真理の実現

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真理の実現
 
 
 
 
真理の実現は自らの知性(理性)と努力によって得られるものであり、神.仏や得体の知れない外的な力から.その従順な信心や意に添う行ないに対する果報として与えられるものではない。
「汝らは自らを燈明とし自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を依り処とせずに在れ、法(真理)を燈明とし法(真理)を依り処(精神的支柱)とし、他を拠り処とせすに在れ」
誰であれ自分を啓発し.克己し.妄迷な物事に捉われる事なく真理(真実.現実.事実.実相)を実現してゆく事が覚醒.超越.捨離.解放.自由への道である。

「逆風を 試練とぞ思う向上心
               苦難とぞ思う無明心」
如来品正師 多々方 路傍石
もし人類に生存を脅かす幾多の試練や、滅亡の危機、乗り越えがたい困難が無かったとしたら、我々は至高の人類としての今はなく、微生物かバクテリア・下等生物、畜生、猿類のまま未だに地を這って暮らしていたか、木の上を跳び回りながら生きていたか、洞穴暮らしをして居たかも知れない存在なのである。それらの困難や試練に立ち向かい幸いにも打ち勝ち乗り越える事が出来たが絶滅も又、有り得たのである。そして困難や試練とは大きければ大きい程、大いなる進化や発展という果報(恩恵)がもたらされる性質のものであり、幾多の困難や試練を経たからこそ至高なる人類まで辿り着く事が出来たとも言えるのであり、試練や困難を避けて通ろうとする者が受け取る果実は苦く少なく、試練や困難を前向きに捉え、知恵を絞り懸命に乗り越えた者の受け取る果実は甘露で大きいのである。
実際には神や仏同様に鳳凰や不死鳥など存在せず、それらの得体の知れない存在の差配により成されはしないのだが、好むと好まざるとに関わらず試練という火に飛び込む事により焼き尽くされ依り大いなる存在として復活する因果律に遵った縁起法則(自然法則)を投影し象徴するものこそ鳳凰.不死鳥とも言える鳳凰の法(ガルラの法則)と我れは呼ぶ…
幾多の試練や困難を、進歩・進化・発展・復活の縁と感謝し運良く打ち勝ち、乗り越え幸せに生きるも、運悪く打ち負かされ滅び去るも、此れ、心の方向性による縁起律に遵った必然であり、決して偶然の賜物ではないのです。
浅薄な人達の手を経て電報ゲームの如く「この一度きりの人生」という真実の言葉が「一度きりの人生」と似て非なる無知で反仏教的な観念に摩り替えられ、釈迦尊(ブッダ)の教えの根幹をなす継続の輪(輪廻)の否定へと繋げているが、
西洋的信仰宗教は、科学の進歩に随って否定され続けているが、真正な仏教は科学の進歩に随って証明され続けていて、不増不減しかり、エネルギーによりこの世界は成り立っている事実しかり、心的エネルギーが別の何かに成り続けてゆく継続運動性しかり、エネルギーのエントロピーによる劣化により連鎖する進化の流れを繰り返す継続の輪(輪廻)も証明されているにも関わらず、皆があの世へ行って成仏するなどという中国的・迷信的・信仰的・倒錯的な観念が、無明からの目覚め(覚醒)を阻んでいる。
しかし継続の輪(輪廻)という連鎖する激流の中を流れ続けなければならない厳然とした運動性(因縁)から逃れられはしない事実も遠からず科学の進歩により証明される事でしょう。

●自我に拘り、自我に囚われ、自我の欲求、感覚、感情、主観、執着を満たそうと自分の為に生き、他者への思い遣りに欠ける者は至高の存在として相応しくなく、善人は去り悪人を呼び集める、継続の輪(輪廻)に於いては捕食の関係性の下位より他の犠牲となり続ける縁を結ぶ事となる。
●自我強く、他を恨む心、他を憎む心、嫉妬心強く、画策し、他を許す心に欠け傷付ける事を好む、他者への慈悲に欠ける者は、今生で病み、継続の輪(輪廻)で虐げられる母胎へと宿る。
●生きていたい、存在していたいという煩悩(存在欲)と、自分だけはと願う自我(エゴ)による方向性は、進化の激流を繰り返す(進化の激流→分解層・微生物バクテリアから人類までの進化の道を再び辿りゆく。)
●困難や試練をドゥッカ(苦難、苦痛)と受け止め、運がない、不幸だ、不満だと後ろ向きな方向性は、消費する存在から、生産する存在(上位な微生物、菌類、草木類)から、継続の輪(輪廻)を繰り返す。
●無明(真実を照らし出す灯りがない状態)の闇の中を盲目的に彷徨うが如く生きた者は、日の下に眠り、闇の中に生きる性質の母胎に宿る。
●無明の闇に覆われ、自惚れ慢心して生きる者は足元を掬われる、継続の輪(輪廻)に於いて追われ続け狩られる母胎へと宿る。
●得体の知れない信仰などを生業とし、多くの愚かな民衆を誑かし惑わした者は、焦熱地獄に擬えられる深海の熱帯鉱床の微生物、地底の嫌気性微生物など生物進化の始まりから捕食の関係性の上に進化の激流を辿る。
●双子.三つ子と生まれても遺伝情報の継続により身体的形質の類似は有れど、生命体として宿る心的エネルギーの業(カルマ)の性質は因果律(縁起)に遵う。
故によく似た姿.形なのに全く違った性格となる。草食系・肉食系の双子が多いのも必然なのである。
●道化師や漫談家など他人の感情を刺激し、主観的な妄想を煽ることを生業とし
多くの感覚的、感情的な民衆の無明を深めさせた者は、畜生界の母胎へと宿る。
●争い事を好み闘争を繰り返し、また生業として生きる者は無過失であっても、今生で傷付き、阿修羅なる平安のない母胎へと宿る。
●他の生きものを犠牲として生きている存在であって、感謝と慈しみの心を忘れず無闇な殺生を慎まない者は、今生で不遇に見舞われ親しい人達は離散し、継続の輪(輪廻)に於いて捕食の関係性の逆順を歩む事となる。
●他の生き物の殺生を生業とするものは一層の功徳を積まねば地獄に擬えられる、分解層・微生物バクテリアなどに永く留まる事となる。
●他人を傷付け殺めた者は贖罪を果たそうが、継続の輪(輪廻)を進化の過程を捕食の関係性の上に辿り直す、贖罪を果たさぬ者は、無間地獄に擬えられる地底深くの微生物バクテリア類として永く留まる事となる。
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「地獄も極楽も我が心身の内にあり、
心身が感じる痛苦こそが地獄であり極楽であるが、如来の教えでは肉体の廃滅によっても心的なエネルギーは断滅せず継続してゆき、その帯びた心的エネルギーの性質・カルマ(形成力)により縁起律に遵って他の何かへと成り続けて行く理法が継続の輪(輪廻)なのである。」

〇慎み深く、身の丈を違えず、他を慈しむ者は、平穏と幸せに恵まれ、穏やかな境遇の母胎へと宿る。
〇無明の闇を超越し、自我の執着を滅し、真実(真理)に目覚め覚醒し、所有の次元の事物への渇望の炎が消え、あらゆる自爆から解き放たれ、自他の分別が消え自由を得た者には、最早この世に繋ぎ止める継続の輪は存在しない。絶対安定世界へ成仏する。
〇またその方向へと向かう者(菩薩道)は、光満ちたる世界に休息し後に、人として善なる母親の母胎、恵まれた境遇の母親の母胎に宿る。

是れ、縁起の理法であり摂理である。