兎に角ひたすら[充足]を求めて彷徨っていると言えるのです…
つまりは人々は無明(本質的無知)に生まれついているから.それに気付かず.自覚もせず.煩悩の欲望(悪魔の支配する領域)に従って、世間の自分自身は不満と不平の中を暮らしながら[これが充足だ][これが満足を与えてくれるものだ][これが生きる目的だ][こうなるのが幸せ.満足だ]と勘違いしている人達の言う事を信じこんで、便宜的で無常な本質的価値しか有さない付随物に過ぎない[所有の次元の事物(金.財産.物欲.地位.名誉.称号.権力.勢力.承認.異性.家族.健康.寿命…)]への[欲望の充足]へと向かい.そして挙げ句は翻弄されて.僅かな充足と引き換えに.大きな苦(ドゥッカ)の中を生きる事となるのです…
それは悪魔の支配する領域のものである[欲望の充足]を達成する事など有り得ない事に気付けないからに他ならないからなのです…
[欲望の要求に幾ら応えた処で、欲望は更らなる要求をしてくるだけ…天から湯水の如く金財が降ってこようが、世界中の富を独占しようが更なる欲望の炎で身を焦がし続けるだけであり…決して満たされる事などないのだから、逆にそれを抑制してやり.煩悩の要求に惑わされず.応えずに.逆に抑制して、真の必要性に基づいた[心の充足]を図ってゆけば心は次第に澄み渡り、欲望で波打っていた心の湖面は鏡面の如く真理と叡智を映し出す…堅固なる大楽.幸福.歓び.悦楽.安らぎ.静逸の顕現である…


◆我が身は一つ
避暑地にでも住んで.のんびり生きるのも一つの生き方…享楽に浸かって刺激的に生きるのも一つの生き方…人を集めて面白可笑しく生きるのも一つの生き方…色んな生き方があるのだろう…しかしそんな生き方の中に.生き甲斐を見い出し顕貴(ときめ)いて生きれるのは一週間か一ヶ月ぐらいが精々で.飽きや麻痺や実質の無さなどにより生き甲斐にも疑問を懐き苦(ドゥッカ)へと返り付くことだろう…だってそんな発想の根底は自我意識に他ならないのです…仏弟子としての自覚が[もっと生き甲斐のある生き方をしたい]と心の中で訴えかけてくる…生憎と身体は一つ、あっちにもこっちにも生きる事など出来ないのですから…
実存的な自我意識(私.自分.エゴ)→魂.霊魂.霊体という実体的.主宰的な存在への妄想.錯覚に誑かされている内は[心の充足]など得られず、[欲望の充足]へと向かい決して満たされる事なく苦(ドゥッカ)の中を生きる事となるのです…
世の人達は.その裏に潜む妄迷な[魂論]に気付くこともなく[我れ思う故に我れ在り]という観念に毒され信じ込んでいますが、それらは仏弟子の一人ではないかとさえ思える偉大なるショーペンハウエルの言う明解なシャカニズム思想とも重なる[世界を表象とみなして、その根底にはたらく〈盲目的な生存意志〉…この意志の故にに経験的な事象はすべて非合理であり.この世界は最悪となってゆく、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるにはこの盲目的な意志の諦観・絶滅以外にない]と説いているように、生存の意志(存在欲)に主導され.存在欲の最大の欲望である心的実存性への渇望が自我意識を形成し、その充足の為に欲望の充足へと向かわせているのですから…
◆心は三階建て
1階部分(本体) 存在の次元
精神性.人格.人柄..許容.包容力.心身の調和による安定した心など…
智慧(叡智).洞察力.理解力などにより[心の充足]を生じさせる
2階部分 絆、関係性、距離感
他人や生命との適度な絆.関係性.距離感などによって[心の安定性.心の充足]を生じさせる
3階部分 所有の次元の事物
金.財.物欲.地位.名誉.権威.権力.承認.健康.長寿.見栄え…決して満たされる事のない無常な所有の次元の事物への欲望[欲望の充足]所有の次元の事物への少欲と足るを知る心だけが.心の充足をもたらすのです…
★心の1階部分(存在の次元)が育成されれば
苦(ドゥッカ)を伴う無常な2階.3階部分が僅かであったとしても堅固な心の充足は得られるのです、逆に1階部分が不安定で3階部分が重ければ重いほど1階部分が歪むのです…
◆心の充足へのヒント
①今ある幸せに気付く
諸行無常
全ては.移ろいゆく世界と移ろいゆく自分との、因果律(縁起)に遵った関係性の上での暫定的な出来事(現象)であり、天地自然.物事.他の生命のお陰様で存在しているのであって.他から独立した単体では生きて行けない存在なのです…感謝
諸行無常

自我意識(エゴ)から離れる

一切皆苦
苦(ドゥッカ)のエネルギーに生かされている…
苦がなければ、楽も生じない…苦楽一如
⑤主観(感覚的.感情的.自我的)(貪瞋痴思考)から離れる
客観的な思考(戒定慧思考)を育成してゆく…
⑥無明(本質的無知)の闇を晴らしてゆく
⑦功徳を積む
⑧心の貧しさ(吝嗇)に陥らない
⑨妄迷な軛(くびき)から解放されてゆく
⑩路傍の如来を讃える…冗談😂
精神の向上、心身の調和を図ることなく唯、欲望のままに名利や財貨を追い求め享受していては内なる健全さと心の安定は永遠に得られないだろう…

人は自ら進んで内面に向き合い[心の充実]と[精神の向上]を図るべきなのです…
それは心の調和と安定や精神性を開発.向上することによって.もたらされる愉悦が如何に甘美で堅固な美味なものなのか、それは語るものではなく奥深く味わうものなのです…

負のスパイラル

●負のスパイラル

人生とは平坦な道ばかりではなく.山もあれば谷もあるものです…

そして折角の人生.平坦な道ばかりを歩いているのも又.苦(ドゥッカ)でもあり.それは飽き.変化のなさ.刺激のなさ.感動のなさ.顕貴(ときめき)のなさなども.苦(ドゥッカ)に他ならないのですから…

例えば.人が無刺激な状態に置かれたら.果たして.どうなるかという実験を.科学者がしたそうです…

その時.人は.約一ヶ月の内に気が狂ったり.死んでしまったそうです…

また宇宙飛行士が.負担の少ない数日間の無重力状態で負荷運動を欠かすと.帰還して地上に降り立った時に.足腰が立たなくなるそうです…

例を挙げれば切りがないのですが.要は苦(ドゥッカ)によって人は生かされているとも言えるのです…

そして[苦楽一如]と言われるように.本当は苦も楽も同じものなのです…

その刺激や負担を.苦と捉えるか.楽と捉えるか.捉え方次第でもあるのです…

例えば普段.粗食で過ごす私が高級料理にありついたとしたら[ラッキー]とばかり.天にも登る食事を嗜むでしょうが.高級料理ばかり食べている人にとっては別に感動も喜びもなく.却って嫌悪を感じる事さえ有るかもしれません…

同じ.一つの食事を奥深く.喜びに包まれて味わえる私が幸せなのか.食べ飽きて感動も顕貴(ときめき)も喜びを持つ事も出来ない感覚が麻痺した人が幸せなのか.人それぞれの考え方と言うより.[捉え方]の問題だと言えるのです…

また多くの人は.主観で[自分の判断は正しい]と自己肯定しながら生きています…

そうでなければ先へ進むことが出来ないのですから…

例えば.そんな自分を人が非難したとします…
そんな時.素直に[よく教えてくれた]と歓ぶ人など居ず.大概誰が[何を〜っ!]と.自尊心を傷つけられたと怒ることだと思います…これは自己防御反応なので.仕方がない事なのです…

問題なのはその先であり.知覚が感知し.認知した五蘊(精神作用)による感覚.感情に捉われ.拘り.執着し.苦(ドゥッカ)を造り出すか.つまらない見解.下らない見解.どうでもいい見解.無明な見解.愚かな見解だと.毀誉褒貶に塗れずに捨て去るか.また[火のない処に煙は立たず]と言われるように.自分では気付いて居なかったが.愚かな処があるあるのだろうと.自我意識(エゴ)を手放し.楽の種として自分の向上の為に役立てる事が出来るかにより.人生は天と地ほどの差となって現れてゆくのです…

大切なのは無常な自我意識(エゴ)なのではなく.自分を抑制コントロールしてゆく自制心しだいなのです…

苦を積み上げてゆくも.楽を積み上げてゆくも.刻々と現れては.変化して消えてゆく現象側の問題なのではなく.自分の無明さの問題なのですから… 

また拙僧が辻に立っている時たまに[私には良い事がなく.悪いことばかりなのですが.どうすれば変わっていけるのでしょうか?]と尋ねられる事があります…
そんな時、その人物を見て陰気風だと、先ず表情を注意します…そのどんよりした無気力な表情を明るく努めるだけでも、運命は変わってゆくのです…また、物事は良いこともあれば悪い事もあるものなのに、良い出来事には気付かずに悪い出来事ばかりに目を向けて居ると、負のスパイラルへと入っていくのです…
物事は波動の流れなのです…小さな良い出来事にも軽んじることなく気を止め.感謝して喜んでゆくと運気は[良し悪し]という波動の中で上昇してゆくのです…一方.悪い出来事ばかりに捉われ苦しみ嫌悪していれば運気は[良し悪し]の間を流れながら益々、下降してゆくものなのです…
[福が来るから喜ぶのではなく、喜ぶから福が来る]のですから…

[気持ちを変える 捉われ.拘り.執着.雑念.妄想から解き放たれる]

 

●負の思考
①他人を非難する 
自身の自信のなさが他人への非難や攻撃に繋がってゆく
②他人と比較する(承認欲求)
自分の価値観と他人の価値観は違うもの、価値観は人それぞれのものなのに、自分の価値感や生き方に満足出来ないから、他人と比較して優越感や心の安定を図ろうとする
③無いものねだり
持ってない物への渇いた欲望、不平不満を抱いても何も解決しない…それが本当に必要なものなら目的意識をもって努力するだけ…
④過去の栄光や挫折に捉われ拘り、未だ到来しない未来を妄想的に幻想する
大切な時間を無駄に浪費するだけであり、今を見ようとしない…今に手を抜く事となる
⑤自分より他人を変えようとする
他人を受け入れ、自分が他人に合わせる位の心の豊かさを育成しよう
⑥現状に甘んじ満足してしまい.成長や向上を止める
絶対真理に到達し涅槃(ニルヴァーナ)に暮らしても尚.精進を欠かす事がないよう克己する
⑦廻りに同調しすぎて自分の意見を持たない
他人の意見と自分の意見が全く同じ事など有り得ないにも関わらず、結果を怖れて自分の意見を葬り去り.それが[和]だと錯覚してる
⑧考え過ぎ、その深み(負のスパイラル)へと陥ってゆく…ゴチャゴチャ.グチャグチャと考え過ぎたり、悩んだり、雑念や妄想に陥り、ストレス.不安症.うつ病などを招く
⑨物事を後ろ向きに捉える
物事を前向きに捉える、諸行無常…全ては現象であり変化しては消えてゆく移ろいゆく性質のものに過ぎない…因縁論や宿命論的な負の思考(マイナス思考)で物事を捉えない…
⑩路傍の如来 如来品正師 多々方路傍石を愛さない…冗談😂
●今ある幸せに気付く

人は皆、喜び.幸せを探し求めて生きているのでして、不幸になろうと不幸を探し求めてる人など.ほんの一部の変態以外には居ないのです.それは無明な苦行の中に明け暮れてる人達にしても.争いの中に身を窶している人達でも.これから自殺しようとする人でもその中に喜び幸せ安らぎを見い出そうとしているだけなのですから…
皆んな平然を装い.常識人を装っていても、心の中は喜びや幸せを探し求めて余念なく、不幸や苦しみに.くれぐれも出会わないようにビクビクしながら、それでも喜びや幸せを求めて五感器官を外界に向かって駆使していて.心は決して平静でも満たされてもいないのです…
しかし喜びや幸せは探し求めるものではなく[気付く]ものであり、堅固で安定的な喜びや幸せを達成する為には、先ず.今ある幸せに気付かねばならずく、それは堅固で安定的な幸せや喜びとは、今ある幸せの上に到達するものなのですから…
例えば[幸せの青い鳥]では、チルチルとミチルも[幸せの青い鳥]を求めて世界中を探し回ったのですが.何処にも居なかった(見つけ出す事が出来なかった)のですが、落胆して自宅へ帰ってきた時、庭先をふっと見上げた庭先の木の枝に.幸せの青い鳥はとまっていたと言うようなお話しですが…丁度、喜びや幸せを外界(世界)に向かって探し求めてる皆さんこそチルチルとミチルであり、心の中に在るのは不足と不満であり、心の充足の為に物質はの所有欲という欲望の中を旅しているのですが、幾許かの喜びや幸せと引き換えに多くの苦労を造り出しているだけで、決して心が満ち足りる事がないのです…

それはある意味、餓鬼心の中に居る事に他ならないのでして、例えば食事にしても.空腹という苦を癒せば.腹は満たされて.それ以上の食事は[苦]となるものなのですが、餓鬼とはいくら食べても満ち足りる事が出来ないのです、
それは今すでに在る幸せに気付けず、喜びや幸せとは本当は何なのかさえ解らないまま煩悩的な衝動に促されて、無闇に探し廻っているだけの状態と言え、先ず、今すでに在る幸せに気付いて幸せ.喜び.満足の中で、本当の幸せ喜びへの階段を一歩一歩登っていくものなのですから…
しかし夢や希望や理想を捨てた抑圧された幸せなど、本当の幸せではないのです…

物事の本質が真理見え、その無価値さに気付き、その無価値な物事に振り回されず、捉われず、拘らず、執着から離れた堅固な安らぎ(幸せ)と無明の闇を晴らした悦楽の中に
喜びや幸せとは、気付くもの。
既に沢山の喜びや幸せを持っているのに気付けずに、愚痴や不満ばかり言う人がいます…

愚痴や不満の中にいては新しいものなど創り出せる筈もなく、愚痴や不満な日々は楽しくも喜びも持てず、愚痴や不満ばかりを積み上げながら.益々不幸になってゆくのです…
そんな愚痴.不満.怒りなどの苦(ドゥッカ)は加速度をつけ.負のスパイラルへと陥ってゆくのです…
そんな人達が.自分の不幸の責任を社会や他人のせいにし、自分の不平不満を何かしらにぶつけて溜飲を下げようとクレーマー化するのです…

物質文明.競争社会.情報化世界の中では顕著な現象でもあります…

●幸せは気付くもの

今ある幸せが活力を生みだす
前向きに生き、他人を思い遣ったり.気使う[心の余裕]が持てる

豊かな心が育ってゆく(豊かな心と貧しい心)

●今ある幸せ(楽は苦の種. 苦は楽の種)

今、既にある幸せに気付く事が、楽しく幸せに生きる秘訣です。
※平和な社会は大いなる幸せ
阿呆な政治家が権力を握れば簡単に消え去る平和な社会
悪意ある者が増えれば造作なく破壊される平安な日々
※今日も元気に歩いてる
松尾芭蕉「旅に病み 夢は枯野を駆け巡る」
病んで覚ったが、元気に歩いて旅する事ができるのは、実に幸せなもの
※今日も生きている  
惜しくも早死する人もいる.事故や災害で無念に世を去る善人もいる.何故か今日も生かされている(人間なんて当たり処が悪ければ豆腐の角に頭をぶつけただけで死ぬ事もある脆い存在)
※今日も美味しく食事できた
笑い事でも当たり前でもなく世界では今でも餓死者が毎年.何十万人.何百万人も出るのです。
※人間、自分が他から独立して自分の力で生きているという思いは錯覚.過信.無明.思い上がりでしかなく.天地自然.他人様.他の生命のお陰様で生かされているのです。
※他にも etc…
無思考から脱出して智慧や記憶を駆使すれば幸せの種は、幾千.幾万と発見出来るはずです.
●四苦八苦は幸せの種
[楽は苦の種 苦は楽の種]
楽を尺度に物事を見れば、世の中は苦(ドゥッカ)だらけに感じ.苦(ドゥッカ)恐怖し.厭いながら生きる事となる…
しかし苦(ドゥッカ)を尺度として見れば、世の中は楽(スカ.安楽.幸せ.喜び)だらけに感じ.楽(スカ)を楽しみ味わいながら生きる事となる…
苦労は買ってでもしろと言われるように、後の報酬は大きいのです…
苦労を知らずに社会に出たような人は、ちょっとした負担にさえ耐えられず.人生に真正面から向き合えずに.苦(ドゥッカ)から逃げ回るような人生を送る事となるもの…
【四苦八苦】
生.老.病.死
愛別離苦 愛するものとも別れなければならない苦しみ
求不得苦 求めても得られない苦しみ
怨憎会苦 怨めしい人や憎らしい人とも出会ってしまう苦しみ
五蘊盛苦 五蘊作用(精神作用)が造り出す苦しみ
朝(あした)に道を聞かば 夕べに死すとも悔いなし
朝(あした)に生を授かれば 夕べに死すとも悔いなく過ごす

正 見

人、ひとたび正見を得て覚醒すれば草木山河.目に映るもの全ては清らかにある…
心が清らかにあれば.その赴く処.自ずと何処も清らかなり…
世界はひとえに人の心の在り方次第…
穢れて醜いものだと感じる人は.穢れて醜い処ばかりに目が向き…素晴らしいと感ずるならば素晴らしさを見い出すもの…
◆サティとサンパジャーナ(正念正知)
正見とは何であろうか…それは、苦に関する知、苦集に関する知、苦滅に関する知、苦滅道に関する知、これを正見と言う…
正念(サティ)と正知(サンパジャーナ)が組み合わさった正念正知は[覚照力]とも呼ばれる…
経典によれば正念正知は[殊勝な救済力のある功徳]であると描写されているが.それは正見の成就と八正道の体現.証悟に対し用いられる表現であり、これら三法は[明覚]とも[三心]とも言われる…

 

正しく見る[正見]とは、皆さんが無明(本質的無知)であるという前提の言葉なのです…

それは有名大学を卒業してようが.識者としての権威者であろうが.ノーベル賞を貰おうが.皆から揃って天才だと讃えられようが、真実を照らしだす光明を持たずに.一寸先は闇の中を怯えながら手探りで辛うじて歩いている存在に過ぎないからなのです…
◆正見するとは…
正見するとは、ただ因果律(縁起)に従った[現象]の生起や変化や消滅として物事を見る(捉える)ことであり、因縁に従った縁起の上での変化生滅という出来事に過ぎず…もっと言えば感知し.そして認知した瞬間には変化生滅してしまっていて、前の感知し.認知したものは既に無い(存在しない)にも関わらず.それを固定的.継続的に捉えようとする無明な認知能力による錯覚に過ぎない事に気付き.物事をそのように捉えてゆくのが[正見]であり、まして一日の内の大半を締めている[どうでもいい事柄][下らない事柄][つまらない事柄][大した事もない事柄]に何時までも捉われたり、拘ったり、ゴチャゴチャと執着してしまうのも無明だからなのです…

[正見すれば愚かな物事への厭離の心が生じ.自ずと解脱する]

◆眼耳鼻舌身意 (六竟)         視覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      聴覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      嗅覚は無常で(ドゥッカ)なり…       味覚は無常で(ドゥッカ)なり…       触覚は無常で(ドゥッカ)なり…       意識は無常で(ドゥッカ)なり…       六竟.何れも無常で苦(ドゥッカ)なり              ◆五蘊                 身体は無常で苦(ドゥッカ)なり…      感覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      感情は無常で苦(ドゥッカ)なり…      主観は無常で苦(ドゥッカ)なり…      五蘊.何れも無常で苦(ドゥッカ)なり…         これらを信じて世界を見れば、自ずと三毒(貪瞋痴)を生じ、三毒(貪瞋痴)に基づいて思考する事となる…              ◆四念処 (私という本質は無し)     [色念処]  身体は身体に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…[受念処] 感覚は感覚に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…                  [心念処] 感情は感情に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…                  [法念処] 五蘊(精神作用)は五蘊に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…

◆慈悲                 そして、こうした事実を明確にはっきりと見極めたときに「嗚呼、生存苦(生きる上で付いて周る苦しみ)というのは、ただ.ただ無明(本質的無知)によって生じてくるものだったんだ…」と目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放たれる(解放)ことが出来、そうだったんだ.「他人のせいでも世の中のせいでもなく、皆んな懸命に生きているのだけれど.無明(本質的無明)なままだから因縁の連鎖から出て行く方法を知らず、あるいは正見の理法(八正道)の実践をする機会もなくて、煩悩(貪瞋痴)に駆られたり.翻弄されたり.苦しみ悩んだりして、迷いながら苦しみ(ドゥッカ)の連鎖の輪の中を.ずっと廻り続けているんだね」ということもわかり、それによって、「人間って悲しい存在だね…無明って本当に辛いよね」と苦しみ(ドゥッカ)に苛まれる一切衆生への共感的な慈悲の心が生じてくるのです。      

●自我の妄想              色受想行識(五蘊)という五つの要素が結合して働くとき、そこに[自分.私]という概念を生じさせ実存的.実体的.実相的な存在という錯覚が自我意識(エゴ)を造り出し、本体的な魂.霊魂.霊体の存在という妄想へと繋がっていくのですが、正見を阻むのがこの[魂.霊魂.霊体]という得体の知れないものの存在への錯覚と自己暗示でもあり、それが因果律(縁起)に従った無常な現象に過ぎない感覚.感情.想念.概念.主観などを.本体的な存在(魂)の意志によるものだと錯覚させ.捉わらせ.拘らせ.執着させ.縛り付けて、[正見]を歪めてバイアスが掛かった偏ったり.誤認.誤智した物事の見方をさせてしまうのです.ですから自分は考える故に、自分という実存的な存在があるという錯覚こそ、自分を縛り付け.自分を苦しめる.自我意識(エゴ)の犯人でもあるのです…[思考はあっても、その思考の背後に本体的.主導的な思考者など居ないのです…]

●人生に勝つ              何を目指すにしろ.人生に勝つには[意志と信念と智慧]が必要です…そしてその為には[自制心と集中力]が欠かせず、[好事、魔の如し]と言われるように何をするにしろ[意志と信念と智慧]を以って物事に向かっていけば.何かしら形が出来ていくものなのですが、順分満帆なときに魔は忍び込み.自制心と集中力を削ごうと煩悩を刺激するのです…そんな煩悩に打ち勝って自制心と集中力を欠かさなければ、余程の運気に恵まれない因縁さえなければ(浄化)、殆どの理性に基づく願望は叶うものなのですから…もしそんな事はないと思う人が居るとすれば、それは自分の可能性を信じなかったか.努力を怠ったか…何れにしても自分に負けたのであり.決して 社会や他人に負けたわけではないのですから…

因果律(縁起.因縁)に従って生まれてきた自分とは現象に過ぎず、現象は成長し変化し消えてゆく性質のもの…           苦(ドゥッカ)のエネルギーによって生かされる身では在るけれど、それらが理解できる人の身に.折角生まれることが出来たのだから、ただ儚い[存在]を感謝し奥深く味わい、この時空.そして苦楽に翻弄されない処までの到達を目指すか、また.この時空に繋ぎ留められるとしても良い処へと再生してゆく為にも、目的意識を失わず[意志と信念と智慧]を以って[自制心と集中力]を育成して、功徳を積んで.心の汚れ[吝嗇(貧しい心.尊大.横柄).邪心.悪心.無知.貪欲.怒り.不満.迷いなど]を浄化してゆくことが、善い来世へと繋がってゆくのです…(三世の因縁により.たとえ此の世で成功し良い思いをしたとしても.心を汚したり.他の生命を蔑ろにしたり.無明の闇を晴らさないままなら、来世は真逆な境遇の処へと再生することになり、また此の世では余り恵まれなかったとしても、心の浄化に努め.他の生命を慈しみ.無明の闇を晴らしてゆき決して酔生夢死しなければ、必ず来世は再び人の身として善い処へと再生する事が出来ます(因果の理法) ●悟 り (大悟)            悟りとは真理(真実.事実.現実.実相)の究明であり、その向かう方向は物理学者と同じ方向でもあり…ただその方法が、外世界の観察と数学に依って到達するか、心の中に具する宇宙に人知を超えた智見に依って到達するかの違いだとも言え、物理学も約2500余年を経て.随分と仏教真理に近づいて来たとは言え、残念ながら今だ道半ばに過ぎず.人工的な電子.光学機器と数理での探求法により真理への到達を目指すには限界がある一方.一源の根源エネルギー自体の運動性(波動)により形成される心的エネルギーの情報の究明による到達(大悟)は真実の如来の教えに.その実相は語られる…

その為には悟り(大悟)への確信と智慧と勇気と努力か必要となるのです…       先ず、自分は何を求めて何処へ向かおうとしているのか明確に自覚しなければなりません. 修行者とか行者という名称により.悟りが啓けるわけではなく、明確な目的意識と確信と智慧と勇気と努力が無ければ到底.辿り着くことが出来ない涅槃なのですから…   魔の誘惑を退けつつそれらを正しく明らめ啓くには、冷徹厳峻に自分自身を見つめる正見が必要であり、それには勇気も必要なのです…しかしその道は決して難行苦行の道などではなく、その道は.他人様には禁欲的(ストイック)に映るようですが.安らぎと悦楽の中を春の麗らかな日差しに照らされながら歩くような中道と言われる道なのです…         ●多くの人達が誤解されている.瞑想.禅定.内観.観照などによって得られるサマーディ(三昧)は真理への入口ではありますが.決して悟り(大悟)の境地ではないのです…お釈迦さまも仰るように、それは変化生滅してゆく性質のものであり苦(ドゥッカ)に他ならず、しかしこのサマーディ(三昧)を得る処から仏の教える絶対真理の世界へと歩を進めてもゆくのです…ここで惑った人達はサマーディ(三昧)に沈殿し.立ち止まり世捨て人となってゆくのですが、サマーディ(三昧)もひとつの感覚でしかなく、主体.客体の分別からは離れても.やはり変化生滅しながら麻痺し.飽き.苦しみ(ドゥッカ)へと行き着いてしまう性質のものなのですから…                サマーディにあってもその変化生滅してゆく[無常]を直視する事を怠り、心地よい状態を保つことを求め続け目的化している限り.智慧(叡智)は顕現して来ないのですから…    [悟りしと 山を下りれば ただの豚]

無明な人達が喜びや幸せだと勘違いしているものは、藁束を煮て焼いて美味しい.美味しいと食べているようなものであり、心を浄めることもなく果てしなく便宜的な付随物に過ぎない所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権力…)を追い求めるのは愚かな事だし.わざわざ苦しみ(ドゥッカ)を造り出すだけなのです…
精神の向上、心身の調和を図ることなく唯、欲望のままに名利や財貨を追い求め享受していては内なる健全さと心の安定は永遠に得られないだろう…
人は自ら進んで内面に向き合い[心の充実]と[精神の向上]を図るべきなのです…
それは心の調和と安定や精神性を開発.向上することによって.もたらされる愉悦が如何に甘美で堅固な美味を奥深くあじわうものです.

如来の出世

私たちの生活を大きく一変させて、社会.経済.娯楽.教育.文化.芸術.思想に至るまで深刻な影響を与え続けています…
当たり前にあったものが脆くも崩れていくような怖さ.不安.ストレスを多くの人達が強く感じながら毎日を過ごしています…
社会的距離を保つことは大切ですが、心の距離までもが離れていくとエゴと怒りと心の貧しさに監視された生きづらい世の中を造り出していく事とも成りかねません…

今はそういう[大きな選択]の時を迎えたのです


邪教が世に栄えると…
大災害は頻発し.疫病は蔓延し.社会が破壊されてゆく.
悪が世に蔓延ると…
人心は荒廃し.社会は乱れ疲弊してゆく.
騙る如来を崇め、真の如来を謗るは…
運気尽きて.世は衰退と滅亡の道へと落ち込んでゆく.

これ万古不易の真実なり…


如来 その大慈悲心で出世して…
如来 憐れみ辻に立つ…
一切万象 因果応報

一切万法 自業自得
衆生 心 浄めたもう
貧しき心を 浄めたもう
卑しき心を 浄めたもう
衆生 徳を積みたもう
衆生 無明を晴らしたもう
衆生 自我を離れたもう
衆生 軛(くびき)を解きたもう
一切万象 因果応報

一切万法 自業自得
目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放て(解放)


楽と不楽を共に捨て
いと涼やかに依着(いちゃく)なし
全ての世界に勝てる雄者(おさ)
それを如来と我れは説く…


快と不快を共に捨て
人間界の縛を捨て 天界の縛をも乗り越えて
全ての縛から解き放たれし
それを如来と.我れは説く


■勝利への道
真の勝利への道を如来は説く…
如来とは、如実の道に乗じて、正覚を来成するが故に、如来という。 
(如来者乗如実道来成正覚故曰如来
真の勝利とは此れ即ちドゥッカ(苦)からの解脱であり、ドゥッカである輪廻転生からの解脱をも指し示す。
[幾百人の敵に勝つよりも、己自身に勝つ者こそ、真の勝利者である]
■束縛からの解放
思考と想念で造り上げている[自分]という幻想と、汎ゆる物事に対する判断.善悪.好嫌.優等劣などの価値基準.固定観念.既成概念など、自らを縛っている全ての束縛からの解放
■四種の束縛
①感覚による束縛(五欲)
五欲 眼耳鼻舌身が色声香味触に触れる刺激(感覚)への欲望に束縛される(意欲による)

五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)と意(心)が.六種の対象物[色(物質).声(聴覚).香(臭覚).味(味覚).触(触覚)]と[法(心処)]に対する欲望に束縛される
※生きるとは何かに依存する事と言え、依存しなければ生存は成立し得ないのであり…生きるとは.即ち束縛である…
他から独立して単独には存在できない.関係性の上に存在しているに過ぎない…
しかし五感覚器官(眼耳鼻舌身)に刺激を与え.その程良い刺激を意(心)に捉えさせる事が喜び.快感.幸せだと錯覚して.感覚器官に刺激を与える事に余念がなく、束縛され感覚器官の奴隷となっている…
②存在欲による束縛
生命には[生きていたい.生きてゆきたい]という根深い存在欲があります…
生きてゆく為には何かに依存しなければならないのですが、それは生きる為の便宜的な付随物(手段)に過ぎず、決して存在の目的ではないのですが、根深い存在欲は、無常な生きる為の依存に激しく執着させる依存症への束縛
※所有の次元の事物への執着(束縛)
(生きる為の便宜的な手段として存在する付随物としての価値を有すが目的物ではない)
金財.所有物.社会的地位.名誉.称号.身分.伴侶.家庭.権威.権利.承認.理解.権力.勢力.威力.健康.寿命.若さ.知識.情報…など
③見解.概念による束縛
生きてゆく為には見解や概念が必要です…
物事の良し悪しから安全危険.必要不必要.向き不向き…と、全ては見解や概念により判断して、それに従って生きています…更には人生観.世界観.社会観から.得体の知れない神仏や魂や怪しげな力(フォース)から.宇宙人の在不在まで、それぞれの持つ見解.概念.主観.嗜好により、皆んなが皆んな.自分は正しいと自分の見解や概念に強烈に束縛されているのです…
真理(真実.事実.現実.実相)は、なかなか表には現れて来ないものであり、現代社会では尚更だとも言え…真理を如実に見て知るのには物事の本質を私見を交えず、冷徹に集中してよく眺め観察し.分析し.思惟し.洞察し.検証し.確証を得て理解出来る多少.厄介でもあるものなので、多くの人は社会に出回るプロパガンダや染脳的(洗脳的)な知識.情報や、偏ったり.誤ったりした仮説や憶測に過ぎないものを鵜呑みにし盲信したり束縛されたりするのです.
④無明(本質的無知)による束縛

一切の現象は無常であり、苦であり、無我であると、理解出来ず、理解しようともせず、生命は無明に支配されている…
(一切は瞬間.瞬間に現れては変化成長し消滅してゆく現象に他ならず、固定的実体は存在しない…)
無明…それは煩悩が造り出す欲望に束縛され奴隷状態で生きている事に他ならない…
※煩悩の欲望とは、永遠に存在していたい.永遠に生きていたいという存在欲が造り出す幻影に従った、永遠に存在する為に.プラスになると感じた物事へは、自分の元へと引き寄せたいと貪り、永遠に存在する為に.マイナスになると感じた物事へは、自分の元から遠ざけたいと怒り、永遠に存在する為に.プラスマイナス0ないし判別出来ないものへは不満や痴愚を生じさせる、貪瞋痴の三毒を栄養とする次元に依存し束縛されている事に他ならない…
★執着に束縛されない…とは…
放っておくこと…なり…ポクポク…
■参考   四念処
【サティパッターナ.スッタ大念処経】 

■解脱とは、如実知見を得て.この四種の執着への束縛から解放される事なのです。

★そこで昔から愚かな人達は言うのです…[それでは、世の為にも他人の為にもならない単なる自分の悟りとか解脱とかへの拘り.捉われでしかないものであると誹謗して、世界を救うとか.人々を救うとか.片隅を照らすとか観念的で空論に過ぎない能書き.戯れ言(プラパンチャ)を宣いながら、迷信的で無明な人々を、更に迷妄で無明の闇に包まれた得体の知れない神や仏への信仰世界へと誘うのです…
しかし全く違うのです…この世界、自分という存在、この世界な本質が[無常であり、無我であり、本質的には苦であり、空である]と理解できてこそ、真の自分の存在の価値とは、自分への捉われ.拘り.執着を離れた[世の中の為、他の生命の為、他の苦悩する人々の為]に生きる事こそ自己存在の意義と価値を見い出せるなですのではないでしょうか…
六道で言えば、自我へ捉われ.世の中を汚し.自分を省みず.他人を蔑ろにし.他の生命を不必要に殺め傷つけ害する心が地獄界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、我欲に拘り理解.評価.所有などを.もっと欲しいもっと欲しいと執着し満足する事を知らない心が餓鬼界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、人間性を喪失した倒錯した心が畜生界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、世界.社会.他人.他の生命と協調し和そうとしない心が修羅界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、他人への慈しみがあり又.自分への執着もあるプラスとマイナスのエネルギーが打ち消し合いながらも人間性を保っているエネルギー状態が人間界へ輪廻させるのであり、自分への捉われ拘り執着を離れ社会.他人.他の生命な為に役立ち.奉仕する心が.天界(安楽界)で休息し.その後に善い処(良い境遇)へと輪廻させるエネルギーを蓄積させるのです…
因みにお釈迦さまが何故、集い(サンガ)を造り教え導きはしたが、教団化するのを避けられ.亡くなられる直前まで.自らの食は自らの托鉢で賄われたのかと言えば、教団化すれば教団経営を主要な行となり、集客.集金が行となり、その為には真理を歪めてまで大衆迎合的に得体の知れない神仏や怪しげな力への信仰や脅し込みやらご利益という果報を謳わなければならなくなり、それによって自らを穢す事を厭われたからに他ならず、それは現在の各宗教.各宗派.各教団の教祖や経営者の有り様を眺めれば明瞭なのではなかろうか…
■如実知見 

束縛から解放されるには、物事を在りのままに観察し.分析し.思惟し.洞察し.検証し.理解してゆくことです。
そこには思惑.妄想.私見.判断などを一切はさまず、在りのままに[生きる]という事自体と、生きるという変化生滅を理解してゆく事です。
生きるという事が理解出来てくると、物事を正しく如実に見ること知ることが出来ます。
如実に知見するならば「一切の現象は、無常であり、無我であり、苦という本質のものであり、空なるものである」という真理を発見して解脱します…
[生きる]とは因果律(縁起)に従って紡がれた一時的に現れる瞬間瞬間の現象に過ぎず、そんな瞬間瞬間の現象を実存だと錯覚し、瞬間の現象に執着し.束縛され.それを最大原因として、輪廻転生という激流を流れ続けているのですから…
如来の徳は積み上がらじ…

如来はその徳を.衆生にと振り向けん…
如来の徳は授かりし衆生の功徳とならん…
■天界(梵天界)  
意識は五集合要素(五蘊)を必要とする
天界(梵天界)では非物質的な精神性の集合要素を形成する…しかし六道輪廻を輪廻する 五集合要素(五蘊)を具えた存在   
■仏界

一源のエネルギー世界
高次元の集合要素を形成
彼岸(外世界
■六道世界
彼岸の淵(宇宙の外淵に形成される天界)輪廻
此岸の淵(宇宙の内淵に形成される迷界)輪廻