八正道(智慧の章)

八正道(戒定慧)  
アリヤ・アッタンギカ・マッガ
「もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば或いはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであれば、それは煩悩に捕らわれている人が正しい道以外の方法によっても清められる事になるであろう。
このように語る者を偏見ある者と呼ぶ
真のバラモンは正しい道の他には見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれかによっても清らかになるとは説かない。
禍福に汚されることなく自我を捨て、この世に於いて禍福の因をつくることがない者は平安である。
仏道修行はその修行者の数に比べて到達者(目覚め覚醒)が実に少ない道であると言え、その理由の一つに忘筌(ぼうせん)に陥ってしまい、言葉や文字面に囚われたり枝葉に拘ってめ真の目的を見失ってしまい、見解に汚れたり情報や知識の収集や教説の分析に拘り学者や評論家はだしの論理形成に終始してしまい、心が理解する事が出来ない実を結ばない花の如き人達。その理由の二つ目に、宗教と信仰(妄想的信仰)とが本質的には真逆な性質と方向性である事が理解出来ず信仰(妄想的信仰)に囚われてゆく人達。その理由の三つ目に俗世の人が向かう方向性である本質的には虚無(空)である所有の次元(所有的価値感や意義)と出家(出俗世)者が向かう方向性である実存的な存在の次元(存在的価値感や意義)とが自覚出来ずに、仏道修行者で在りながら自分に捉われ拘り所有の次元の事物に誑かされてゆく人達。その理由の四つ目に仏道修行に精進出来ずに脱落してゆく人達。その理由の五つ目に煩悩の衝動への執着から離れられずに外界に捉われ眼識・耳識・鼻識・舌識・触識・意識により観察し分析し検証し理解しようと努め、却って迷いや邪見へと陥ってしまう人達。その理由の六つ目に釈迦尊(ブッダ)が明確に仰っているように中道の実践により「悦楽の中で智慧の悟り(大悟)が得られる」ものである事が理解できず偏ったり間違った実践により苦や痛みしか伴わず脱落してゆく人達(貧困や苦しみの中から命の素晴らしさを実感する事は出来ない)、その理由の七つ目に親の跡を継いだり世俗的な職業として仏門を選択し仏道が理解できない人達(意味不明な非僧非俗に立脚したり先達が歪めてしまった物事を修正する信念もない)     ☆仏道とは決して世俗と物理的に隔離した道ではなく、すべての物事が内包する所有の次元的価値感や意義に惑わされたり捉われたり魅入られたりして、自我(自己中心的なエゴ)や自利や欲心や執着に縛られ、それによりドゥッカ(苦悩・不満・不安定・怖れ・迷い・怒り・哀しみ・恨み辛み・貪り・空しさなど)を自ら造り出してしまう所有の次元への方向性を、物事が同時に内包する存在の次元的価値感や意義である本質的な目的・人柄・心の浄化・寛容な精神・徳性・人の質・人格・境地・知性・人間的進化の育成へと方向を転換してゆく為の宗となる教え(宗教)であり、権威主義神秘主義(カルト)や迷信的な習俗や盲迷な観念論を全く否定した現実主義的な教えであり、信じる事(妄信)を否定した唯一の宗教であると言え、自ら客観的に眺め調べ分析し知る事(正信)を目指し、観察し分析し検証し確証を得られない物事については権威に裏打ちされていようが金看板があろうが地位ある誰が語ろうが何処に示されて居ようが仮令それが如来の言葉であっても決して鵜呑みにして妄信してはならないと説かれているのであり、敢て信仰として捉えるならば真理(無常法)への信仰であって、真理以外の何物をも拠り処としてはならないと説かれるのである。そして中道を実現させる八正道(戒定慧)の実践により俗世とか出世間という隔てなく自分という存在を真に貴め、真の幸福を実現させてゆく為の八正道であり、現代社会を見渡せば自分に拘り時間に追われ執着に捉われ人間関係に縛られ、暮らしに余裕が出来てくると心に余裕がなくなってゆき、生活が豊富になってくると何故か心は貧しく成ってゆき、所有の次元の事物の豊富さが、存在の次元の宝玉の輝きを歪め曇らせ喪失させている事実に八正道(戒定慧)の実践により気付き存在としての価値・意義・質・格・境地・真理に目覚めて(覚醒)戴けるでしょう。☆八正道は、人を涅槃(ニルバーナ)に導く八つの実践徳目からなる聖なる道(聖道)であり中道の実践である。中道の実践とは八正道(戒定慧)の実践であり、八正道(戒定慧)の実践とは中道の実践である。    
☆八正道には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、八正道を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
☆八正道は意識して正しいと思われる行動を取る事から修行を始める八正道の修行は、正見(正しい見解を持つこと)から始まり、八つの聖なる徳目を同時進行的に修養してゆく。       
八正道(智慧の章)
心の浄化sする修養の実践(業.カルマ=行為)
修養者は正しい修養により[戒]から[定]、
[定]から[慧]に至り、一人の菩薩大士となる。
悦楽の中に修養の成果を味わい、生きる事の素晴らしさを享受し、命の意味を悟るだろう。智慧の修養は甘美な果実を収穫する。
自分の心に注意を向ければ苦悩の本当の原因が理解できる。
心が感覚的.感情的.思考.認識などの働きをした時に、自他の為にならない振る舞いをし煩悩や苦しみを惹き起こす事がある。
[戒]により心に刺激が入り込まぬよう感官を見張り、同時に心を不安定にする行いを慎む衛兵が城門を守るが如く。
[戒]によって心が安定したならば、正しい精神集中[定]により想念を一点に留めて雑念を芽生えさせない、芽生える隙を与えない
[定]により心は澄んだ水面の如く一切を映し出す。命の実相を観じ、大宇宙の法則を理解し、全てを在るがままに受け入れる。

1.正見(正しい見解.理解)
サンマーディッティ
 正しい見解・理解を持つことは、悟りへの正しい道であり、今の自分に気付き認識し理解し正しい見解を持つ。       
正見とは物事の在りのままを理解することであり、五感官からの情報に惑わされず、観察・分析・検証・理解は肉眼を閉じ心眼を以って行うものであり、八正道で育成された叡智と感性と深い洞察力が必須だとも言え、物事の在りのままを説明するのが四聖諦であり、八正道とは究極的には中道の実践による八正道の理解に集約され、この理解は究極実存(無常法とその関係性による縁起と状態性である輪廻)を見る最高叡智である。   
四聖諦を理解し、三法印や縁起や輪廻の道理を正しく理解する為には、この現象世界を固定的に捉えようとする肉体の眼(肉眼)で、情報として見渡して、その後に肉体の眼を閉じ心の眼(心眼)を開いて冷静に客観的に眺め、如何なる微細な理をも見逃さないよう分析し在りのままに理解してゆく。
■サンユッタ-ニッカーヤ
在るがままに正しい智慧をもって世間に於ける集起(集まり起こる事)を見る者とは、世間において「ない事」はない。
在るがままに正しい智慧をもって、世間に於ける滅を見る者には、世間において「ある事」はない。
故に「一切は有る」と言う極端な定見にも、「一切は無い」という極端な定見にも近づく事なく、中道によってゆくのが正見である。
☆すべての物事が、無常(常なく変化生滅の途上にあり、変化生滅しないものは存在しない)であり、無常法による全ての事物の依存関係性(縁起)とその絶えざる流転の連鎖(輪廻)であると観自在に理解する事が[正見]であり、真実の仏教には不思議は存在しないのである。(三法印とか縁起や輪廻という究極真理は肉眼では捉え難く、心眼を開いて初めて理解できるものであり、思考域では捏造した情報をバイアスを掛けて固定的に捉えてしもうのも人間は微妙な変化を捉える事が機能的に劣っているからなのである)        
☆生きる事とはどういう事なのか。   
☆自分とは何なのか。         
今の自分を冷静に客観的に観察すると「幾つになっても未熟で愚かで空しく無知で下らない物事やどうでもいい物事や詰まらない物事に捉われたり拘わりたり縛られたり執着してしまう存在」である事に気付く筈であるが、自分を卑下する必要はなく皆、大概は同じようなものであり、これらの今の自分を乗り超えた(超越)先に、解脱があり涅槃(ニルバーナ)が在るのである。(逆にそれに気付く事が出来ずに自惚れている人間とは学んでゆく事も向上してゆく事も進歩してゆく事も出来ずに煩悩に翻弄されてゆく人なのである。)    ☆生きるとはドゥッカである。(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.不満.心痛.脆さ.弱さ.儚さ.無知.空虚さ.怖れ.迷い.惑い.哀しみ.渇き.実質のなさ.惨めさ.無常.欲)          ☆心の中には常に未だ満たされていない・生きてゆきたいという根深い衝動がある。  ●渇愛(不安定)による煩悩(生存の素因)  貪りも怒りも憎しみも恨みも怠けも自堕落(だらしなさ)も自惚れも無責任な所も善人ぶるのも欲も全て渇愛である。      
☆すべてはドゥッカ(苦・痛み)であり、空虚な存在であるのにそれでも「生きてゆきたい」という本能的衝動による根本的な執着である渇愛による苦しみである。     
渇愛(渇き・不安定)が無くなればドゥッカ(苦・痛み)は無くなる。      
●最高に幸せな状態 涅槃(ニルバーナ)を体現する。             
☆条件による生起(縁起)に依らない、真理(無常法)に依った実存的な幸福状態(ニルバーナ)●四聖諦という真理を理解する。    
①ドゥッカ(苦・痛み)を知る。(苦の本質) ②ドゥッカ(苦・痛み)がどの様に生じるか原因を知る。(苦の生起)   
③ドゥッカ(苦・痛み)が消えた状態を知る。(苦の消滅)        
④ドゥッカ(苦・痛み)を消滅させる方法を知る。(苦の消滅への道)  
☆正しい理解(正見)正しい思考(正思惟)により叡智(智慧)は育成されてゆく。 
☆真に深い理解とは肉体の眼(肉眼)を離れ、心の眼(心眼)により物事の知的把握を越えた物事の存在的本質を見通す深い洞察力によって理解する事である。                   
☆修行の最初の段階での正しい見解から、同時進行的に他の八正道の項目(特に正念、正定)が進むと、さらに深い正しい見解の存在を感得できる。        
☆正しい見解が進んでくると三毒(貪瞋痴)を断じて乗り越え(超越)、戒定慧の三学が育成されてゆく。

2.正思惟(正しい考え・正しい思考)
サンマーサンカッパ
☆正しい考えを持つことは、悟りへの正しい道である。           
●悪い思考(妄想) ☆気付いて止める   
①欲の妄想を避ける(物事に執着する妄想は人を欲深くさせてゆく)  
②怒りの妄想を避ける。(嫌な気分になる暗い妄想が怒り・憎しみ・恨み・後悔・落胆・嫉妬・憂鬱などの妄想により因縁深くさせ簡単には消えない感情の痼りを遺す) 
③害意の妄想を避ける。(自分にとって邪魔な相手に向けられる排除的・攻撃的・抹殺的・破壊的な怒りの妄想であり、エスカレートして行きとても生きずらい世界を造り出して行く)              
●雑念や妄想を管理する。       
☆創造力と妄想とは真逆な思考である。 
☆煩悩による感覚・感情により主観が生じ自我意識が生じ雑念や妄想が生じる。  
☆理性による客観的理解認識能力により、無限の創造力が生じる。       
☆理性的・客観定思考を心掛ける。   
●正しい思考             
①離欲の思考 (欲得から離れたほうが楽という方向性)       
②無瞋恚の思考(皆が仲良く健康に幸福に平和に暮らして欲しいという方向性)    ③無害の思考 (自分を害する相手を許し逆に助けるという方向性)  ☆実践的修養において正見(正しい見解)に基づいて正思惟(正しい思考)をしてゆくと、正しい心(正心)が育成されてゆき、不善処心(主に三毒である貪瞋痴)から離れてゆく決意と信念が生じる。             
●煩悩(生存欲)の衝動に誑かされ執着させられている事を自覚し、抑制してゆく事(踏み止まる)こそ、正思惟である。      ☆煩悩(生存欲)の要求に随って生きると煩悩の永遠の命への盲目的な渇きに翻弄されて決して満たされる事のない欲望の中を彷徨う事になる(餓鬼心)           
☆正思惟という正しい思考法により、煩悩(生存欲)による物事を主観的自我意識に自分の都合により捏造し錯覚した思考により、上手く行った・都合がいい・望みが適った場合は一時的な快楽を味わうが、上手く行かない・都合が悪い・失望した場合は苦や悩みを味わうという条件による生起(縁起)に振り回されながら生きる事になり、煩悩の絶えざる更なる要求に翻弄されて生きる事となる、正思惟という正しい思考法により煩悩の要求から踏み止まり抑制してゆくと、心は次第に澄み渡ってゆき、自分と何なのか何の為に生きているのか何故生きるのかが、波紋が静まった湖面に映る満月の如く心に映しだされる。☆正見(正しい見解)と正思惟(正しい思考)により、叡智(智慧)は育成される。
☆物事を在りのままに見るためには、言語領域を乗り越えて(超越)分断された全体性を映して行かねばならない。
人類は、その高度に発達させた理性(客観的な理解認識能力)と言語能力により高度な社会や生活を築いてきたが、一方では言語により物事の全体性を損ない、名称(言語)により物事を分別しながら思考している。(例えば、自分の眼に映る情景、耳に聞こえる音など全ては全体性により成り立っている。在るがままに眺めるとは全体性の概念であり、その全体性を「風が吹いている」「犬が歩いている」「雲が流れてる」「人が自分を見ている」・・・などと名称(言語)により分断し分別しているのであり、今在る情景を言語により識別しようとせず分断し分別せず、自分が感受する世界をそのままに眺め受け入れる事が、在るがままに眺める事である。