承認と期待

最大の味方であると共に…
最大の敵でもあるもの…
それは自分なり…
世の中の毀誉褒貶に、塗れず.気を取られず.惑わされず.捉われず.拘らず.執着せずに.在るがままに.善の法香を放ち続ける…     
多くの人は毎日の生活の中で.或いは仕事の中で[私のこの努力を人に認めて欲しい]と他人からの承認を欲したり期待したりしながら[貪瞋痴思考]で生きているのですが、それは期待が外れたり、理解が得られないと、[自分はこんなに頑張っているのに人は何で解ってくれないんだ]とか[こんな筈じゃないのに…]とか、ドゥッカ(苦しみ.不満.怒り.哀しみ.悩み.虚しさ.憂い...)を生み出し続け.しかもそんな思いを積み上げながら生きていく事となります…
こういった承認欲求とは.幸せの三階層(精神性・絆.関係性・所有)の内の二階部分の絆.関係性.距離感に由来する欲望だと言え、期待とは三階部分の所有(思惑)に由来する欲望だと言え、多くの場合、殆どの人達は日々の暮らしの中で、周囲の人や社会や環境に、過度の期待や理解.承認を欲していないでしょうか?   
他者や環境.社会などへの過度の期待とか理解.承認は、自分で自分を窮屈にさせ.息苦しくもさせてゆくだけであり、因果律(縁起)に従って刻々と変化生滅してゆく此の世界に於いて.そうそう毎度、自分の思い通りに物事は運ばないものなのに、[努力は必ず報われる]などと短絡的な思考で猪突猛進したりと頑迷に生きれば、良し悪しの間を流れながら、いつか必ずドゥッカ(苦.不満怒り哀しみ憂い…)へと行き着いてしまうのです…
 仏教では[諸行無常][因果律(縁起)]と此の世界や私達の姿(実相)を現わしているように此の世の全ては留まる事なく常に移り変わっており、原因や条件が相互に関わりあって存在しているのであり、そんな中においては、この私の身体も感覚も感情も精神作用さえも常に変化し続けており、固定した私という実体的な存在などないのです…

しかし私たちはこの[在りのままの真実]に気づくことができず、常に自分の欲望の赴くままに自分の好き嫌いや、少しでも自分が楽になるように、自分が得するようになどと利己的で自己中心的な考え方でのみ物事を捉えてしまっている現状があります…

 他者(環境)に対する期待は、「恒常不変な私が存在する」という思い込みや全てを自己中心的に見てしまう我執(執着心)から生じています…我執があることで貪瞋癡(とんじんち)をはじめとする欲望が生まれるのだと仏教は教えています…

貪は貪り貪欲,瞋は怒り,癡は愚かさや妄想を意味します。例えば,期待をして(貪)応えてもらっても、自分の思いと違えば期待外れとなり不愉快に感じ(瞋)[何もわかってもらえない][地獄へ堕ちろ〜](癡)となります。まずはそんな自我意識(自己)から離れ、たとえ自分を認めてはもらえなくとも.相手を受け入れ相手を認めていく事が大切であり、そうすることで物事の本質に近づけるのではないでしょうか。

[この身は無常なり、受想行識もまた無常なり、無常なるものへの執着は即ち苦(ドゥッカ)なり]

「承認を期待しない」という考え方で日々を過ごしてみると、思うような結果にならなくとも、その原因を自分自身に探し出す習慣がついてゆくのではないでしょうか。言い換えれば[周りを変えてゆこうというスタンス]から離れ、先ず.少しでも周りから認めてもらえるような自分になれるように.冷静に現状を見つめ直して、今、身の周りで起こっている事や、当たり前(本当は当たり前ではない日々)だと錯覚している物事に気付き、感謝してゆく事から.たとえ凡俗に認められずとも真に価値ある自分を築いてゆく機会として頂きたいと願って居ります…

 


燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや…

目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)

プラパンチャ(戯れ言)

如来の前に如来なく.如来の後に如来なし…

 

真理の法は一法なれば...
一因に縁らず.一法に立せず…
然し明々歴々.一因一法を晦まさず...
仏教とは偏った極端な修行を避けるよう戒めています…その一端は怠惰な道であり.もう一端は苦行の道です…

しかし中道とは苦行と怠惰の中頃と言う意味ではなく.それは両極を乗り越え超越した究極の道の存在を示しているのです…
お釈迦様はその為には.実践に依らない[プラパンチャ]という単なる論理.能書き.戯れ言.観念論.空論.綺麗事に陥らないよう注意するよう仰ったのです…

それは世の中と言うものは実践による事実を素直に受け入れて認める性格を有して居ないものであり.論理.観念論.妄想的仮説とか伝統的な物事.思い込み.権威.信仰.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観.風格...などが優先的に信頼され.実践的事実や真理を包摂しようとさえする風潮があり.人々に単なる思い込みや仮説が.事実や現実を包摂することなど有り得ない事を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものであるからに他ならないのです…


例えば[無一物]にしても.負担のない安らぎの心境を.短絡的な人達はそれを[苦行]だと勘違いして忌嫌い怖れて.それがドゥッカ(苦)を生み出していると気付く事もなく所有に余念がなかったり.また変化生滅してゆく流れの中での.単なる無常な本質のものに過ぎない所有による喜びや幸せを.堅固なものと勘違いしたりしない為に.無一物であっても堅固な喜び.幸せ.悦楽の中に在る事が出来る事を.実践的に実証的に検証するのです…
⚫たとえ得るものが少なくとも不満を抱かず.清らかで勤勉な生活を送る者こそ讃うべき修行者である…

無一物の境地に至れば.苦悩はもう生じようがないのですから…


もし空気を失えば空気が如何に有難く甘露なものか心から気付くでしょうし.自ずと[お互い様とお陰様]の意味も見えてくるものなのです…
水の中に暮らす魚には.外の世界を理解することなど出来ないように.単なる観念論や戯れ言を美辞麗句で見事に修飾しながら.巧みに宣いながらも.その実は凡俗に馴染んでいては遂には真理に到達するもなく真理をプラパンチャ(戯れ言)となし.酔生夢死する結果となるのです…

因みに.折角.人の身に生まれながら欲望の充足に魅入られて[酔生夢死]してしまうような愚行は.輪廻の理法により微生物から捕食の関係性に則り転生を繰り返す事となるのですから…
[たとえ多くを語るにしても.その様に生活して居ないのであれば.彼れは修行者の部類にも入らない…]
今でも新たな在家組織や新興宗教やらが.正道から落ちこぼれた僧侶たちを巻き込んだりしながら雨後の筍の如く増えていますが.そもそも大乗仏教なるものを紐解けば.往時のそんな在家組織から発展している信仰集団なんですから…
真に仏教を理解せんと欲するなら.自己を啓発して.せめて五戒ぐらいは守っていく位の自覚が必要なのではないでしょうか…
●[何とかにも三分の理]と言われるが、その三分の理を乏しい根拠として自己正当性を主張.肯定して八正道を語るは論ずるに値しない…
それは煩悩(自戒.存在欲)による貪瞋痴思考に他ならず、愚か者であっても真実に準拠することもなく先に進む為に[自分は正しい][自分は間違ってない]と自己暗示を掛けながら生きているのである…しかしその先にあるのは真理(真実.事実.現実.実相)を蔑ろにした[何でも有り]の偏った世界なのだから…
維摩経勝鬘経などは凡そ釈迦尊(ブッダ)の教えと相反する教義を編纂した新興宗教団体が.それでも釈迦尊(ブッダ)の権威と名声には阿ろうと捏造した経典であり、仏説とは言い難く、それは多くの日本人が愛して止まないほど大好きな般若心経などにも窺えるのである…
[自分を真に救うものは自分だけ]であり、それを人々の救いを優先するという美辞麗句はプラパンチャ(戯れ言.能書き.観念.空論.綺麗事)に他ならない…
そしてそれらを盲信する人とは、本当には物事が見えていない人だとも言えるのです…
もしプラパンチャ(戯れ言.能書き.形而上観念.空論.綺麗事…)で人が真に救われるという人が居るとするなら、それはヤクザ映画でも見た後に肩を怒らして歩いている愚か者の錯覚を.真に強くなったと勘違いする事にほかならず.それらの理解した.救われた.目覚めた.乗り越えた.解き放たれた.覚ったという錯覚など、現実の前には無力なものであり、故にそれらを[寝呆け]とか[酔っ払い]と表現するのです…
折角の人生…酔生夢死する事が.果たして幸せな人生と言えるのでしょうか…


寝呆け.染められ.縛られたバイアスに気付き、

目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)

ドゥッカ(不安定)とスカ(安定)

生きるとは不安定さ(ドゥッカ)からの安定化(スカ)運動であると言え、この不安定さ(ドゥッカ)からの安定化(スカ)運動が、幸せや喜びを欲するのです…
この安定.幸せ.安楽.喜びを意味するスカ(sukka)とは、車輪(チャクラ)の軸穴を意味し、良く造られた軸穴(スカ)によって回転してゆく車輪は、円滑に.そして快適に自分を運んでいってくれるのです…

例え、ためになる事を多く語るにしても、それを実践しないならば、その人は怠惰な愚者に過ぎない…
牛飼いが他人の牛を幾ら数えても、自分の牛とはならないように、その人は修行者の部類にも入らない…
いくら修行を積んだ徳の高い僧侶と尊称され
徳の高い説法をしていても、そのように生活していないのならば、その説法は飯の種の詭弁に過ぎない…

♢プラパンチャ(戯れ言.能書き.詭弁.空論.…)

 

♠匹夫もて応えん…
 功徳を積まずして、何の成仏やあらんと
          如来品正師
功徳とは
善根を積むことによって得られる功能.福徳や、現世.来世に幸福をもたらす元(原因)となる善行.布施
●効能/功能 とはよい結果をもたらす働きやきき目.はたらきや人の質
●吝嗇りんしょく
もの惜しみ けち 粗末 価値がない人 心が卑しい 心が貧しい人 心が狭い人

 

世間の人が喜びだと言うものを、如来は苦しみと観る…

世間の人が苦しみだと観るものを、如来は喜びと観る…
世間の道と出世の道…この二つの道が向かう先は真逆なのですから… 

一つの道は僅かな利益と名声を追い求める無常な道であり、もう一つの道は「心の安らぎ」に至る真理の道…本当の幸せや喜びとは心の安らぎなのですから…

どちらの道も.充足を求めてゆく道なのですが[心の充足]と[欲望の充足]とは.実は真逆の道であり、しかも心の充足は無明の闇を晴らす心の育成で到達できる堅固な[実像]ですが、欲望の充足とは永遠に到達できない[虚像]だとも言えるのです…

つまり[幸せや喜び]とは[心の充足][心の安らぎ]に他ならないのです…

そして[心の三要素]でも解説したように、[心を充足させる要素].[心を安らげる要素]は3階層構造であり、[一階部分]の存在の次元の事物である精神性.人格.度量.人間性がしっかりさえしていれば、[二階部分]の他の生命との良い絆や関係性も[三階部分]の所有の次元の事物(金財.持ち物.地位.名誉.承認.権威.権力.知識.情報.健康…)も最低必要量以上には必要とせず、却って心の一階部分が脆く.不安定なのに、二階.三階部分の比重が増せば、一階部分の精神性.人格.人間性を歪ませたり崩壊させる事ともなるのですから…

つまりは自分自身の[幸せや喜び]を得るために、精神性や人格を高めてゆくのであり、心に安らぎが現れ.心が充足してくると不満は消え去り、たとえ無一物であったとしても.満ち足りた日々を送ることが出来るのです…ですから心の貧しい人格の低い人間は、満たされる事のない不満な心が、尊大に振る舞ったり、物事に難癖をつけたり、クレーマーになったりして、自分の不満を発散しようとしながら益々、人格を下げてゆくのです…それは争いの修羅界から、動物なみの畜生界、餓鬼界、地獄界(自業苦界)まで何処までも堕ちてゆき.苦しみ藻掻くことも自分の[心の安らぎ]の問題なのです…

誰でもが.幸せになりたい…楽しくいきて行きたいと思いながら懸命に生きているのです…


折角の命なのですから苦しんで生きたいと思っている人など居ないのです(一部の変態者やストイックな人が行なう自虐的な行為にしてさえも.幸せ、喜びの為の行為に他ならないのですから)

しかし、人生を幸せに生きるのも.楽しんで生きるのも、現実はそう簡単にはいきませんね…

何故、生命が現れて約そ40億年、人類へと進化して約そ10万年.これ程切望して.これ程探し求めているというのに、手に入れるのは短命で.不安定で一時的で無常でしかない僅かな幸せや喜びと、引き換えに多くの悩みや苦しみなのではないでしょうか…

人類の社会.科学.哲学.心理学.思想も、この幸せや喜びというものを追求し.頭を悩ませ.発展もしてきたとも言えるのですが、結果的には.こうすれば幸せや喜びを得られると宣いながら、得体の知れない物事とか.無常な物事への執着を深めさせるだけでしかなく、欲望の炎を煽り.人々を苦しみ.悩み.恨み.哀しみ.虚しさで焼き尽くしただけに過ぎないのではないでしょうか…

仏教では.それを無明(無知)と言うのです…

つまりは本当の幸せや喜びというものが何なのかも解らずに幸せや喜びというものを切望して探し廻りながら、それを手に入れた時に短命.一時的.無常ではあるけれど.幸せな気分や喜びの感覚を与えてくれる.手近にある所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権威.権力.称号…)という僅かな幸せや喜びを得ることは出来るが、それと共に.苦しみ.悩み.虚しさ.飽き…という副作用を伴う事物の所有および所有量こそが幸せや喜びだと錯覚しながら、苦しみや悩みを深めていることに気付けない、それは真実という灯す明かりがないまま暗闇の中を手探りで幸せや喜びを探し求めて、手近な便宜的で.付随的な価値のものでしかない所有の次元の事物を目的物と勘違いして盲目的に握り締めようとする無知を無明というのです…

一般的に「楽しみだ」と思われているもののすべてが、我々をだますからくりです。たとえば財産があれば楽しいと思う人がいるとします。財産は、空からは降ってこないのです。大変苦労して獲得しなくてはならないものです。どんなに苦労しても、成功する場合もしない場合もあります。 財産を得たとしても、その管理にずっと苦労しなくてはいけないのです。 結果として、わずかな楽しみがあっても、その本人が財産の奴隷になってしまいます。


 

平和な家族があれば幸せだろうと思う人がいるとします。 しかし、自分の性格に、また好みに、ぴったり合う相手がそんなに簡単に見つかるでしょうか。家庭を作って子供が生まれてからも、育児は楽しみだけの仕事でしょうか。 家庭の平和を守るために、一生苦労して生活しなくてはならないでしょう。 自分一人の気持ちだけでは、何の行動もできなくなるでしょう。

家族だけでなく、親戚や隣人のことも考慮して、行動する必要が出てくるでしょう。

平和な家庭を作るために努力する人が、結局、家族の奴隷になる羽目になります。

また、健康と長生きを幸せの基準にする人がいるとします。 生きること自体が、とてつもなくおもしろいものであるのなら、健康も長寿も意味がありますが、健康で長生きしたいと思う人自身が、何のために生きているかということをわかっていないのです。 たとえ生きることがおもしろくても、健康と長寿はまったくあてにならない不確定なものです。 健康を維持しようとする努力自体が苦しいものであって、その苦労はまた歳とともにエスカレートしていきます。 努力の結果健康でいられるかもしれませんが、維持する苦しみも増えていくのが現実です。

財産があれば幸せ、健康・長寿であれば幸せだと、多くの人達は短絡的に考えるみたいですが.
財産があまりない人は不幸なのでしょうか?

失なう心配、騙し取られる心配、減らす心配もなく気楽に生きるのは果たして不幸なのでしょうか?

ジャングルで何の財産も持たないで生活する人々は不幸なのでしょうか?

では何故、そんな彼らのほうが不満もなく笑って暮らしているのでしょうか?
家族を持たない人は不幸なのでしょうか?

家族の為とか子供の為に生きて、それが果たして自分の幸福な生き方だと言い切れるのでしょうか?
長生き出来ない人は不幸なのでしょうか?

充実して50年生きるより、無駄に100年生きるほうが果たして幸せでしょうか?
そのように生きる人の中にも、幸せな人はたくさんいます。財産、長寿、遊ぶことなどを、幸せの基準にする考え方は差別的です。なぜならば、皆が平等には得られないものだからです。結果として、人類の一部を不幸だと決めつけているからです。 結局のところ、幸福か不幸かということは主観的な見解にすぎません。

 

人間は一向に理解しようとしないのですが、幸せの本当の意味は心の安らぎです。心に悩み苦しみがない状態です。 嫉妬・怒り・憎しみなどで、病んでいない心です。
ものではありません。ものをいくら追っても、心が病んでいるなら、そこにあるのは単なる苦しみだけです。 心の安らぎは万人に得られるものです。それに、誰かと競争して誰かを負かして勝ち取る必要はないのです。

人類は、幸せに対して盲目です。 幸せと一向に関係のないものが幸せだと勘違いしているのです。我々は日々歳をとっていくのです。 知識も体力も衰えていくのです。 必ず病気に襲われるのです。 いつどこで死んでしまうかわからないのです。これらは、決して避けられない事実です。

それなのに、本当の幸せとは縁も関係もない物質(所有の次元の事物)を追いかけているのです…

覚醒し目覚めれば、人類はずっと錯覚していて物質に振り回され、追いかけられ魅入られる結果になり、物質の奴隷となって自由を失って生きている事実に気付くでしょう…

しかし軟弱な豆腐などが.拠り処(支え)とはならないように、夢幻な妄想的なものも堅固な[心の安らぎ][心の充足]とはなり得ないのです…信じるとは物事が本当には見えていない事でもあり、物事が明確に見え.知り.理解できて初めて疑いなく信じる(信頼する)ことが出来るのですから…

如来 沙門に問う            人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、数年の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う       

人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、数日の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う        人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、飯食の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う       

人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、呼吸の間なり…      如来いわく、汝、道を知れり…


 

 

宗教と宗教観

宗教と宗教観
言うなれば.ここが仏教の真骨頂でもあり.仏教を仏教たらしめている処でもあるのですが.ここが一番.理解し難い処でもあると言え.その為に多くの仏教を称する低次元な異端の教えを生み出してきた所縁でもあるのです…
宗教と宗教観とは本質的には天と地ほども違うものなのです…
それは[拠り処]の章でも述べている通り、神や仏とは人間の持つ根深い生きていく事への恐れ.不安.虚しさ.無明さが、子供が親に縋るように保護.安全.安心.恩恵を求めて妄想したものであり、そんな妄想的な物への信仰.崇拝を否定した宗教こそ仏教なのですが、それは仏教の成立当時に於いて迷信的.隷属的に人々を脅しこみ.縛りつけていたバラモン教の神々の否定であり、世の中に溢れ返る得体の知れない神仏や眉唾な力などの否定であり、決して宗教観を否定している処か、却って無明の闇の中を手探りで生きている人々には、宗教観が絶対的に必要なのであり、それは共産主義思想とか全体主義思想を見れば明らかであるように.人間存在とは.大宇宙の片隅の.その一銀河の片隅の太陽系という星系の地球という惑星に生きかされている.大宇宙的に見れば微生物にも等しい儚い存在でしかない事実を大いなる存在というタガが外れ病的な増上慢になると無明な人間はパラノイアな人のごとく.自分達の神格化を欲し、自分の主観に逆らう人々を何百万人.何千万人抹殺しようが、意にも返さない愚かな本質を現わす[人の心の奥底に仏も住むが鬼も住む]そんな存在であり、具わった理性という仏心により.得体の知れないものにではなく、人間などという存在には理解し得ない.計り難い.大いなる存在への正しい崇め.畏れ.敬い.感謝という宗教観がなければ人の心から修羅.畜生.餓鬼.地獄へと堕ちて行くか、糸の切れた凧のように激しい流転を繰り返してゆく事になるのですから…
この大いなる世界を司る[理法]に対するとき、不完全で.不安定で.弱く.脆く.儚き人間という存在として.大いなる存在(理法.天地自然.森羅万象の法則)に対する崇め.畏れ.敬い.感謝の心の象徴であり、主観的に神や仏という象徴的な概念を我々と似せて擬人化して自分達に依り近い存在であって欲しいという願いからに他ならないのです…

しかし象徴化し、また擬人化してしまった事により大いなる理法への信仰が、いつの間にやら得体の知れない神や仏という存在への信仰と化し、絶対神やら何たら仏やらパパラッチでも在るまいし我が神と他の神とか何たら仏のご利益と分別.分断化して、妄想にすぎない俺らが神は偉くて他の神は偉くないと争い.競い.戦争までして他人を多く殺戮したほうの神さまが偉いと位置付けられる罪造りな存在でもあるのですから…
しかし決して宗教や宗教観の否定している訳ではなく、寧ろ正しい宗教や宗教観や拠り処が無ければならないといっているのです…
それは言い換えれば.ドゥッカ(苦)という本質により生かされている人間としての自覚、この
なまじ発展した社会に暮らす愚かな人達は、得体の知れない神仏への信仰から解き放たれた時、人間を人間たらしめている宗教観まで喪失してしまい、この大宇宙の片隅に生きる微生物に等しき存在に過ぎぬ自分というものを尊大に捉えて、心を貧しくさせ、この大宇宙を存在させしめている[大いなる理法][大いなる意思][大いなる存在]への崇め.畏れ.敬い.感謝を、得体の知れないものへと振り向けたり、そんな宗教を捨て去った時、同時に宗教観までも捨て去ってしまい、苦しみ.怒り.不満の根源である貪瞋痴思考という無明な生き方をする事になるのですから…
げに怖ろしきは無明なり…
[人は無明なるが故に宗教観を必要とするのです…]
宗教それは人間の無明な心を慰める為でもある一方、修羅心.畜生心.餓鬼心.地獄心にも容易に貶めてしまう人間の心の本性を善へと導くものなのですから…
人間の無明な本性が暴走するとき、人は自分を基準とした尺度と範疇の中でしか物事を見ることが出来ない…それは大いなる真理の一片を以って、真理の全てであるかの如く錯覚している[井の中の蛙]に他ならないのである…
またそんな主観的で片寄った知識や情報が決して真実とは限らないにも関わらず.そのことに気付けず.気付かす、鵜呑みにして盲信する無思考な者達が大勢を締めるのも怖ろしいことであり.そんな愚かで.短絡的で.偏った者の一人が.その狭い了見で下した無常で短絡的な主観に過ぎないものであっても、煩悩は[自分は正しい][自分の判断は間違ってない]と根拠もない自己肯定感を乗り越えることが出来ないものなのです…
無常な現象でしかない感覚.感情.主観を尺度として物事を測れば、視野の狭い自我意識に翻弄されることとなり、それが苦と不満を造りだしているのですから…

 

拠り処(精神的支柱)

人は自らが.自らの主人であり.それより高い処から人の運命を差配したり審判するような神.仏などの絶対的な存在や力などなく…人は自らが自らの拠り処となり、他のものを拠り処とするなかれ…法(真理.法則.仏法)を自らの拠り処とし、他のものを拠り処とするなかれ…
人は自らの努力と知性によって、汎ゆる束縛や無明やドゥッカ(苦)から自分を解放することが出来るのであり、自己解放は人が自ら真理を実現することにより得られるものであり、神や仏や外的な力から、その従順な信心.信仰.崇拝に対する報いとして与えられるものではないのですから…
例えば、教師や反面教師から何かしらを学ぶとき.自分の主人は自分であるが、神や仏やその代理人だと主張する教祖とか教師という輩の言葉や教えを学ぶとき、その得体の知れない神や仏やその代理人を主張する教祖とか教師とかいう輩が自分の主人に就り、自分はその従者に貶めらてしまうのです、その束縛の中で得られる何かに包まれる.束の間の安心感や喜びなどが自閉症的なものに過ぎないと気付くことが出来ずに酔生夢死してしまうのは憐れなことであり、人は自らの主人なのですから、従者(感覚.感情.主観などの精神作用)を上手く差配.コントロールして.決して乗っ取られることがないよう自覚が必要なのです…
信仰.信心とは物事が本当には見えていない無明の闇の中を彷徨っている場合に生じるものであり、物事が明確に見えた瞬間には消え去り.霧散する性質のものなのです…
心の不純さ.不浄さの消滅は物事を知り.物事が見えている人にとってのみ可能なことであり.物事を知らず.物事が見えていない人には不可能なのです…それは欲望が優先しているのですから…
生命はドゥッカ(苦)のエネルギーによって生かされているのですから、不安定で不完全で弱く.脆く.儚い.恐怖の中を生きる人間は依り処(精神的支柱)を必要として渇望するのです…
人間には自己防衛と自己保存という根深い本能的な心理があります…
自己防衛心理について言えば、愚かで不完全な人間は.子供が親に頼るように、自らの保護安全.安心の拠り処として神や仏を造ったのであり、自己保存心理については永遠に生きる自分の本質的存在として不死の魂.霊魂.霊体を造ったのであり、無明の闇の中を盲目的に手探りで、暗夜行路を行くが如く生きる人間はその無知.恐怖.不安.迷い.弱さ.欲望などの苦しみ(ドゥッカ)から自らを慰める為に、これら二つの心理を拠り処(精神的支柱)として熱烈にしがみつこうとするのです…
科学は進歩しましたが、まだ混沌とした現代社会に於いて得体の知れない神仏や力という妄想から目覚めない人達もまだ多く、また得体の知れない神仏や魂.霊魂などへの依存からは目覚めても、無明なまま.不安定で無常な本質の所有の次元の事物(金財.物欲.地位.権力.権威…)への欲望と執着へ、拠り処(精神的支柱)先を変更しただけに過ぎず、それは却って無明の闇を深めさせる事となり.ドゥッカ(苦しみ.迷い.悩み…)を晴らすことが出来ずに彷徨っているのではないでしょうか…

また、魂.霊魂という永遠の存在という妄想的な考えは該当しない実体として捉えさせた自分.自己.自我という意識を造り出し.変化してゆく現実の中で戸惑ったり.意に沿わぬ現実の中で苦しんだり、利己主義的な欲望や煩悩的な執着.憎しみ.怒り.迷い. 悪意.自惚れ.傲慢.エゴ.不純さ…その他さまざまな弊害をもたらす.それは個人的ないざこざや争いから国家間の戦争に至るまで、世界中の汎ゆる問題の大基でもあり、突き詰めれば諸悪の根源はこの誤った考えに基づいているのですから…
人間とは他から独立して自分一人では一時も存在し得ない存在であり、依存関係性の中で存在(現象的)しているに過ぎないのですが…

世の中に溢れ返っている偏った知識.情報に煽られ欲望をつのらせ、その不安定な本質(ドゥッカ)を何とか安定化させる支えとなる拠り処を外界に探し求め、下らない物事.どうでもあい物事.つまらない物事に気を取られたり.捉われたり.執着したりしながら、ゴチャゴチャと雑念や妄想に陥ったり、勘違いしたりしながら、却って安定性を失ってゆく事もとなり、その欲望という隙を見つけ、取り込み.漬け込もうと悪しき者達は耳障りの良い言葉を囁きながら近づいて来るのですから…

堅固で安定的な拠り処は、自らの努力と知性による.無明(本質的無知)からの覚醒.超越.解放でしか得られないのですから…


世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、心の依り処(依存の対象)という因縁から発生する…

彼が正に[在るがままに]知ることなく、心の依り処を作るなら、彼は愚か者であり、繰り返し、自ら苦しみへと近づき行く…
それ故に[在るがままに]覚知している者となり、
苦しみの出生の起源を随観する者となり、無常な心の依り処を作らないように在れ…


自分自身を依り処とし.自分自身を避難所とし.

他の誰をも.避難所とすることなかれ…

法(真理)を依り処とし.法(真理)を避難所とし.

他の何ものをも.避難所とすることなかれ…

 


人間は本質的には無明(盲目的.無知)な状態でに生まれついているのです…

生存の素因でもある煩悩(存在欲)は、盲目的に、生きていたい.存在し続けたいと、無常なものにも三毒(貪嗔痴)を伴って依り処(精神的支柱)として依存したいと渇望するのですから…

成長するにつれ、色々な知識や情報を積み上げて行きますが本質的で根深い無明の闇を晴らすことは出来ないのです…
ですから無明という一寸先は闇の中を.盲目的に手探りで.無常の業火に煽られながら必死に生きているのです…

本質的な無明により、ドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.憂い.迷い.不安.悔い.恐怖.不満.哀しさ.儚さ.弱さ.脆さ.空虚さ.無常さ.実質のなさ.惨めさ.欲望……)は生じ、付いて廻り.ある意味.ドゥッカに生かされているとさえ言え、無明の闇を抱えたまま.ドゥッカから逃れることが出来ないのです…
人間とは本来そんな存在ですから、自身の保護.安全.安心.恩恵を欲し渇望し.自己保存と自己防衛の為に.何かしら心の慰めとして依存する依り処(精神的支柱)を必要とし.人それぞれ何かしらを依り処として儚い安定を保ちながら辛うじて生きているのです...

しかし妄迷な人は、自分には何も依り処(精神的支柱)など必要とせずに生きていると錯覚しながら、却って取り留めもなく欲深く何かしらにに依存していたりしています…

先ず言えるのが、人間という存在は自分ひとり他から独立して単独には一瞬たりとも生きる事ができない存在であり、汎ゆる因果律に従った相補的関係性のお陰さまで生かされている存在なのですから…

例えば.先に進むためには疑いを晴らして行かなければ先へは進めません…

それはハシゴを昇るようなもので、横木を片手で支えとして昇り、次の横木をもう片方の手で支えとしながら昇ってゆくものですが…もし次の横木が信頼出来ず、躊躇っていては上へは行けません…

[生きる][昇る][先へ進む]は同義語でもあり、何かしらを信じ信頼して依存する依り処なしには生きて行けないのですから…


現代人の一番.愚かな所は、無明なまま[宗教観を喪失]してしまった事であり、現実的な部分で得体の知れない神仏や怪しげで眉唾な霊力を否定しながらも.心の中に覚悟たる宗ねとなる教えも生き方も.依り処(精神的支柱)もない[糸の切れた凧状態]のまま、風に吹かれて.煩悩と欲望の赴くままに無節操に取り留めもなく欲深く.何かしらに依存しながら生きている自分に気付いていない事なのです…

煩悩に征服され、感覚や主観に翻弄され、欲望の炎に煽られて、苦と不満の中を生きるより、自らを律し、敬虔に生きる人のほうが自分を高めて幸せに生きられるのですから…

確固たる依り処(精神的支柱)の喪失から、便宜的で付随的で無常な所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権威.権力.勢力.若さ.健康.寿命.外見.家族.伴侶…)を依り処(精神的支柱)とし、それが為にドゥッカの中を翻弄されながら彷徨うこととなるのです…

例えば現代人ともなれば、得体の知れない神様や仏様とかお化け.霊魂.超魔術など眉唾なものに過ぎないと頭では理解できてるのですが、煩悩(存在欲)は不安.保護.安全.安心.恩恵の為の自己保全と自己防御への根深い欲望の前に.理解できずに…存在していて欲しいのです...不思議や第三の目とかファンタジーやSFスペクタクルは、煩悩の要求に全く適っているから、人気が衰えることがないのですから…

 


妄迷と迷信に被われた世界に出現した革新的な真理の教えが仏教であり、得体の知れないものへ依存し依り処(精神的支柱)として盲目を深める人々に、真の救いである真理(真実.現実.事実.実相)の光明を依り処(精神的支柱)とした堅固で開明的な安らぎの世界がある事を説いたのが智慧(叡智)を前提とする如来の教え仏教であり、如来が指し示す真理(真実.事実.摂理.実相)こそが神性であり仏性であり、この世界で唯一の無為(変化する仮相ではない実相)なる理法.物理法則.自然法則.量子法則.絶対法則への依存こそ堅固な安定.安心.実相的な悦楽.歓びをもたらす依り処(精神的支柱)なのですから…

子のある者は、子について憂い、
また牛のある者は、牛について憂う。
人間の憂いは執着する拠り処により起る、実に執着する拠り処のない人は憂うる事がない
自己の拠り処は自己のみなり
他に如何なる拠り処が有ろうか
自己のよく調御せられたる時、
人は得難き拠り処を得る。
物質文明の真っ只中に生きる現代人は、ストレス.知識.情報.妄迷.欲望.無明.暗愚により安定的な依り処(精神的支柱)を見失い、便宜的な手段.付随的要素に過ぎない所有の次元の事物(金.財.所有物.地位.身分.名誉.称号.権威.権力.勢力.承認.健康.寿命…)を安定的で堅実な依り処(精神的支柱)と錯覚し.存在の次元がある事に気付く事もなく.却ってドゥッカ(苦しみ.悩み.心痛.迷い.哀しさ.怖さ.不安定さ.不完全さ.儚さ.悔い.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ.無明.欲望)を深めている。
それは言わば真の芸術とは自己完結しているものであり、他人の評価や価値観に依存するものではなく、どんなに権威.名声.信頼があろうが評価.価値判断とは単にその人の主観.感覚.概念と一致しただけであり.決して真理を語ってはいないように、世間でいう好感度という類の.凡そ真実を形容しないひとつの感覚的なものに過ぎないものだと言えよう。
人間の本能とは自己防衛性と自己保存性と客観的理解認識能力(理性.知性)という三要素(純質・激質・暗質)により成り立ち[誕生]による無明(本質的無知)を条件として生起する
無知(無明)による本質的なドゥッカ(生存苦.不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.悔い.心痛.弱さ.渇き.怖さ.哀しさ.儚さ.空しさ.惨めさ.無常さ.実質のなさ等)による根深い自己防衛欲により自分の保護.安全.安心.恩恵のために神や仏を妄想して精神的支柱(拠り処)とし、また根深い自己保存欲により永遠的な実体としての魂.霊魂.霊体などを妄想して精神的支柱(拠り処)として、本質的な不安定性を辛うじて安定化させているのであり、己の理性.知性(客観的理解認識能力)や現実が幾ら疑問を呈してもそれらを自分という存在にとって必須な無くてはならない精神的支柱(拠り処)だと錯覚して、それらにしがみ付き乗り越える事が出来ない。それらを否定される事は自分の存在の否定だと捉え怒り恐れ狼狽るのだか、しかし単に信じると言う事は[虚妄]を依り処(精神的支柱)として依存する事であり.それは無明な人を更に盲目的にさせる事であり不安定な本質を更に不安定化させる事に他ならず.自分という存在の真の意義や価値観を放棄し他人の意義や価値感で生きる事を意味するのである。神や仏の価値観を否定している訳ではなく、各人が何を信じ.何を選択し.何を精神的支柱(拠り処)として生きようが悪事に向かわせるものでない限りに於いては自由であり、精神・肉体両面における本質的な不安定状態を一時的にせよ安定状態へ向かわせるものであるならば一定の価値観は見い出せるのだが、真に人を無明の闇の中から目覚め覚醒させ.乗り越え超越させ.解き放たれ解放される道とは真逆な道でもある。それでも何れの道であろうと安定を維持させてゆくことが幸せに生きてゆく為の絶対条件であり、真に堅固で安定的な依り処(精神的支柱)とは真理(真実.現実.事実.実相)をおいて他にはないのである。しかし現代社会においては得体の知れない信仰と、本来的な宗教(宗となる教え・人が人として生きて行く為の精神的支柱.(拠り処)とすべき教訓・倫理・道理・徳目・死生観)を混同し同じものの様に捉え、現代人の中には得体の知れない信仰を捨て去る時に同時に真の宗教観(精神的支柱)さえも放棄してしまい、肉体的.精神的な本質的不安定を安定化させるための精神的支柱(拠り処)を所有の次元の事物(金銭.財産.物欲.地位.名誉.称号.身分.権威.権力.勢力.家族.承認.評価.見栄.健康.長寿…)に盲目的に求めた結果として、それらに魅入られ誑かされ執着し、却って苦や悩みや不満や恨みや争いを造り出して不安定な人生に翻弄されているのではなかろうか。
「汝らは自らを燈明とし自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を依り処とせずに在れ、法(真理)を燈明とし法(真理)を依り処(精神的支柱)とし、他を拠り処とせすに在れ」
※自らが正しく眺め理解した真理(法・真実.摂理.自然法則)を精神的支柱とし、他人の説を依り処とするな、この世界の真理(無常の理法・縁起の理法・輪廻の理法)を精神的支柱とし、他のものを精神的支柱とはするな。
⚫では何を精神的支柱(拠り処)として生きてゆくべきなのかと言えば、真理(真実.事実.現実.実相)であり、諸行無常(常ならず変化生滅している)のこの世の中においては、凡そ全ての物事はその関係性・相対性における縁起(条件によって生起し、条件によって消滅する)とい因果律(物理法則・摂理)に支配されているから、所有の次元の事物は皆、いつか必ず去っていったり.壊れたり.失なったり.盗まれたり.飽きたりと価値が変わったりと条件性を前提とする事物なのだから必ず苦や悩みや不満や恨みや争い空虚や不安定(ドゥッカ)へと還り付く性質のものなのであり、この世界の中で真に精神的支柱(拠り処)とすべきものは条件によって変化したり消えたり逃げたりしない唯一、絶対的(無為)な真理(真実)という堅固なものを精神的支柱(拠り処)とすべきだと、お釈迦様は説かれたのであり真に安定的な幸せの為には.真理の発見とその修養の道を[自燈明]自らの内にある真理を認識し理解する能力による(叡智)を精神的支柱(拠り処)とし、[法燈明]法則(真理)という安定的な実体(条件により生起し条件により消滅しない唯一のもの)を精神的支柱(拠り処)とし、他の一切を精神的支柱(拠り処)にしてはならないとお釈迦様は説かれているのです。
「頭ではなく心(サンニャサンカーラ・想行蘊)が無常なる流転の法を理解できたら、全てのドゥッカ(苦・悩み・空……)から解放される。」

今も昔も.そして将来も、社会には.汎ゆる罠が張り巡らされていて、そうと気付かずに無闇.迂闊に近づくと、騙されたり.大切なものを搾取されたりする事になるので、気を付けてなければいけないと、お釈迦様も仰っています…

お釈迦様が説かれた十二因縁(十二縁起)も或る意味に於いて、騙されたり.搾取されたりしない為に、因果律に従った物事の道理に沿った在りようの洞察力の開発と言えるのです…
先ず、社会の中で生まれ育って来た[自分]というものを冷徹にそして客観的に観察して見れば、人それぞれに物事に対して色々な見方.考え方.見解.認識がありますが.果たして.それが本当に自分の見方.考え方.見解.認識であると言えるのでしょうか…
確かに自分なりの.業(カルマ).性根.性格.嗜好.意識などに依る部分はありますが、環境.時代.教育.知識.情報.洗脳.欲望などの色眼鏡というバイアスが既に掛かっているのではないでしょうか…
社会に張り巡らされ溢れ返る罠とは.心理バイアスでもあり、作為ある知識や情報.プロパガンダ.先入観.思い込み.錯覚.既成概念.固定観念.迷信.伝聞.通説.仮説.暗示.染脳.洗脳など通じて、無明な人達を騙したり、美辞麗句や耳障りのいい言葉を駆使して誑かそうと待ち構えているのです…
こんな話を何故.始めたのかと言えば.今まさに時代の一大転換点を迎えようとしているからに他ならず、ここ1~2年の行ないと対処が.この後の百年間を決定付けてしまうといっても過言ではないでしょう…
善行を説き.礼節を説き.平和を説き.無我を説いていても、仏教は智慧を説いているのです…仏教徒は作為ある悪人の毒牙に掛かる子羊ではなく、真理(真実.事実.実相)を依り処として.悪意ある者達の罠や毒牙から逃れる智慧を説いているのです…
⚫先ず得体の知れない神や仏や精霊などを持ち出して救いや他力を謳うものは全て作為ある無明なものに他ならない…
・神性.仏性と得体の知れない神仏とは似て非なる真逆な性質のものなのです…
⚫霊魂.魂.霊体.スピリチュアリズムなどを持ち出して啓示とかお告げを謳うものは全て作為ある無明なものに他ならない…
霊性.スピリチュアリティー(精神性)と、霊魂.魂.霊体.スピリチュアリズム(心霊主義)とは似て非なる真逆な性質のものなのです…
人智を超えた知見と、啓示とかお告げを謳うものとは似て非なる真逆の性質のものなのです…
⚫仏教にいう彼岸(あの世・高次元世界)とカルトの霊界とは似て非なる真逆の性質のものなのです…
高次元世界を感知は、この世界(時空)へ繋ぎ止められている因縁である[執着]を離れた.心的エネルギーの[グラビトン化(ループ)]により、人智を超えた知見へ到達できるのです…
皮肉な話でもありますが、欲望への執着によりこの時空に繋ぎ止められた.物質及び心的エネルギーはこの時空を輪廻(ループ)し、あらゆる執着から離れて[グラビトン化]した心的エネルギーは高次元の時空を輪廻(ループ)往還するのですから…
つまりはあの世(高次元世界)への転生を願い求め欲する心的エネルギーはこの世界(時空)に繋ぎ止められ.在るがままに在り[グラビトン化]した自由な心的エネルギーはあの世(高次元世界)へと成仏してゆくのです…
五集合要素(五蘊)
①人間とは五集合要素(色受想行識)という五蘊により形成されています…この結合を[生]というのです
②この五つの要素の結び目が解かれる事を[死]というのです…
❖引き寄せて 結べば芝の庵にて 解くれば元の野原なりけり…
③つまりは5つの要素[身体的要素.感受器官.記憶要素.性質的要素.業(カルマ・形成力).概念形成要素]は解かれるのですから、輪廻してゆくにしろ、成仏するにしろ心的エネルギー(業と霊.魂とは違う)は.この現世での記憶の残滓を越えた記憶.情報.想いなどは運ばないのですから、霊界からピーチクパーチクと囀ることなど有り得ない妄想.妄言に過ぎないのです…
得体の知れない神や仏や精霊とか怪しげな力への夢想(無明)から、目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放たれる(解放)を目指すのが、お釈迦さまの説かれた仏の教え仏教なのです…
 
  真理は真理、虚仮は虚仮…
目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)

末法思想

仏教の[末法思想]について.どう読み解くかが重要なのではなかろうか…
世の中で盛んに末法思想を叫ぶ人達は、釈迦尊(ブッダ)の教えはもう古臭くて時代にそぐわないものだから.何たらと[あっちの水は苦いぞ.こっちの水は甘いぞ-]と末法思想を歪曲して捉えながらも.釈迦尊(ブッダ)の権威にはしっかりと阿っている感が否めないが、真の意味は釈迦尊(ブッダ)在世当時でも優れた弟子もいれば.愚かな弟子もいただろうし、教えを理解できるものも理解できない者もいだろう、そして理解できない者に限って欲望や自我意識などか強いものであり、そのような者達が.やがては仏の教えを大衆迎合的に捻じ曲げたり変質させていき仏法も堕落し廃れてゆくだろう事の洞察から生まれたのが末法思想であり、それは歪んだ仏法を正しい教え(真理)へと導く如来の出現の暗示でもあるのです…
私が日本仏教の一僧侶であるから言う訳ではなく.真の釈迦尊(ブッダ)の教えを学ぼうと欲するならば、オタクでも在るまいし.別に上座部へ帰依する必要など無いばかりか.残存経典の範疇と認識に留まり自ら第六蓋とするだけでしかなく.目の前にある現在の日本仏教で充分なのであり、肝心なのはそれを如何にして学ぶかという姿勢なのではないでしょうか…
それは道元禅師も喝破しているように[仏道とは己を習うこと]であり、釈迦尊(ブッダ)が到達された深淵なる真理(真実.事実.実相)への到達は各人一人一人の問題であり、自らを真に助けるものは自分自身の努力と智慧だけなのですから…
その為に.別に物真似をするという意味ではなく、釈迦尊(ブッダ)が考えただろう如く考え、釈迦尊(ブッダ)が行なっただろう如く行ない、釈迦尊(ブッダ)が語っただろう如く語ることを心掛けることも一法なのです…
四大教示としても残っている釈迦尊(ブッダ)の言葉に…
私が去った後になって「私は尊師から、目の当たりに直接に.このように聞いた(如是我聞)とか.目の当たりに承った、これが真実の理法である、これが戒律である、これが師の真実の教えである…」と言う者が必ず現れよう…
それを無闇に受け入れる事なく、排除する事もなく、それらの文言.教説を良く理解して、一つずつ私の信頼できる言葉や経典に引き合わせ、戒律に参照吟味してみて、私の信頼できる言葉や経典の教えに合致せず、戒律にも一致しないものは「これは尊師が説かれた言葉や教説ではなく、尊師を騙った何者かのものであると、これを放棄すべきである…」と先々について戒められた…
これを迷妄.短絡な者達は、保守的だと非難するが、世の中の無常.有為な真理によって立つ俗諦と.無為な普遍的真理(絶対真理)を説く仏教とを混同して観てはならず「真理は一つであって第ニのものは存在しない」のであり、世の中の習いが変わろうとも.時代が変わろうとも「真理は真理.虚仮は虚仮」でしかなく、正法.像法.末法という思想自体が邪な作為により造り出されたまやかし(摩羅迦子)に他ならないのです…
しかし世間と言うものは、事実(真実)を素直に認める性格は持って居らず、権威.伝統.風格などとか.思い込み.多数派.一般論.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観.錯覚...などが優先的に信頼され、人々に真実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものである…
まして多くの人は自分を基準とした浅薄.短絡.主観的な尺度でしか物事を見ることが出来ず.しかも乏しい根拠に基づいたまま[自分の考えは正しい][自分は間違ってない]という自我意識を乗り越えることが出来ないで居るのだから…
無常な現象でしかない感覚.感情.主観を尺度として物事を測れば、視野の狭い自我意識に翻弄される事は必然であり、又それが苦を造りだしている事にすら気付けないでいるのですから…