至高な存在

ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって、つくりだされる。
もしも汚れた心で、話したり、行ったりするならば、
苦しみは、その人に付き随う。
車を引く牛の足跡に車輪がついてゆくが如く。
もしも清らかな心で、話したり、行ったりするならば、福楽は、その人に付き随う。
影がその体から離れない如く。
ダンマパタに遺された釈迦尊(ブッダ)のこの有名な句は、因果律(縁起の理法)が説かれていると一般には解釈されているのですが、実は因果応報・自業自得という作用と反作用の自然法とともに、人間は自らが自らの主であり、それより高い位置から、この世界を主宰し、その行いを裁いたり善悪を定めたり賞罰を下す神や仏や、自然法に則らない超越的な力など存在せず、況してそれらが我々、人間を造ったのではなく、我々、人間が持つ弱さや不安定さや情緒や妄想が、それら得体の知れないものを創ったのであり、それにより本来、崇め、敬い、讃え、畏れ、感謝し崇拝し信仰すべき、天地自然や環境や縁という相関性を貶め、現実生活体験をも得体の知れないものへ帰趨させ、自分勝手で、闘争的な社会が造りだされることを憂いたのである。
生命体の頂点へと進化し、理智を発達させ、この大宇宙の深淵さえ理解認識する事ができる能力を具えた我々、人間こそが「至高なる存在」であり、自らが自らの真の拠り処であることを説かれているのであり、真正な仏教に於ける無記なる至上の経典「自燈明経」と「法燈明経」へと続く法施であり、無知(無明)の闇の中を盲目的に手探りで不安定に生きている人々(至高の存在)が、真に至高の存在へと進化して行くとき、拠り処(精神的支柱)とすべき真理へと向かう道において迷妄を乗り越えて超越し、正しい信仰・崇拝対象(六方崇拝)に目覚めてゆくための第一の覚醒である。