日記

八正道(自戒の章)

八正道(自戒の章) 心を浄化する修養の実践(業.カルマ=行為) 修養者は正しい修養により[戒]から[定].[定]から[慧]に至り一人の菩薩大士となる 悦楽の中に修養の成果を味わい、生きる事の素晴らしさを享受し、命の意味を悟るだろう。智慧の修養は甘美な果実を…

八正道(智慧の章)

八正道(戒定慧) アリヤ・アッタンギカ・マッガ「もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば或いはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであれば、それは煩悩に捕らわれている人が正しい道以外の方法によっても清められる事になるであろう。 …

痛 み

苦しみとは痛みである・・ 悩みとは痛みである・・ 不満とは痛みである・・ 哀しみとは痛みである・・ 恐れとは痛みである・・ 悔やみとは痛みである・・ 迷いとは痛みである・・ 渇きとは痛みである・・ 失望とは痛みである・・ 生老病死いずれも痛みである…

見解と真理

世の中では多くの人が、例え明らかな誤りであっても許容し看過する事が大人であり寛容な心で有るかの如く錯誤してしまうが、それは自浄作用を期待すればこその寛容であり「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」「過ちて改めざる、之を過ちと謂う」と言われる…

智者は今を生きる

釈迦尊(ブッダ)は仰っている。 智者は昨日を悔いたり明日を心配せず、とにかく「今」を生きている。だから毎日が輝いているのだ。 愚者は昨日を悔い、未だ来ぬ時を憂い、「今」を見ようとしない。 青くとも刈り取られた葦には命がないように愚者も真に生きて…

真理の実現

真理の実現 ⚫真理の実現は自らの知性(理性)と努力によって得られるものであり、神.仏や得体の知れない外的な力から.その従順な信心や意に添う行ないに対する果報として与えられるものではない。 「汝らは自らを燈明とし自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を…

精神的支柱(拠り処)

子のある者は、子について憂い、 また牛のある者は、牛について憂う。 人間の憂いは執着する拠り処により起る、実に執着する拠り処のない人は憂うる事がない。 自己の拠り処は自己のみなり 他に如何なる拠り処が有ろうか 自己のよく調御せられたる時、 人は…

中道は平安なり

得体の知れないものへの信仰(拠り処)を否定された釈迦尊(ブッダ)の教えである仏教に於いて片極に偏らなき中道を目指すとき、それは現実主義に根ざした宗教(人間がむねとすべき教え)である仏教は、それとは真逆な性質を有する信仰との中道を図るとは、得体の…

安心と不安(無明)

無知(無明)とは何か。 仏陀は「人みな無明あり、一切の苦悩は無明より生ずる。無明ゆえに偏った見方をしたり執着したりして苦しむのである」と仰った。雑阿含経が丁寧に解き明かしている。 「無明とは何か?過去と未来を知らず、過去と未来との関係を知らぬ…

所有と存在

社会は所有してゆく事により垂直的(積層的)に構築され成り立っているが所有の次元の事物とは手段的な価値(付随物)の便宜的なものでしかなく決して目的ではないにも関わらず必要以上に魅入られ執着しドゥッカ(苦や不満)という本質のものであっても貪ろうとす…

釈迦尊(ブッダ)が目指したもの

相互依存関係性(縁起)における汎ゆる物事を象徴化(シンボライズ)し感謝し.畏敬し.崇め.奉り.信仰心へと高め、拠り処(精神的支柱)とし、現実を直視し、現実の中で今ある汎ゆる困難に立ち向かい乗り越えてゆく道こそ、人を真に幸せへと導く道であり、人間の本…

ブッダの御心は日本に伝わらず

残念ながら釈迦尊(ブッダ)が説かれた真実の仏の御教え(仏教)は、日本では受け入れられず、後代になって伝来(最澄や空海が持ち帰った)した釈迦尊の身教えとはとても言い難い得体の知れない神仏への信仰が日本中に根付いている。では大乗仏教は仏教ではないの…

宗教と信仰

確かなものへの信仰があり、在家の生活を営む人に「誠実・真理・堅固・自制・施与・忍耐」という六種の徳があれば、その人は今世に於いても来世に至っても憂えることがない。 この世に「誠実・真理・堅固・自制・施与・忍耐」よりも更に勝れたものはなし こ…

因果律にみる輪廻と再生

因果律(縁起)とは、他の物事を条件付け、他の物事に条件付けられる相対的な依存関係性を解き明かした仏教思想の根幹を成す此の世界(現象世界)の天地自然の法則(物理法則.摂理)です。努力して内観している修行者に諸々の物事が因果関係の連鎖を成していること…

人間の本質

苦しみ、悩み、不満は、執着より生起する。 執着は、貪欲と渇愛より生起する。 貪欲や渇愛は、無知(無明)により生起する。 無知(無明)は、老いと死を条件付けられて生起する。 老いと死の因縁は、誕生により生起する。 このように無明(無知)を条件つけられ生…

身軽と気軽

生きる事を謳歌するためには心を蟠りや束縛から解き放ち軽安.自由であらねばならず、その為には無執着と寛容で在らねばならない。生きる道に苦悩と不満を募らすものは、執着により負担を自ら蓄積させているからに他ならない。 そして[味わう]とは意識.思考が…

幸せに条件付けをしない

例え今がどうであれ、こうであれ、在るがままに幸せなるを知らず。 幸せを味わうのに条件付けは要らない.在るがままに幸せなのだから。 幸せの条件付けをしたがるものは[今は.ああだから、こうだから幸せを感じられない]とか[あれが有れば.これが有れば幸せ…

極楽浄土

極楽浄土が本当に在るのかと問われるならば答えは「実在」であり、言い換えるならば涅槃(ニルバーナ)の境地こそ極楽浄土なのだと言え、不確かな実証の出来ない彼の世の極楽浄土や阿弥陀仏が無責任に約束するとしたような妄想の類でも信仰などではなく、今生…

菩薩と如来

「よく調いし、その身こそ仏なり」 「神仏も悪魔も鬼も外に居ず、人の心の中に在り」 「菩薩」(bodhisattva)「如来」(tathagata)とは何であるのか。 【菩薩とは】 菩薩とは菩提薩埵(ボーディ・サットヴァ)の略であり、「完成へと向かう修行者」の意であ…

洗脳と染脳

洗脳と染脳とは真逆な性質のもの 洗脳とは本来は、誤った見解・思想・観念などの邪見や無知による誤解や錯覚や心の汚れなどを洗い浄め、頭の中に積み上げごみ屋敷化した情報や知識や思い込みや既成概念や主観を廃棄、洗浄し、新たに正しい真理や有益な知識を…

相対的幸福と絶対的幸福

幸福には[相対的な幸福]と[絶対的な幸福]とがあります… 相対的な幸福とは.他と比較して自分のほうが優れているとか.今のほうが恵まれているというような主観的.感覚的.感情的.記憶.情報.知識.妄想による喜び.快感.幸福感などを味わう本質的には無常な苦(ドゥ…

妄縄自縛

人は在りもしない縄を妄想し、自らを縛りつけ苦しみ悩み迷い悔やみ恐怖し争っている。枯葉のざわめきを魑魅魍魎と恐怖し、有りもしない敵を捏造し、根拠なく自惚れて自らを高く見せようと飾り立て、これから切り開く道が既に引かれて居たりする。一休宗純は…

諸悪と苦しみの根源(無明)

問題の本質や秘密や原因を等閑にしたまま深く思慮する事もなく、他愛のない理想論を語り、そんな自分に酔っ払っているような人をよく見かけるが、理想と現実とのギャップにより生み出されるものはドゥッカ(不安定・不完全・苦・悩み・空しさ・怖さ・弱さ・…

如来品正師.多々方等正覚語録.その5

【如来品正師 多々方 等正覚 語録】 <諸悪の根源> 問題の本質や秘密や原因を等閑にしたまま深く思慮する事もなく、理想論を語り、そんな自分に酔っ払っているような人をよく見かけるが、理想と現実とのギャップにより生み出されるものはドゥッカ(不安定さ…

仏道の階梯

仏道に於ける修養とは八正道の実践であり、八正道の実践を欠いた仏道などと主張するものは実は仏道ではないと言えるのである。 八正道の同時進行的な実践の上に、四聖諦・因果律(十二縁起)・五集合要素(五蘊)・業(カルマ)・再生(サンサーラ)・無我(…

仏道の実践

仏道の実践とは、誰でもが何処でも何時でも何をしていようが日常生活の中で実践してゆけるものであり、そう在らねばならないものであり、別段に仕事を辞めたり、剃髪し山深く人里から離れ隠棲したり、山門を叩かなければ実践できないものでも達成できないも…

すべてはドゥッカ(苦)に包摂される

「ドゥッカ」とはパーリ語及びサンスクリット語であり、四聖諦にいう苦でもあるのだが、釈迦尊が仰った「ドゥッカ」とはそれに留まらず本質的には生死に根差した(不安定さ.不完全さ.苦.悩み.迷い.心痛.怖れ.哀しさ.淋しさ.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.未熟さ…

大観

美しい地球を破壊する微生物と美しい地球を造形する微生物 大観とは、知性.理性(仏性)による大宇宙的な俯瞰であるとも言え.世界は自分を中心に動いているかの如く錯覚し、人間を特別な存在と捉える自我意識(感覚→記憶の残滓→感情→主観→自我)に支配される無明…

うつ病・精神分裂症

<これは商業的な客引きや宣伝を目的としているものではありません。> 今、躁鬱病やパニック障害や患者精神分裂症の方が増えていますが、正しい仏教を学び始めると鬱病やパニック障害などは治ります!と自信を込めて断言できます。既に沢山の方が治癒されて…

想 念

貴方が見て.聞いて.感じて.思考して.認識している世界とは貴方の想念が描き出した虚像に過ぎないのです。 物質的.化学的.電気的.心的なエネルギー体が五つの要素として集まって機能(現象)する時.私という想念を生じさせ、外界の現象との出会いにより世界とい…