一切皆・不安定

「世界は、何処も堅固ではない。
どの方向も、すべてが動揺している。
私は自分の依るべき処を求めたのであるが、
死や苦しみに取り付かれていない処を、見つける事が出来なかった。」そして釈迦尊(ブッダ)は自分が依るべき堅固で安定している真に平安で幸せで悦楽なる処(依り処)という精神的支柱を探し求め、自分自身を冷徹に客観的に、そして詳細に眺め分析し、世界を冷徹に客観的に、そして詳細に眺め分析し、理解し発見された、不安定で無常な世界に於いて、唯一堅固なる依り処とは、自然法則(真理・摂理)だけであると説かれたのであり、この現実世界のすべてのものごとは縁起という相関性・相互依存性により一時的に存在しているだけであって、条件により存在しているものは条件により消滅してゆく性質のものでしかなく条件が変化すれば安定状態も不安定状態へと戻ってしまう、堅固なる依り処とは成り得ないものであるのに、無知(無明)の闇の中を盲目的に手探りで自分を安定化させてくれるものを欲して所有の次元に探し求め、一時的な安定をもたらす事物に依存してしまい、やがて変化し消滅して苦や悩み痛み悲しみ不満、迷い悔やみ怖れなど不安定状態へと戻ってしまう本質的な不安定の中を彷徨っているのである。
☆この世界(大宇宙・現象世界)とは、絶対安定世界の一点に生じた「ゆらぎ」という「不安定」により生じた世界であり、その不安定が安定化へと向かう運動と力(エネルギーにより大膨張し速度を速めながら終焉(安定)へと膨張を続けているのである。
地球が太陽の周りを廻っているのも、月が地球の周りを廻っているのも、銀河や大宇宙の物質の全てが回転運動してるのも、不安定という本質の一時的な安定状態への運動エネルギーによるのである。
つまりは絶対安定世界は絶対安定で在り、運動も力も存在せず、不安定なるが故に運動エネルギーを生じさせるのである。
この世界のすべてのものが苦のエネルギーにより運動しているのであり、我々人間で言えば空腹になると苦しい(不安定)から食し、消化吸収した後は苦しく不安定だから排泄しているのである起きていて苦しく不安定になるから寝てるのであり、身体が一時的にせよ安定状態を健康と呼び、不安定状態を病気と呼んでいるのである。
「ドゥッカを見るものは、ドゥッカの生起を見、ドゥッカの消滅を見、ドゥッカの消滅に至る道を見る」
ドゥッカ(不安定)という本質に対して不満を懐いたり、苛立ったり悩んだりしても、ドゥッカ(不安定)は少しも無くならない処か逆にドゥッカ(不安定)を深め悪化させてしまう。
この世界が不安定という本質により存在している事を真に理解できれば、不安定がどのように生じ、不安定がどのように消滅するかを真に理解でき、不安定の消滅に至る道を真に理解できる。
平安(安定)こそ、悦楽なり、安定による悦楽の中で智慧の悟りを得て絶対安定(ニルバーナ)を得る。身体に結び付けられている現世に於いては涅槃に住まい、結び目が解かれたならば絶対安定世界へと戻る。この世界(現象世界)は絶対的安定、実存的な存在は存在することが出来ないのだから。