八正道(自戒の章)

八正道(自戒の章)
心を浄化する修養の実践
(業.カルマ=行為)
修養者は正しい修養により[戒]から[定].[定]から[慧]に至り一人の菩薩大士となる
悦楽の中に修養の成果を味わい、生きる事の素晴らしさを享受し、命の意味を悟るだろう。智慧の修養は甘美な果実を収穫する
自分の心に注意を向ければ苦悩の本当の原因が理解できる
心が感覚的.感情的.思考.認識などの働きをした時に、自他の為にならない振る舞いをし煩悩や苦しみを惹き起こす事がある
[戒]により心に刺激が入り込まぬよう感官を見張り、同時に心を不安定にする行いを慎む。衛兵が城門を守るが如く
[戒]によって心が安定したならば、正しい精神集中[定]により想念を一点に留めて雑念を芽生えさせない、芽生える隙を与えない
[定]により心は澄んだ水面の如く一切を映し出す。命の実相を観じ、大宇宙の法則を理解し、全てを在るがままに受け入れる

3.正語(正しい言葉)
サンマーワッチャー
 正しい語を発することは、悟りへの正しい道である。         
☆嘘偽り、人を傷つけるようなことを話さず、真実のみを愛を持って述べる。(事実を意図的に変えて他人に精神的.肉体的ダメージを与える悪意を含む物)
☆無益な言葉を語らず、有益な言葉がない場合は貴い沈黙を貫く      
☆四摂心に通じる愛語を心掛ける        
☆悪意ある言葉は信頼を失う「口は禍いの元」と言われる様に言動に注意を払う。一寸した不注意な発言により他人から恨みを買ったり他人を怒らせたりしないように誠実な言葉を語る(言葉を慎む.言葉を正す)
☆人はこれらの無益な言葉への慎みを 育成してゆくと自然に真実を語るようになり友好的で慈悲深い言葉・優しい言葉・意味深い言葉・品格ある言葉・役にたつ言葉を語るようになってゆく   ☆正語(正しい言葉).正業(正しい行い).正命(正しい生活)により戒律(慈しみに基づいた倫理道徳的行動)が育成されてゆく
☆語気が穏やかな者は穏やかな日々を築き.語気が荒いものは荒い日々を築く  
☆語気が柔らかい言語は平和な社会を築き語気が荒い言語は好戦的な社会を築く
        
4.正業(正しい行ない)
サンマーカンマンタ
 正しい行為をなすことは、悟りへの正しい道である。           倫理・道義・徳目・礼儀・思いやり・状況判断に基づく正しい行ない     ●五 戒 (仏教において女性・男性とを問わず、在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒のこと)                        
①不殺生戒(prāṇātipātāt-prativirataḥ)
生き物を故意に殺してはならない。  ☆人間とは他の生物達の犠牲の上に存在しているのであり人間の生存の為の犠牲となった生き物に感謝し無益な殺生を行なわない 
②不偸盗戒(adattādānāt-prativirataḥ)他人のものを故意に盗んではいけない
☆悪意を以って他人の知識・学説・理論・言葉などを、自分の知識・学説・理論・言葉だとするのも盗みである  
☆他人が受けるべき恩恵・賞賛・栄誉を偽りを図って利得するのも盗みである
☆他人を煩わせたり、人の貴重な時間を浪費させる行為も時間の盗みである 
☆労働時間において怠けるのも時間の盗みである             
☆賄賂を受け取ることも盗みである    
☆日本仏教という新仏教の各宗派に於いて問題となるのが、八正道(戒定智の三学)を真摯に育成した僧侶ならば自戒すべき高額な戒名問題がある。
日本人の宗教観に付け込み仏教思想を貶め歪めている詐欺と嘘と偽り盗みの行為でありキリスト教に於ける免罪符に他ならずキリスト教では自浄作用が働いて破棄できたものが日本仏教界では既得権益への執着を捨て去る事が出来ないでいる。(戒名・僧籍の類は所有の次元的価値でしかなく輪廻を条件付ける「業」という存在の次元的価値では決してない
③不邪婬戒
(kāma-mithyācārāt-prativirata)
不道徳な性行為を行ってはならない       ☆浮気・重婚・同姓愛・生殖器官以外での性交・自慰行為など      
④不妄語戒
(mṛṣāvādāt prativirataḥ)
嘘をついてはいけない。       嘘.虚言.妄言.二枚舌.悪口.誹謗中傷など⑤不飲酒戒(surāmaireya-madyapramāda-sthānāt prativirataḥ)酒などを飲んではいけない
☆初期には含まれて居なかった戒律だが釈迦尊(ブッダ)が弟子や信者の中に飲酒などに酩酊による能力の減退や問題行動などを目の当たりされ特段に加えられた仏教に於ける「絶対戒律」である。
生存には何の益もない無益な愛着である
●出家者は具足戒(波羅提木叉パ-ティモッカの戒)二百二十七戒      
☆他人に余計な迷惑を掛けない生き方をする
☆同時に他の人々が正しく安らかで徳を積む行ないへと向かうよう助けてゆく ☆修行における托鉢や辻立ちも生活の糧を得ると同時に徳を積ませる事を目的としている☆釈迦尊(ブッダ)「施与は水を必要としない心の沐浴である。」   ☆心を浄め、徳を積み、人格を磨き、人の質を高め、真理に気付きなさい。
釈迦尊(ブッダ)在世当時は食施が中心であったが釈迦尊(ブッダ)の死因が食中毒ないし毒殺説まであり、仏教国においても食施ないし金施にて施与を受ける。(現代社会の習俗も無縁ではない。)  ●道徳・的倫理的で尊敬に値し安らかな行動と徳を積んでゆく誠実で慎みのある生き方をして行きなさい。それこそが真の幸福への近道なのである

5.正 命(正しい生活・正しい生き方) サンマーアージーヴァ
正しい生活を行うことは、悟りへの正しい道である。          
☆他人の迷惑になるような仕事をせず、皆の役にたつような仕事をする。  
☆詐欺師・武器商人・屠殺人・麻薬密売人・非合法組織など他者を害する事で生計を立てる事を慎み他者を傷付ける事も苦しめる事もなく尊敬される仕事につく●僧侶(沙門・比丘)の邪食について            ☆僧侶の仕事とは自分の為に生きる事から離れて民衆の為に生きる事である        ☆釈迦尊(ブッダ)が歩まれたように歩み釈迦尊(ブッダ)が実践なされたように実践し釈迦尊(ブッダ) が生きられたように生きる
☆邪食について釈迦尊(ブッダ)は「唱えて得たもので食べてはならない。」と明確に仰っているが、これは釈迦尊(ブッダ)の深淵なる洞察力により時代や環境による変化により「民衆の為」の生き方も当然に変化せざるを得ない処が在ることを予見された御言葉でも在り、その意味する処は「報酬を得てはならない」と仰るのであり他人の為に奔走する事(方口)も経文を唱える事も吉凶を占う事(維口)を頼まれる事も天文天意を計る事(仰口)を頼まれる事も農耕を行なわなければならない事(下口)もあるかもしれないが、そこに発生する収益・報酬・収穫により自分達の糊口や生活を立てはならず、困窮する他者の為の慈悲喜捨として使い自分達の糊口や生活は民衆に阿ることなく諂わず請わない托鉢や辻立ちなどにより暮らしなさいと仰っるのも決して欠かす事の出来ない大事な修養法であるからに他ならず、施与(布施)をした人への功徳の祝福と感謝の為に唱える事は成すべき行為であり、布施と宣いながらも明らかに報酬として受け取る相場があり受け取る事を前提に唱える供養や法要は明らかに報酬でしかなく困窮する他者の為に使わなくてはならない。 ☆報酬を自分達の都合で布施と宣い、それによって生活を立てる行為は明らかに不偸盗を犯している。         
●実践を伴なわず原則論を振り翳す主観的で浅薄な忘筌(ぼうせん)な人は、仏教が現実主義に基づく教えである事に思い当たる事ができない      
☆托鉢や辻立ちは昼までのもので午後は立ってはならない       
釈迦尊(ブッダ)は「貧困に喘いで幸福や命の素晴らしさを主張するなど出来ない」と仰り、昼までとは目安(枝葉)であり慎ましいながらも貧困に陥らない生活を立てる為に昼時を越えてしまう事は社会情勢によっては有り得る事である。(流石に夕夜間の托鉢や辻立ちは異常であり[学][修養]が疎かになってしまう) ☆僧侶(沙門・比丘)とは到達者(目覚めた人)を除き、全てが修行者である  
☆本来は到達者(目覚めた人)さえ白硅さらに磨くべく修行や托鉢を欠かさない ☆しかし世間を見渡せば凡そ達成者など見当たらず凡愚が高貴なる称号と金襴に身を包み能書きを垂れながら、修行者の列を離れ盲目的な者達の系譜を継いでいる現実は嘆かわしい限りである