因果律にみる輪廻と再生

因果律(縁起)とは、他の物事を条件付け、他の物事に条件付けられる相対的な依存関係性を解き明かした仏教思想の根幹を成す此の世界(現象世界)の天地自然の法則(物理法則.摂理)です。努力して内観している修行者に諸々の物事が因果関係の連鎖を成していることが顕わになったとき、太陽が天空を照らすかのように、悪魔の軍勢を打ち破って立つ。
(十二縁起の順逆を断滅しつくす)
[ドゥッカの滅尽] 疑念はすべて消える。

★全ての物事は他の存在及び現象を条件付けると同時に条件付けられている。     相対的な関係性の上に存在している。   ★全てが相対的で、相互依存の関係性の中に存在している以上、意志や意識でさえ自由に存在しえず、条件付けられ存在し他の生起を条件付けているのである。物事は因果律に随って生起し、生起するものは消滅する性質のものでもあり一つの消滅が、次の生起を条件付けている。            
因果律とは縁起の理法であり、輪廻転生を十二縁起で説くならば、        

①誕生(生成)を条件として、老死が条件付けられ生起する。             ☆誕生により老いて死ぬという法が条件付けられるのである。            ②老死を条件として、無知(無明)が条件付けられ生起する。                  
☆老死が条件付けられた事により無知が条件付けられるのです。         
③無知(無明)を条件として、行(欲求の動機)が条件付けられ生起する。      
☆無知(不安定性)を条件としてカルマ(業)が生起するのです。         
④行(業.カルマ)を条件として識(欲求の意識)が条件付けられ生起する。     
☆ここで条件付けているものは無知であり、生命(心的)エネルギー及び物質エネルギーの本質である(不安定性)という業・カルマが条件付けられる(万物が根源的に一源である根拠でもある)            
⑤識(欲求の意識)を条件として名色(欲求へと向かう精神・肉体的現象)が条件付けられ生起する。 
☆条件付けているのは無知である。    ⑥名色 (欲求へと向かう精神的肉体的現象)を条件として六処(六感官)が条件付けられ生起する☆煩悩(存在欲)であり、条件付けているのは無知である。           
⑦六処(六感官)を条件として、接触が条件付けられ生起する。          
☆条件付けているのは無知(不安定)です。
接触を条件として、感受が条件付けられ生起する。               
☆条件付けているのは無知(不安定)です。
⑨感受を条件として、渇望(渇愛)が条件付けられ生起する。           
☆条件付けているのは無知(不安定)です。
⑩渇望(渇愛)を条件として、執着が条件付けられ生起する。          
☆条件付けているのは無知(不安定)です。
⑪執着を条件として、有(所有欲・煩悩)が条件付けられ生起する。       
☆条件付けているのは無知(不安定性)です。⑫有(所有・煩悩)を条件として誕生(再生成)が条件付けられ生起する。      
☆つまりは輪廻という完結する輪状の連鎖を繰り返させ継続させる再生成を生起させる条件性は命を含む所有の次元への執着なのです
「これを逆に辿るのが、仏道修行であり涅槃への道であり、輪廻転生からの解脱である」
【消滅の過程・逆観】
①無知(無明)の完全な消滅を条件として、行(意図・カルマ)が消滅する。
☆行を生起させるのは、盲目的な無知(不安定性)による。
②行(業・カルマ・欲求の動機)の消滅を条件として意識(欲求の意識)が消滅する。 
☆識を生起させるのは、盲目的な無知による行である。
③識(欲求の意識)の消滅を条件として、名色(選択欲求)が消滅する。
☆名色を生起させるのは、盲目的な無知による意識である。
④名色(選択欲求)の消滅を条件として、六処(六感官)が消滅する。
☆六処を生起させるのは、盲目的な無知による名色である。
⑤六処(六感官)の消滅を条件として、接触が消滅する。
接触を生起させるのは、盲目的な無知による六処である。
接触の消滅を条件として、受(感知)が消滅する。
☆感知を生起させるのは、盲目的な無知による接触である。
⑦受(感知)の消滅を条件として、渇望(渇愛)が消滅する。
☆渇望を生起させるのは、盲目的な無知による感知である。
⑧渇望(渇愛)の消滅を条件として、執着が消滅する。
☆執着を生起させるのは、盲目的な無知による渇望である。
⑨執着の消滅を条件として、有(所有欲・生存欲)が消滅する。
☆煩悩を生起させるのは、盲目的な無知による執着である。
⑩有(煩悩)の消滅を条件として、生成(誕生)が消滅する。、
☆生成を生起させるのは、盲目的な無知による煩悩である。
⑪誕生の消滅を条件として老死が消滅する
☆老死を生起させるのは、盲目的な無知(無明)である。
誕生の消滅により老い死、悲嘆、痛みなどが消滅する。
⑫老死の消滅を条件として、無知(無明)が消滅する。
☆ドゥッカを乗り越え(超越)、光明(真理)を得る。
★無知(無明)を叡智(真理)にと入れ替えてゆく事により、盲目的な煩悩(生存欲・所有欲)を乗り越えてゆく(超越)
煩悩への盲目的な執着が消え⇒事物への盲目的な執着が消え⇒渇望・渇愛への盲目的な執着が消え⇒感知への盲目的な執着が消え⇒接触への盲目的な執着が消え⇒六感官への盲目的な執着が消え⇒選択・選別意識への盲目的な執着が消え⇒精神的・肉体的現象への盲目的な欲求の意識への執着が消え⇒欲求の動機への盲目的な執着が消え⇒業(カルマ)を生起させていた盲目的な意図的行為が消え⇒覚醒(目覚める)
★軽安(パッサッディ).禅定(サマティ)などの何かしらへの依存という条件により生起する快楽・悦楽・歓喜・平安などや神秘的な心的創造などから解き放たれ(開放・捨離)、あらゆる執着を乗り越え(超越)真理(叡智・智慧)を顕現(覚醒)させた処に、ニルバーナ(涅槃)という実存的な境地が存在するのです。   ●地中の微生物から、至高の存在である人間までの捕食の関係性(連鎖)と基本的な六界(地獄界・分解者⇒微生物類・菌類)
(餓鬼界・生産者⇒植物類)
(畜生界・一次消費者⇒草食動物類)
(修羅界・二次消費者⇒肉食動物類)
(人 界・雑食消費者⇒ 人 類 )
(天 界・休 息⇒人格者・積徳者・高質者・至高の境地)
(仏 界・解脱者⇒聖人・尊者・覚醒者・到達者)
●輪廻とは運動則(運動性)であり、熱であれ生物であれ精神であれ物質であれ全ては因果律に随って、高い処から低い処へと流れ、それを条件として低い処に在るものは高い処へと向かう循環により成り立っている。
【 縁起の理法 】         「吾、作る処にも非ず、また余人の作る処にも非ず、如来の世に出ずるも出でざるも、法則は常住なり。如来はこの法を自ら覚りて等正覚を成し、諸々の衆生の為に分別し開発顕示するのみなり」          
「全ての物事には固定的な実体など無い。」「全ては移ろいゆく時間と移ろいゆく空間による暫定的な出会いによる現象である。」故に、諸行は無常であり。諸法は非我なのであるが、大乗の龍樹が「故に空なり」と宣い、それに続く大乗僧達は空を標榜するのであるが、この現象世界は無常な世界なのであり、決して空なる世界では無いのであり、すべての関係性(条件)に依り生起し、関係性(条件)により消滅し、その消滅が次の生起を条件つけている縁起により存在している変化生滅する無常なる流転である空相なのである。この世界を途方もない大いなるエネルギーの流れとして見るならば、空なる領域(無色・非物質)に、源エネルギー結合が生じ、空間に物質(色)が生じる事により時間が生じ、源エネルギーは拡散し離合集散(バーン)し結合(結び目)により各種素粒子を生じ、素粒子は離合分散(バーン)し結合(結び目)により各種原子を生じ、原子は離合集散(バーン)し結合(結び目)により各種分子を生じ、分子は離合集散(バーン)し結合(結び目)により色形(物質)を生じている。全てが一時的な仮の姿であり固定定・普遍的な実体ではなく分子の離合集散による色形(物質)は現象として全ての関係性の上に離合集散(バーン)によりその色形を変化させてゆくのであり、空なる縁起法則による無常(常なく変化してゆく)なのものなのであり現象世界には源エネルギー状態で満ち満ちて在するもの、素粒子の状態で在するもの、原子の状態で在するもの、分子の状態で在するもの、色形(物質)の状態で在するもの、その何れもが関係性と無常なる流転の中で移り変わって行く(宇宙が輪廻している)縁起(えんぎ)の法は、釈迦牟尼の悟りの本質とも言われ、「縁起」のサンスクリット原語は、「プラティーティヤ・サムトパーダ」であり、これを解釈すると「一切のものは種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じる」により、縁起の法は「すべての事物は、そのもの自体で独立して存在しているのではなく他を原因・条件として(他に依存して、他との関係性により)生起している」と説いている。    
因果とは、縁が生起するか不生起によりて成立するが故に「因縁起果報」こそが因果の流れなのであり、「全ては移ろいゆく空間を因とし移ろいゆく時間を縁とし生起・不生起の働き(起)による暫定的な出会いによる現象(結果)であり、報い(業)を生ずる」のであるが世の中には神や仏や神秘的な力などの妄想的なものを介在させて、暫定的な現象である(結果)をそれらの摩訶不思議な力のよる選択と差別分別による確定的で運命的な物の如く捉えて説くものは愚者乃至悪意ある者達の手管に他ならない。       
縁起の理法は「過去の原因のために未来の結果がある」といった時間的な因果律に限った法則ではなく「時間と空間」を包括した全ての事物にかかわる現象世界の法則として解釈されている物質的・現象的な因果律である。そして精神的な因果律が成立する要因が、人格や心境などの心の状態なのであり感受を因となし想念により縁を生じ、生起・不生起という意思(行、衝動)により認識(果)を得て重要度、必要度、判断、見解などの(報)を積み上げてゆくのです。       
此れ在れば.彼れ在り、
此れ生ずれば.彼れ生ず。     
此れ無ければ.彼れなく、
此れ滅すれば、彼れ滅す。    
縁起の理法は「すべてのものは独立して存在せず、他を条件として生起しているのであり、すべてのものは、それを生起させている条件がなくなれば消滅すること」を意味するそして、縁起の理法に基づいて「すべてのものは、固定的な実体がない仮りの姿である=無常である」という結論が導き出される。これを大乗は空と表現しているのである。                                         また、「無自性」とは「自性がない」という意味であり、自性とは「それ自身で独立している実体、孤立的に存在する本体」をいう。そして、縁起の法に基づいて「すべての物質も現象も想念も実相は無自性であり縁起による暫定的な常ならざる現象である」    縁起の理法が言わんとするところをよく理解するために、私たちが「現実」と呼んでいるものが如何に縁起の法に基づいているかを考察してみよう。           
私たちが、日常において感じているものは、実際に外界に存在しているものを直接とらえたものではなく、私たちの独自の「五感」を通して入ってきた情報を脳で処理しそれを日常の知識や知性で解釈した物に過ぎず、それは「自分の五感と脳による情報処理」であって、「実際に外界に存在しているもの自体」ではないのである。  
よって、同じ対象を見ても、「人間の目」で見た場合と、「他の生き物の目」で見た場合は違って感じられるし「顕微鏡」「電子顕微鏡」で見た場合は大きく違う。      つまり生物が経験している「現実」というものは、一つしかないものではなく、それをとらえる生物の側の、さまざまな肉体的・精神的な条件などにより、さまざまに作り出されるものである。よって、「現実とは、生物の数だけ存在する」ということにもなるり、これを言い換えれば、「現実」とは、その「現実」を「観察する側」から独立した実体を有しておらず、「観察する側」が変わるとまったく変わってしまう、固定的な実体を有していないものなのだ。それは、「観察する側」(主体)と「観察される側」(客体)との相互関係により現れてくるものに他ならない。よって、縁起の法は、「すべての事物は相互に依存しあって存在し、独立した実体を有さない」と説かれるのである。       
また、これを理解すれば、「私たちが経験している世界の現実は、私たちの心の現れである」と説く仏教の思想(例えば唯識派の思想)もよく理解できるだろう。私たちがとらえる「現実」とは、私たちの「外」にあるのではなく、私たちの「五感と脳の中の情報処理」の結果として生じる効果にほかならないからである。            
もちろん、この場合でも、外界には、何もないというわけではない。そこには人間の認識能力では捕らえ切れない(人間の脳は流動的な変化生滅を固定的に捕らえようとしてしまう)物質的エネルギーと生命エネルギーの大いなる変化生滅の流れなのである。つまりは少なくとも、私たちが感じているものは「外界そのもの」ではなく心が捏造しているものであり、私たちが感じているようには、実際の外界は存在していないのである。  「人々が現実と呼んで、その中で泣いたり笑ったりしているこの世界は、貪り、瞋り、愚かさなどに汚された人間の心が、つくりだした幻影、夢、かげろうなのである。それなのに人間は、五感や思考がとらえる現実こそが、唯一の拠り所だと錯覚している。所が、現実とはもっと多層的であり、人間とは其々が違った心の在り様をしている者達、例えば動物や餓鬼や地獄の住人には、現実がまったくちがう相貌をしている。人にはただの河と見えるものが、餓鬼には膿の河に見えると説かれる如く、現実とは、それぞれの生物が、彼らの生命条件にあわせて自ら創りだしているものなのである。        
現実とは心が創りだすものであり、そうで在ってみれば今、貴方がいるこの場所も、三悪趣にいるものたちの心をもって見れば、たちどころに三悪趣の現実に変貌してしまう。同じように、ありきたりの人間の心に束縛されていれば、この場所が同時に浄土であることがわからない。」          
「私たちが五感でとらえ、日常的な知性でとらえているこの世界は、さまざまな姿、形、現象であふれている。この形やあらわれでつくりだされた現実を、私たちは確かな実体のあるものだと思いこんでいる。ところがその現実とは、水に映った月、幻影、蜃気楼のようなもので、実際その場にはなんの実体もないものなのです。        
 しかしこの虚像にすぎないものが、生き物たちをあざむく恐るべき力をふるっている。目に映る形、耳にきく音、鼻に感ずる匂い、舌の味覚、身体の触感などがあたえる感覚にひきずられ、実体のない現実のふるう幻影にほんろうされ、生き物たちは輪廻におちこんでしまう。それは出口のない鎖の輪のようなもので、生き物たちはその中で浮沈をくりかえしている。」    
十二縁起 (因果律
因果律とは、他の物事を条件付け、他の物事に条件付けられる相対的な依存関係性を解き明かした仏教思想の根幹を成す此の世界(現象世界)の天地自然の法則(物理法則・摂理)です。           
★全ての物事は他の存在及び現象を条件付けると同時に条件付けられている相対的な関係性の上に存在している。       
★全てが相対的で、相互依存の関係性の中に存在している以上、意志や意識でさえ自由に存在しえず、条件付けられ存在し他の生起を条件付けているのである。物事は縁起(関係性・繋がり・依存性)に随って生起し、生起するものは消滅する性質のものでもあり,一つの消滅が、次の生起を条件付けている。   ★因果律とは縁起の理法であり、輪廻転生を十二縁起で説くならば、        
①誕生(生成)を条件として、老死が条件付けられ生起する。          
★解説 誕生により老いて死ぬという法が条件付けられるのである。         ②老死を条件として、無知(無明)が条件付けられ生起する。          
★解説 老死が条件付けられる事により無知が条件付けられるのです。     
③無知(無明)を条件として、行(欲求の動機)が条件付けられ生起する。      ★解説 無知(不安定)を条件としてカルマが(業)生起するのです。         
④行(業・カルマ)を条件として、識(欲求の意識)が条件付けられ生起する。     
★解説 ここで条件付けているものは無知(不安定)である。          
⑤識(欲求の意識)を条件として、名色(欲求へと向かう精神的・肉体的現象)が 条件付けられ生起する。
★解説 条件付けているのは無知(無明)です⑥名色(欲求へと向かう精神的肉体的現象)を条件として、六処(六感官)が、条件付けられ生起する。 
★解説 条件付けているのは無知(無明)です⑦六処(六感官)を条件として、接触が条件付けられ生起する。        ★解説 条件付けているのは無知(無明)です。
接触を条件として、感受が条件付けられ生起する。              
★解説 条件付けているのは無知(無明)です⑨感受を条件として、渇望(渇愛)が条件付けられ生起する。          
★解説 条件付けているのは無知(無明)です⑩渇望(渇愛)を条件として、執着が条件付けられ生起する。          
★解説 条件付けているのは無知(不安定)です                    
⑪執着を条件として、有(所有欲・煩悩)が条件付けられ生起する。        
★解説 条件付けているのは無知(不安定)です。                    
⑫有(所有欲・煩悩)を条件として、誕生(再生成)が条件付けられ生起する。     
★つまりは輪廻という完結する輪状の連鎖を繰り返させ,継続させる再生成を生起させる条件は、生命を含む所有の次元への執着なのです。
これを逆に辿るのが仏道であり涅槃への道であり輪廻転生からの解脱なのである。軽安(パッサッディ)禅定(サマティ)などの何かしらに依存した条件により生起する快楽・悦楽・歓喜・平安などや神秘的な心的創造などから解き放たれ(開放・捨離)、あらゆる執着を乗り越え(超越)、真理(叡智・智慧)を顕現(覚醒)させた処に、ニルバーナ(涅槃)という実存的な境地が存在するのです。
   如来品正師
「無常が空を包括すれども、空が無常を包括することなし、理論が実践を包括できぬが如しなり、空なれば縁起は生起せず、無常により縁起は生起する。」          「常によく気を付けて、無常なる世界を空であると観ぜよ」 スッタニパータ