三大本質

[仏教(仏の教え)とは何か?]という
言語では語り切れず…感覚でも捉え切れず…思考でも認識し得ないテーマを.少しでも仏教の本質を理解して頂こうと敢えてしたためてみた…
それは言語というものも感覚というものも思考というものも、本質的には.世界(全体性)を分断化.部分化して断片化したものに焦点(フォーカス)を当てたものに過ぎず、決して世界や実相や真実は言語や感覚や思考では捉え難いものであり、表現し難たいものなのです…
故に最終的には.自分にとって世界とは.実は色受想行識(五集合要素)であると気付くのです…
それは[味覚]で言えば、その味わいを表現し得る言葉も感覚も思考もなく、ただ旨いか.不味いか表現するしかないのです…それを分断化.部分化.断片化して[まったりとした奥深い味わい]などと訳の解らない事を宣い、聞いた方も持てる知識を総動員して何とか解ったつもりになっても、その本当の味わいは百聞は一見に如かずなのですから…


人間には拭い切れない三つの本質があるのです…それは.その本質を認め受け入れる事により統制の下にコントロールしてゆくのか、直視することを避けながら本質的な業(カルマ)に誘導されてゆくのかという二つの真逆な方向性の形成でもあり、言い換えれば.主人(理性)が.従業員(感覚.感情)を上手く使いこなすか、従業員に.主人がいいように振り回されるか…であり、従業員に主人がいいように振り回されてるような会社が上手く回転して行くわけもなく何処かしら.何時かしら問題に直面するものなのですから…


前置きが長くなりましたが、本題の三大本質とは.人間には根深い自己保存本能と自己防衛本能であり、自己保存本能と自己防衛本能により形成される自我意識であり.
人間は自己防衛としての自らの保護.安全安心.利益の依り処として、得体の知れない神仏を妄想し、自己保存の為に永遠の存在としての魂.霊魂を妄想したのです…
そして無明.無知.弱さ.恐怖.欲望により、自らを慰める為にこれら二つの考えに.しがみつきたがります…
そしてこの三大本質の理解こそが三宝印(諸行無常.諸法無我.一切皆苦)なのです…


自己保存本能とは煩悩として現われ.自己防衛本能とはドゥッカ(不完全性.不安定性.苦.悩み.心痛.怖れ.哀しさ.憂い.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.無明さ.無常さ.)として現れるのです…
●自己保存本能の本質的な欲望は、永遠に存在していたい…という煩悩により成り立っていますから、永遠の存在への欲望を尺度として、物事を測ろうとしますから、永遠の存在の為に.プラスだと思う物事に対して引き寄せたいと貪りの欲望を生じさせ、永遠の存在の為に.マイナスだと感じる物事に対して激しい怒り(瞋恚)を生じさせ、永遠の存在の為にプラスかマイナスか解らない迷いや不満から痴愚を生じさるという三毒に翻弄されています、ですから三学(持戒.禅定.智慧)により、一切は変化生滅してゆく現象に過ぎないという無常観と死随観を得ると三毒は解毒されてゆき.安らぎが得られるのです…
●自己防衛本能は.ドゥッカ(不完全性.不安定性.苦.悩み.心痛.怖れ.哀しさ.憂い.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.無明さ.無常さ.)として現れると言ったように、つまりはドゥッカによって生かされているのです…
それは度々.書いて来ましたが.もし空腹という苦がなければ食事もしないだろうし、排泄したいという苦が現れなければトイレにも行かずに腹膜炎か何かで死んでしまうのでしょうから…
●自我意識
仏教的に言えば、人が[自分][私]と見做しているものは、絶えず移ろい変化してゆく肉体的(物質的)エネルギー、精神的(心的)エネルギーの結合に過ぎない現象的な仮体に過ぎず、それは五集合要素(五蘊)により形成されている…それを主体的.実体的.実存的な存在と錯覚し執着する処から、ドゥッカ(苦…)を生じさせているのです…
人の命とは、混沌により生み出される途方もないエネルギーの悠久の流れの中の現象に過ぎない…
よって.二つの連続する瞬間を通じて、同一であり続けるものは何一つとして存在しない…
全ては一瞬ごとに生起し、一瞬ごとに消滅し、流転し続けているのです…
因果律(縁起)に遵って、一つのものが消滅することにより、次のものの生起は条件付けられ、その過程において変化してゆかないものは何一つとしてなく、実存的.実体的な私、自分と呼べるようなものは何も存在しないのです…
苦しみは存在するが苦しみの主体は存在しない…
行為は存在するが、行為主体は存在しない…
思考は存在するが、その後ろに思考主体は存在しない…
人生は移ろうのではなく、移ろいそのものが人生なのですから…

つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って世界を空なりと観ぜよ
●気を紛らわす
これら三大本質に翻弄され、感覚的.感情的.主観的な刺激への執着により[気を紛らわす]ことが、人生だと勘違いして気を紛らわす事に余念がありません…
言わば感覚的.感情的.主観的に快い刺激を与えてくれる[下らないもの事][どうでもいいもの事][つまらないもの事]への執着に他ならず、それは無明(本質的無知.明かりが灯らない状態)の闇の中を手探りで盲目的に彷徨いゆく[暗夜行路]なのです…
つまらないもの事、下らないもの事、どうでもいいもの事に捉われ、拘り、執着しないようになって初めて、堅固で甘美な安らぎは訪れる…
仏教とは真理(真実.事実.現実.実相)を灯す光明なのですから…