尺度(心の物差し)

諸行無常
この世界は全てのものが常なく刻々と変化と生滅してゆき、変化生滅しないものは存在出来ないのですが、本質的無知(無明)であったり自分が実体的存在だと勘違いして自我意識に捉われたりしていると、自分にとって都合の悪い変化に苦しみ、自分にとって好都合な変化に喜ぶという、現象の変化と生滅に喜怒哀楽しながら翻弄されて生きる事になります(苦楽とは現象の捉え方なのです…)
苦から目を背けず、楽にまどわされず、苦楽を共に受け入れて、智慧の糧としてください…
■無明
無明とは雑阿含経には克明に定義されていますが、要は真実.現実が見えないままに.暗闇の中を手探り(感覚的.感情的主観的.欲望的)で、盲目的に生きている事を言うのです…
世の中に溢れ返っている色がついたレンズや歪んだレンズのような[知識や情報]を通して見える.着色され.歪んで.偏った景色を真実の世界の姿だと錯覚ながら不安定に暗夜行路を行くが如く無明に生きているから苦や不満や貪欲を造り出し、自分への拘り.捉われに心を貧しくさせてゆくのです…
無明に.盲目的に生きるのではなく、世の中を真理という光明で照らし出し、変化したり無くなったりする事のない真理を依り処として、堅固な歓び.幸福.悦楽.安らぎを実現させる教えが、頂乗仏教なのです…
心配とは悩み苦しみ杞憂することに非ず、心を配ることなり…

知識や情報を得たとて、知ったつもりになるだけに過ぎず、実践していって初めて本当に知る事ができるのですから…
全ては、儚い本質のもの…
それを永遠.実存.常有なものと錯覚する処から、苦(ドゥッカ)を生みだしているのです…
つまりは無明こそが、苦しみの根源なのです…

仏教は智慧の宗教です。

たとえ世の中で聖典と呼ばれる経典であっても無思考に信じ込んではいけません…
自らよく眺め.分析し.思惟し.思推し.実践により検証し.確証を得て理解できるものを信じるのが正信です…
智慧ある人は、正信により心を成長させてゆくのですから…
■依り処(精神的支柱)
本質的に不安定さとドゥッカ(苦)によって成り立ち、煩悩(存在欲)に支配される人間というものは、何かしらを依り処(精神的支柱)としなければ安定する事が出来ず、またハシゴで上へ登ってゆく為には、横木を片手づつ交互に掴みながら.依り処としなければ上に登ってゆく事が出来ません…
ですから皆んな自分を安定させてくれる何かしらの依り処を求めるのですが、金でも.財物でも.地位でも.名声でも.勢力でも.権力でも家族でも.健康でも、変化生滅してゆく無常な性質のものに過ぎません…
かと言って、[全ての依り処から解放される]などとプラパンチャ(戯れ言.能書き.空論.形而上的観念)な言質も耳にしますが、本質的に不安定な人間.宇宙.万物は他の物事との関係性の上に存在しているのであって独立的に単独では存在出来ないのです…釈迦尊が発見されたのは、この世界において唯一の堅固で無為(変化生滅しない)な、真理(自然法則)への依存…これこそが堅固な依り処(精神的支柱)であり、諸行無常.諸法無我.一切皆苦という無為なる三宝印(絶対真理)なのです…
■禍福は糾える縄の如し(苦楽一如)

[楽は苦の種.苦は楽の種]とも言われるように物事を[楽]を尺度(心の物差し)として量りながら生きれば、そうそう思い通りには運ばない世の中で、苦や不満を募らす事となるのですが、[苦]を受け入れて[苦]を尺度(心の物差し)とした生き方をすれば、大抵の苦とされる物事は当たり前の事であり、そうでない物事は[楽]を受け取る事となる、要は変化と生滅してゆく現象の、苦の部分を受け取るか、楽の部分を受け取るかは自分次第なのですから…