このマハ.サティパッターナ.スッタ(大念処経)と言う上座部(ヒーナヤーナ)でも大乗(マハーヤーナ)でも重用される修養には欠かす事が出来ない重要な経典に付いての解説として先ず本文の掲載を幾度となく試みたがこの1ブログの文字数制限に掛かって掲載が難しいので本文に付いては他に譲るとして、この経典の真の活用法に付いて触れたいと思う。
先ず、この修養に於ける指南書でもある経典に学ぶ時に自覚すべきは「マハ.サティパッターナ.スッタ」は気付き.自覚についての1パートであり、この「マハ.サティパッターナ.スッタ」を以って四聖諦.三法印を完成し得ると錯覚してはならず、飽くまで四聖諦に於ける滅諦(苦の消滅への道)の実践の為の八正道の正念(正しい気付き.注意)の為の実践法を説いて居るのであって、もし八正道を同時進行的に開発してゆく事を怠るならば前向きで堅固で実存的な涅槃(ニルバーナ)から却って遠ざかる事ともなり、後ろ向きで虚無的.刹那的.厭世的な観念へと陥らせる危険を孕んでいる事を忘れてはならないの。
これらは妄想に幻惑され正しいものを正しいとは認知判断出来ずに、間違ったものを正しいと誤認してしまう無明(無知)な本質による無常なる現象を固定的に捉えようとしたり妄想的な自我の意識や主宰的.永遠的な魂.霊魂や主宰的.永遠的な神仏への依存欲からの覚醒(目覚め).超越(乗り越え).解放(解き放ち)の為の指南書であり智慧と叡智を顕現させ涅槃(ニルバーナ)へと向かわせる二つの道(世俗諦・勝儀諦)の内の一つの道(世俗諦)の養成の為に必須な1パートとしての指南書だと言える。
四念処.抜粋
身念処(身体)
身体は身体に過ぎず.私のものではなく私でもない自分でもなく.現象に過ぎない
受念処(感覚)
感覚は感覚に過ぎず.私のものではなく私でもない自分でもなく.現象に過ぎない
心念処(感情)
心の状態(感情.反応)は心の状態に過ぎず.私のものではなく私でもない自分でもなく.現象に過ぎない
法念処(五蘊作用)
心の作用(精神作用.五蘊)は心の作用に過ぎず、.私のものではなく私でもない自分でもなく、現象に過ぎない。
⚫快適.不快.そのどちらでもないもの、心地よい.心地悪い.心地よくも悪くもないもの、それらが永続的なものではなく、自分はそれらに捉われる事なく自分はそれらを欲情から経験する無常さを知っている。どんな感覚を経験しようが自分はそれらに捉われる事はない、全てのこうした感覚はオイルと芯がなくなると消えるランプの炎のようなものに過ぎず肉体の分解と同時に消滅するものである事を知っている。そう理解した者は絶対叡智を具えている。
何故なら全てのドゥッカ(苦.不快…)の消滅の知識こそ絶対的な聖なる叡智だからである。
●生きるとは生じ続け変化し続ける事であり、この世に存在する一切は変化生滅してゆく現象の過程もしくは結果である。その様に観じ変化生滅してゆく現象に捉われなくなって初めて安寧は得られる。
この「遠ざかり離れる事」に基づき欲情を離れる事に基づき、止滅に基づき煩悩(存在欲)への執着を捨て去る事に向かう「正見・正しい理解.見解.サンマーディッティ」「正業・正しい行動.サンマーカンマンタ」「正命・正しい生活.サンマーアージーヴァ」「正語・正しい言葉.サンマーワッチャー」「正思惟・正しい思考.サンマーサンカッパ」「正精進・正しい努力.サンマーワーカーマ」「正念・正しい気付き.サンマーサティ」を修め、遠ざかり離れる事に基づき欲情を離れる事に基づき止滅に基づき煩悩(存在欲)への執着を捨て去る事に向かう「正定・正しい集中力.サンマーサマーディ」を同時進行的に修める、此れこそが福徳を生ずる八つの正しい道(八正道)である。
●全ては因果律に遵って条件(縁起)により生起し条件(縁起)により変化消滅してゆく現象に過ぎず私、自分と呼ぶような固定的.永続的な実体的.実存的.実相的.無為的な存在ではない。
その様に捉えないからドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.悩み.心痛.悔い.迷い.哀しさ.脆さ.弱さ.儚さ.空しさ.不満.飽き.欲.無明)を生じさせ継続の因縁を生じさせるのである。
これらの無明(本質的な無知)による束縛された生命エネルギーの性質(業カルマ)が継続(サンサーラ)を生じさせてゆくのです。
●束縛(継続の因縁)
これが人を輪廻の輪に縛りつけるものだと考えられています。具体的には以下が挙げられてる
1. 肉体的な快楽を求める渇望
2. 怒り
3. 驕りや自惚れ
4. 誤ったものの見方 (真理であっても自分の意に添わぬ事柄を方便と見て軽んじて自惚れる)
5. 不安や疑心
6. 八正道以外にも自由になる道や修行があるという誤った信念
7. 欲界・色界・無色界に生まれ変わりたいという渇望 (渇愛.執着.愛着)
8. 羨望や嫉妬
9. 吝嗇、卑しさ
これが人を輪廻の輪に縛りつけるものだと考えられています。具体的には以下が挙げられてる
1. 肉体的な快楽を求める渇望
2. 怒り
3. 驕りや自惚れ
4. 誤ったものの見方 (真理であっても自分の意に添わぬ事柄を方便と見て軽んじて自惚れる)
5. 不安や疑心
6. 八正道以外にも自由になる道や修行があるという誤った信念
7. 欲界・色界・無色界に生まれ変わりたいという渇望 (渇愛.執着.愛着)
8. 羨望や嫉妬
9. 吝嗇、卑しさ
●師僧のワールポラ.ラーフラは、この主宰的.実相的.永遠的な魂という妄想に根付いた問題を非常に明確.且つ的確に「ブッダの教えによれば、自己という概念は想像上の誤った思い込みであり、対応する実体をもたない。
それは「私」「私のもの」という有害な考え.利己的な欲望.渇望.執着.憎しみ.悪意.自惚れ.傲慢.自己中心主義など様々な煩悩.不浄.問題を生み出す。
個人間の対立から国家間の戦争まで、この世のあらゆる紛争の元凶になる。
一言で言えば、この世のあらゆる悪がこの誤った見方に端を発している」と仰った
そして道元禅師が「仏道とは自己を習う事であり、自己を習うとは自己を忘れる事である」と仰るように凡そ全てのドゥッカ(不安定さ.不完全さ.生存苦.心痛.悩み.哀しみ.怖れ.悔い.迷い.不満.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.欲.渇き.無明)という本質を生起させてしまうのも間違った自意識への捉われ.拘り.執きであり、自我(魂.霊魂という主宰的な本質)の妄想から目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれた(解放)自由で平らかで静かな悦楽な幸せにより真の平和と自由と博愛の精神は達成されるのである
●自己という誤った概念が想像上の誤った思い込み.錯覚.妄想であると、自分を詳細に観察し.分析し.思惟し.検証し.発見し.確証を得て理解すれば煩悩(存在欲)による不善処(三毒👉貪り.瞋恚などが自分という誤った思い込み.錯覚.妄想である事に気付けない迷妄.痴)から解き放たれる。
●二つの連続する瞬間を通じて同一で在り続けるものは何一つとしてなく、全ては一瞬每ごとに生起し一瞬每に消滅し流転を続ける現象であり、因果律に遵って一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その中で永続的な「私.自己.個人.魂」と呼べるようなものは存在せず、物質的身体.感覚.識別.意志.意識の中で一つとして真に「私」と呼び得るものがない事は誰もが合点できる処だが、相互に依存し合う五つの集合要素が身体的・心的機能として結合して作用するとき「私」という誤った概念を生じさせる。
この五つの集合要素(五蘊)の背後には主体的.永続的な存在はなく、感覚は存在するが感受する主体は存在せず、喜びは存在するが喜ぶ主体は存在せず、苦しみは存在するが苦しむ主体は存在せず、行為は存在するが行為主体は存在しない、思考は存在するが思考の背後に思考者は存在せず、思考そのものが思考者であり、仮に思考を取り除いてみても、その背後に思考者(主宰的な魂)は見い出せず、現象に過ぎない。
自我への執着により根深い妄想を造り出し、その妄想により更に自我の妄想を深めてゆく、自我と妄想は葦の束のように互いに支え合って成長し膨張し益々根深いものになってゆく、真実は覆い隠され真実を間違ったものと見なし間違った見解を当然と見なし、暗い濁り汚穢へと沈んでゆく。
この意識.思考の主体(自我.魂)への妄想が吹き消され自分という存在が周囲の現象と共に縁起して全体性を成している現象である事実を体得する。
妄想.幻覚に惑わされる事なく目覚め在るがままの世界を観れば一つの輝きとして大海として世界の
中で世界と一体化して舞い歌い、決してドゥッカ
(不安定さ.不完全さ.生存苦.心痛.悩み.哀しみ.怖れ.悔い.迷い.不満.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.欲.渇き.無明)へと転ずる事のない奥深く甘露な大いなる歓びを得るだろう。
●輪廻とはこの因果律に遵った現象の継続を言うのである。
因みに縁起は有為なものであり因縁起果報で生起も不生起もある縁起であるが因果律は無為なものであり条件が満ち足れば必ず果報として現れる絶対法則である。
●身体は身体に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
●感受は感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
視覚は視覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
聴覚は聴覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
嗅覚は臭覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
味覚は味覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
触覚は触覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
自覚は自覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
心の状態は心の状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
喜びは感情的状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
怒りは感情的状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
哀しみは感情的状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
快楽は感情的状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
心の作用は心の作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
感覚は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
識別は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
記憶は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
感情は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
意識は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
思考は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
●感受は感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
視覚は視覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
聴覚は聴覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
嗅覚は臭覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
味覚は味覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
触覚は触覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
自覚は自覚的感覚に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
心の状態は心の状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
喜びは感情的状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
怒りは感情的状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
哀しみは感情的状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
快楽は感情的状態に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
心の作用は心の作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
感覚は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
識別は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
記憶は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
感情は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
意識は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない
思考は機能的作用に過ぎず、私のものでもなく、私でもなく、自分でもなく、現象に過ぎない