痛 み

苦しみとは痛みである・・
悩みとは痛みである・・
不満とは痛みである・・
哀しみとは痛みである・・
恐れとは痛みである・・
悔やみとは痛みである・・
迷いとは痛みである・・
渇きとは痛みである・・
失望とは痛みである・・
生老病死いずれも痛みである・・
愛別離苦とは痛みである・・
求不得苦とは痛みである・・
怨憎会苦とは痛みである・・
五蘊盛苦とは痛みである・・
この人は三面のドゥッカ(苦・痛み)に痛み苦しんでいる。普通の意味での苦しみ、物事の移ろいによる苦しみ、そして五結合要素(五蘊)の条件による生起(縁起)による苦しみ、ドゥッカとは苦しみであり、悩みであり、不満であり、怖れであり、脆さであり、弱さであり、哀しみであり、空虚さであり、無知であり、未熟さであり、愚かさであり、悔いであり、欲であるが本質的には全てが「痛み」なのであり、刺激とは痛みに他ならず、人は身体に痛み心に痛んでいる。そして刺激による痛みの負担量が極微か少ない状態か痛みから解放された一時的状態を快感とか楽と捉えているだけであり本質的には痛みなのであり、痛みの負担量を感覚器官がどう捉えるか次第であり、本質的な痛みが快楽の姿をとって現れているか痛みの姿をとって現れているかなのであり、その負担量を増してゆけば痛みである事を実感するのである。それは毒物を希釈し身体への負担量を減じたものを薬と呼んでいるが如く。
そして所有の次元の事物(金財・物品・地位・名誉・称号・勢力・権力・権威・評価・承認・出自・歴史・情報・意識・・・)などは人間の生活における便宜上や付随物(手段)として存在するものなのだが、社会(俗世)に於いて懸命に生きている或る意味に於いて[痛い痛い病]を抱える患者は無知(無明)の闇に覆われ盲目的に生きてゆきながら[痛い痛い病]を完治させる方法が解らず、たとえ一時凌ぎであっても痛み止め(鎮痛剤)を捜し求め、例えそれが一時的なものでしかないと解っていても兎に角、痛みを止め安らぐ時間を求めて彷徨っている。それは正に凡愚な人が正しき道(真の安らぎ)を求めずにその場その場の暖かさを求め続けるが如く、そんな心の弱さや隙間に得体の知れない神仏や超越的な力を騙る信仰が入り込んだり、所有の次元の事物という一時凌ぎの痛み止め(鎮痛剤)により取り合えず快感や楽を味わうのであるが、残念ながら所有の次元の事物による鎮痛効果も常用性により次第に麻痺してゆき鎮痛作用が弱まってしまう為に[痛い痛い病]を抱える患者は所有の次元の事物に魅入られ執着してゆくが、それは正に毒矢に当たったまま毒に侵食され続けながら幸せを主張している姿であり、先ず毒矢を抜き解毒して行かなければ毒による痛みの中で死んでゆく事を意味し、この[痛い痛い病]とは放置していては完治することの決してない生まれながらの業病であり、痛み止め(鎮痛剤)の量を増やしながら心身へ更なる負担を掛けてゆくと[痛い痛い病]を抱える患者は、その痛みによる後遺症として貪瞋痴の三毒を分泌させてゆき、この三毒の影響により心は次第に欲深く非情な阿修羅の境地に至り、餓鬼道を彷徨う餓鬼とも成ってゆき、身体にその症状が現れてくると瞋恚により他人を傷付けたり殺したり、貪りにより他人を蹴落としたり、口に三毒が発現すると毎日を愚痴と不満を言いながら暮らす事になるのであり、そんな状態の特効薬が「足るを知る心(知足)」なのであり、自我意識(エゴ)を捨て去ってゆく事なのです。
この現代社会に蔓延する[痛い痛い病]を抱える患者を完治させる為には先ずその本当の原因を理解しなければ治りません。
因果律(縁起)で解説すると難解になるので簡略すると、人は誕生により抱えた無知(無明)の闇により盲目的な意志に任せて生きている状態なのだと言え、それは盲目による本質的な不安定状態を安定化させようと賢明に生きている事でもあり「盲目的な意志により現れる表象の世界」に居るのです。不安定状態(衝動)を安定化させようと渇き(渇愛)の意思が生じ、渇き(渇愛)の意思が所有の次元の事物に必要以上に執着させてゆき、主観的な自我意識(エゴ)を強めてゆきます。(自分の[痛い痛い病]の痛みを消すために自分の事しか考えられなくなり、自分がこの痛みから逃れらる為に手段を選ばなくなってゆくのです。)
生きてゆく道は二つに一つであり、生まれつき罹患している[痛い痛い病]を抱えながら次第に摂取量が増えて行こうが痛み止め(鎮痛剤)を飲み続け生きてゆくか、原因を理解し[痛い痛い病]を完治させ痛み止め(鎮痛剤)への執着から解放され、痛みとオサラバした悦楽と平安と安堵な静逸の中を生きて行くかなのです。
この縁起(関係性)によって引き起こされる[痛い痛い病]を抱えながらの闘病生活を世俗的な人生と呼び、完治させた生活を涅槃(ニルバーナ)と呼ぶのです。
では完治させる方法を掻い摘んで説明(インフォームドコンセント)すると、一つに八正道による思考方法を実践してゆく事であり、二つに所有の次元に誑かされず真理(無常法)を心が理解する事であり三つに存在の次元の価値や意義を育成してゆく心掛けなのです。(心を浄めてゆく、徳を積んでゆく、人としての質(クオリティ)を高めてゆく、人としての格を磨いてゆく)ことで無知(無明)の闇が晴れてゆき、真理が理解できてゆき、自惚れ慢心に気付くことで誰でもが学んでゆく事が出来、達成する事が可能なのです。
如来は俗世のそんな[痛い痛い病」を抱えながら懸命に生きる人達を憐れみ、完治させ解放される事を願い、辻に立つものなのです。
衆生よ、心を浄めたもう。
衆生よ、徳を積みたもう。
衆生よ、質を高めたもう。
衆生よ、格を磨きたもう。
衆生よ、自縛を解きたもう。
衆生よ、真理を覚りたもう。
是れ諸仏の教えなり。