見解と真理

世の中では多くの人が、例え明らかな誤りであっても許容し看過する事が大人であり寛容な心で有るかの如く錯誤してしまうが、それは自浄作用を期待すればこその寛容であり「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」「過ちて改めざる、之を過ちと謂う」と言われるように自浄作用が働かず誤りや偏りを放置し現状に甘んじるものに対し、個人攻撃や誹謗や中傷でも独善的な見解や自惚れた主観や慢心や分別などではなく同慶へ向かわんが為、軌道修正を促し、依り良い進化の為に指摘する事が慈悲心であり、汚れ偏り歪んだものを端正し修正し改良する為の触媒とならんとする労苦を厭わない事が真に前向きな寛容なのである。 
人は見解により汚れ、真理の光により浄まり目覚める。        

見解や伝承の学問や戒律や誓いや思索や、これらに依存して他の説を蔑視して、自己の学説の断定に立って自惚れ「反対者は愚人である真理に達していない人である」と宣うが、ある一つの見解に固執し、他の見解を見下すことを、賢者はそれを囚われと呼ぶ。   世間で多くの人が優れていると見做す権威あるものを「最上なもの」と錯覚して諸々の見解に滞り、他のものは「劣っている」と妄信して、それ故に彼らは諸々の論争を超える事が出来ない。       
或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその見解をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。この様に彼らは異なった執見を抱いて論争をする。何故に諸々の道の人達は同一の事を語らないのであろうか。          
真理はひとつであって第二のものは存在しない。その真理を識ったひとは論争することがない筈なのに彼らは銘々に異なった真理を褒め称えている。それ故に諸々の道の人達は同一の事を語らないのであろうか。  
南伝大蔵経典より)                               人は権威や勢力や伝聞や伝統や先入観や思い込みに頼りたがり何かしらの権威に裏打ちされていないと不安に覚え、偏ったり誤ったりした世評や情報であっても妄信し鵜呑みしてしまい易く、無知(無明)である事に気付く事が出来ず主観的に権威を掲げる単なる見解でしかないものと真理とを混同し正しく選択することが出来ずに、単なる見解に過ぎないものを真理であるとさえ見誤ってしまうが真理は真理であり見解は見解でしかなく、世の中で真理だと錯覚している物事の大半は見解でしかなく決して真理などではない妄想的か観念的なものに過ぎない。         現代の情報が氾濫する現代社会においては尚更、多くの不確実な見解に過ぎない情報を以って真理の如く錯覚し誘導され気付くことが出来ず大切な自分という存在的な価値案や意義を自己破壊してしまい妄想的な価値感や意義や観念的な価値感や意義や偏った価値感や意義や得体の知れない価値感や意義に翻弄される多くの人々を産み出している。    妄想的なものの価値感に依って立つ(精神的支柱とする)人は、妄想的な生き方となり真理に到達する事が出来ない。       得体の知れないものの価値感に依って立つ(精神的支柱とする)人は、得体の知れない生き方となり真理に到達する事が出来ない。 偏ったものの価値感に依って立つ(精神的支柱)人は、偏った生き方となり真理へ到達する事が出来ない。           
真理による価値感に依って立つ(精神的支柱)人は、真理による生き方となり涅槃(ニルバーナ)へと到達し、目覚めて(覚醒)、輪廻の激しい流転から外れる事が出来る。真理や真実を知るには物事を主観を交えず集中し客観的に眺め調べ分析し理解し確証を得て初めて信実に近づいたと言えるのであり、10人居れば10通りの見解があり60億人いれば60通りの見解があるのだが、単なる見解に過ぎない学説や思想や教説や情報も、権威という笠を着込んでいると多くの人は惑わされ誑かされてしまう。  
そう言った権威の笠を着込んだ見解や学説や思想や教説や情報を真理であると錯覚して他の学説や思想や教説や情報を軽視し蔑視して、自分の見解に固執して人々は怒り、憎み合い、争っているのであるが、そこでは単なる見解に過ぎないものの絶対化さえ試みられ、対立や怒りや憎しみや争いを拡大させてゆき、見解の異なる人々を抹殺し排除しさえする事は歴史が証明している。      しかし真実によって人々が争う必要はなく例えば地球が丸いという真実で争う時間があれば客観的に眺め調べ分析し確証を得て理解すれば、争う種が無くなるのだから。単なる見解でしかないものを見解であると確かに知って、その見解がその人の見解である限りに於いては自由なものであり有益なものである事を確かに知って、その域を出て、単なる見解でしかない学説や思想や教説や情報を真理・真実であると主張するものには実証や検証や証明が伴なわなければならない事を促すべきである。  
まして情報が氾濫する社会において真贋の区別も覚束ない未熟な人々が、単なる情報に振り回され、単に記憶域に蓄積しただけの情報を以って知識だと錯覚し情報に依存し情報量の習得により一時的安定を得て知ったつもりになって自惚れているが、その実何も知らない無知(無明)な人でしかない 知識とは思考域で「知る」ことを心(潜在域)が理解し「識る」ことで知識なのであり、思考域や記憶域に蓄積している情報により知ったつもりに成っているだけでしかなく「他人の牛を数えているだけで、自分には何の役にも立たないもの」でしかなく、況して頭の中を情報のゴミ屋敷化させてしまい曖昧模糊で不確実な情報に振り回されたり縛られたりして苦悩を自ら造りだしたりしている。     
思考域(頭)が知っているという事は「理解している・解っている」のではなく「知っているつもりになっている・解ったつもりになっている」だけでしかなく、心が本当に識り理解し納得し受け入れるのは実は容易なことではなく見解・生存・所有について主観を交えず客観的に冷静に集中し内観し、眺め(観察)検証し立証し確証を得てゆくと、自分という固定的・永遠的・実存的頭が知るとは本当に物事を理解したとは言えず、知ったつもり理解したつもりにな本体的実体など無いことを識り(魂・霊魂・霊体の否定)、自分の所蔵するあらゆる見解は成り立たず、生存の欲への執着や所有の欲への執着も「無常」の発見により成り立たないことを識るだろう。

得体の知れない神や仏や自然法則(物理法則)に逆らう超越的な力や倒錯的な能力などが人間の持つ本質的な本能による心的投射に過ぎず、妄想されたものでしかなく原初的な神や仏とは内在的なものであることを識るだろう
例えば「人間は必ず死ぬ」という情報は誰でも知っていて知識として理解しているつもりになって居るが、真に識っていて理解出来ているのならば「死」という土壇場に直面したときに何も苦しみ悩み悔い怖れ狼狽え呆然となったり悲しむ事もない当然な事でしかないのに、現実は全く違っているのも単なる情報を知っているだけで識のない(知識)でしかなく、知ったつもり理解しているつもりになっているだけなのであるが、物事は直面しなければ識る事も真に理解する事も出来ない訳ではなく心(潜在域)に理解させる方法は沢山存在し、真に理解した人間は所有の次元に誑かされ大切な人生の時間を空虚に費やしてしまう愚行は冒さないもので、自分という存在の次元の価値や意義の向上・進歩に余念がないものなのである。 前者を無知(無明)な人・寝呆けた人と呼び、後者を目覚めた人・光明の学を得た人と呼ぶ。
人は六処(眼耳鼻舌身意)と六竟(色声香味触法)との接触により意志がそれと向かうとき、五集合要素(五蘊)が感受(受蘊)し認識(想蘊)し意志の衝動(行蘊)を生じ意識(識蘊)を生じさせているが、それはサンニャサンカーラ(想行蘊)の過去の記憶の残滓や既成概念と結合や比較や入れ換え作業などにより五蘊に生じた意識(識蘊)の情報(データ)を自分の都合により捏造し概念を造り出し蓄積しているのである。 その捏造された概念により生じさせた感覚により感情を生じさせ主観を生みだし新たな見解を造り出していて、在るがままに見たり聞いたり感じたりする事が、実は人間は不得意なのであり対象物を在るがままには決して捉えてはいないのである。しかし人はそんな偏った見解であっても強く執着していて自分の存在にとって重要な存在を保障する人生観と錯覚し、自分という存在の根拠とさえ錯覚し哲学とさえ錯覚しているので、人は自分の見解を否定される事は自分という存在を否定されたと捉えて、怒ったり時には争い憎み恨むほど自分の見解に固執してしまうのであるが、それが「自分(自説)が絶対に正しい。」と言い切れる根拠も検証も実証も立証ない自我意識(エゴ)による感情的な主観でしかない事に気付く必要がある。    それは理性という客観的な理解認識能力により現れる智慧と叡智とは真理の発見によりもたらされるものであり、真理を懐に抱く人は毀誉褒貶されても争うことも怒ることも憎むことなどなく、それは地球は丸いという真理において否定する者が居たとしても怒りも憎みもなく唯だ憐れみだけが在るように。  私見とは、自我意識により先入観・感情・情報・主観的固定概念・思い込み・錯覚などにより汚され、権威や地位や称号や名声や歴史や勢力や形而上学的な空論に惑わされた人であり現実や事実を在りのままに受け入れられない見識をいう。また他者の主張することや他説を過剰に気にする者は、自ら束縛をひとつ増やすだけでしかなく「他人の牛を幾ら数えても自分の牛にはならない」のであり頭の中にゴミ屋敷を営々と築いてゆくようなものであり苦しみと迷いと惑いの連鎖(輪廻)を捨て去り(捨離)抜け出し(脱出)解き放ち(解放)乗り越え(超越)目覚める(覚醒)することを目指しながらがも更に苦しみと迷いと惑いへと陥り無知(無明)を増幅させてゆく。(不満・嫉妬・怨憎を生む)           先ず見解の汚れを汚れだと明確に気付き捨て去ってゆくこと、所有の欲への執着の汚れを汚れだと明確に気付き捨て去ってゆくこと、生存の欲への執着の汚れを汚れだと明確に気付き捨て去ってゆくことが仏道であり、無知(無明)の闇の中で固定的で永遠的で実存的な自分という幻想を造りだすのも見解の汚れ、所有への執着の汚れ、生存への執着の汚れによって造りだされるのであり、たとえば自分は日本人であるという見解に捕らわれている人には真に外国人を理解することなど出来ず、違った環境・文化・習慣・容姿・言語・生活により分別しているのであるが、同じ人間なのである。自分を人間であるという見解に捕らわれている人には真に他の生物を理解することなど出来ず、同じ物質的材料で形成され・同じ道理で存在し・同じ本質で生きる(不安定の安定化)同じ生命なのである。自分を生命であるという見解に捕らわれている人には真に存在を理解することなど出来ず、物質も生命も同じ材料・同じ本質・同じ摂理(因果律・物理法則)で存在し、生命エネルギー(心的衛エネルギー)との五集合要素(五蘊という結び目)を形成しているか否かであり、この無常なる移ろい行く現象世界(大宇宙)の中での相互関係性という縁起によって暫定的に現れた相(あらわれ)に過ぎない

自ら、不満を生じさせる事なく、他者の私見はひとつの意見として参考として、過剰に気にする事なく、真理は自ら確証を得るべく、平安を保ち怒りや貪り、執着や身口意の悪行を断じ、在りのままに在り、今の瞬間に気付き、あらゆる欲(金財欲、権力欲、地位欲、名誉欲、家族欲、存在欲(生存欲)・・・への「執着」から離欲して清浄となった心には己を呪縛するものは最早、存在しない。自らを縛り付ける「見解の汚れ」「生存欲への執着の汚れ」「所有欲への執着の汚れ」を捨て去り(捨離)乗り越え(超越)目覚めよ(覚醒) 「智慧は現れ、真理は自ずと顕現する」仏教とは言語領域では語り切れない心の領域を説くものであり、例えるならば「味」というものを言語領域で語り尽すことなど出来ず「味」とは語るものではなく味わうものであり感じるものなのであり、仏教も積み上げた知識を披露したり解説したり分析するものではなく、叡智により無知(無明)の闇を晴らし既に具する平安・悦楽・歓喜・安堵や幸せに気付いて、味わうものであり感じるものなのである。