見解による汚れ

「人は見解によって汚れ、理智によって清まる」
単なる知識や情報などの蓄積は、ドゥッカ(苦・痛み)の滅却には何の役にも立たず、却って知識や情報により迷いや悩みを深めてゆく。
知識や情報とは、この世界の全ての関係性・相対性の中の一部分を切り取ってフォーカスを当てて分析・分別しているだけであり、要素ではあるが真実も実相も原因も結果も、その中には無く忘筌なものであり、木を語る事はできても森を語る事の出来ないものなのである。
世の中は主観や論理的類推や偏った観念に基づく見解で溢れ、凡そ真理を語っているものは少ない。
人間が成長してゆく為には知識や情報は欠かせないものである事は確かな事であるが、先人の知識や情報が全て正しいと思い込んではならない。
知識や情報は知的好奇心を満足させるためでも、他人にひけらかす為のものでもなく、自分に役に立てるためのものであり、単なる知識や情報の収集は、頭の中に余分なゴミ屋敷をせっせと造っているような面があり、現代社会のように知識と情報とが溢れ、しかも安易に収集しやすい環境下においては、尚更に警戒し自覚しないと染脳(洗脳)されたり誘導されたり思い違いを起こしたり欲深くなったりして精神的な問題や心の病により苦しむ人々を増やして行くのです。
古来から人は皆、幸せになりたくて幸せを求めて生きてきました。
そしてその為に所有の次元の事物(金財・物欲・地位・名誉・権力・勢力・評価・権威など)が、それを叶えてくれると錯覚し、今日の物質文明を築いてきましたが、便利になった事は事実ですが、では本当に人々が幸せになったのかは疑問であり、却って苦しむ人・悩める人・悲しむ人・迷う人・戸惑う人・充ち足りない人を増やして来たのではないでしょうか。
所有の次元の事物では人は幸せにはなれない事は、既に2500年も昔に釈迦尊(仏陀)により、解き明かされている事柄なのですが、主観的な自我(エゴ)に基づいた執着や欲や貪りを奨励し扇動し洗脳(染脳)し主導してきた物質文明は真逆な論理や倒錯的な観念を植え付け発展して来た事実は否定できず、それが為に世界には争い・戦争・惨禍・破壊・殺戮・蹂躙・差別などが絶える事なく続いて、それを愛だ平和だ幸福だ進歩だ共存だ友好だ建設だ発展だと美辞麗句を並べ立てて覆い隠し錯覚させ幻惑させているのではないでしょうか。
論理的思考による論理的な認識や理解とは、物事が真に理解できたわけではなく、何が言いたいのかが理解できただけであったり、理解したつもりになっただけであり、他人の牛の数を、いくら数えても、その頭数や種類を理解認識は出来るが、自分の牛にはならないのである。
「百聞は一見に如かず」と言われるように、旨い不味いも実際に食べてみなければ真に理解することは出来ないのである。
論理的な思考に埋没してしまい実践が伴わず、単なる推測に過ぎない想像や妄想上の不毛な空理空論や形而上学的観念に陥ったり、無知(無明)な大衆の主観的興味を刺激する大衆迎合的な思想の荒野に一時の安堵を求めても何の問題の解決にもならず、貴重な時間や金財を費やし不必要に心の平穏を乱し、欲を深め、更なるドゥッカの中を生きてゆく多くの人々に対し、慈悲と憐憫と敬愛により真の幸せ、それも常しえの幸せを説いているのが真正な仏教なのである。
「厭離すれば執着や貪りの心はなくなり、
 心は束縛から解放され堅固な自由で平安な悦楽を手に入れる。」
歴史や権威や風格や勢力、伝説を鵜呑みにしてはならない。
経典を、そのまま信じてはならない。
伝統が全て正しいと思い込んではならない。
如何に論理的な言葉であろうと、哲理を語っていようとも例をあげて証明されようと、そのまますべて鵜呑みにしてはならない。
自分の主観と合致していようと権威ある人の言葉であろうと、それが如来の言葉であっても安易に正しいと信じてはならない。
自ら確かめることなく受け入れることを妄信という、本当の確証を得て信じることを正信という。
人は皆、「仏の種」を具しています。
それは日本の伝統仏教で「仏性」として捉える良心面の仏性と悪心面の鬼性という両極的な仏にも鬼にもなれる不安定な心の事ではなく、人は皆、因果律(縁起)に遵って無知(無明)という盲目的な闇を条件付けられて生まれています。
だから皆、自分は何の為に生まれて来たのか?どう生きれば良いのか?など真の生きる意味も目的も判らぬままに生きて行きます。
そして人は無明の中を盲目的に手探りで生きる時、自己防衛・自己保存の為に堅い殻を拵えてそれに依存する事により自分を守っているのです。
一つには根深い自己防衛・自己保存の投影として神や仏を妄想し依存し安心・安全・保護・恩恵を欲します。
そして嗜好・性格・思い込み・固定観念・既成概念・常識感・伝統・歴史・迷信・通説・論評・伝聞・偏った見解・錯覚・妄想・倒錯・洗脳(染脳)などを情報源とした、主観的な自我意識に基づいた主義・主張・観念・見解・個性・習慣・信念・アイデンティティ・哲学・思想という堅い殻を形成し自分を守っています。
植物の種も、自己保存の為に芽を出すまでは堅い殻に包まれ守られています。しかし芽を出す時にはその堅い殻を捨て去り脱落させます。芽吹くためには、その堅い殻を打ち破らなければ芽吹けないのであり、殻を捨離して初めて大輪の華を咲かせる事が出来るのです。
しかしそれは否定する事ではありません。
もし心がそれらの本質を理解も合点も見出せないままに無闇に否定する事は、裏面に肯定を合わせ持っている状態であり、それは迷いを深め人を依り盲目的にさせるだけです。
それぞれの堅い殻の本質を客観的・理性的・集中的に理解した瞬間に、自分を捉え拘らせ惑わしていたそれらは消滅する性質のものなのです。
「仏の種」も全く同じ摂理の下に皆が具し堅い殻で無明で未熟な自分を守ります。しかし未熟で無知(無明)から目覚め(覚醒)、乗り越え(超越)、解き放たれて(解放)され大輪の華(涅槃)を咲かせる為に芽を出すためには、その堅い殻を打破し捨離しなければなりません。
覚醒し、捨離し、超越し、解放され自由な境地(ニルバーナ) 真理は如実に顕現するのです。