超越

 

[超越]と聞くと、大概の人はスーパーサイヤ人にでもなる方法を教えてくれるように勘違いするでしょうが、超越とは[乗り越える]ことであり、苦や無明から超越する事であり、[超越]という刺激的な言葉ではありますが、六神通+αは具えてますが.生憎とカメハメ波は教えられません…しかしある意味、それはカメハメ波以上に価値ある教えなのですから…
人は、苦しみとか不浄なもの事から目を背け、陰に追いやろうとして、直視しようとはしませんね…

それは苦しみや不浄なもの事を.直視したり.考えたりする事は、苦しみや嫌悪感がつのってゆくと勘違いしているからに他なりません…
それは言い換えれば、酔生夢死の人生を歩む事を肯定する事に他なりません…
それは苦しみから逃れようと酒や薬物に手を出し、一時的に苦しみや不満から解放されて憩うだけでしかなく[現実と夢想とのギャップ]に.苦しみや不満は増してゆくだけに過ぎないのですから…
お釈迦様が発見された.苦を乗り越え.超越する道とは、自ら、苦というものを.つぶさに観察し.分析し.思惟.思推し.検証し.確証を得て理解するだけの、[自分自身]の事柄であり、世の中に溢れ返る.知識や情報などは実際には然程も役立たず、況して神頼みや呪文とか、占いとか.星への願いも、一時の安らいは得られたとしても、苦は纏わりついたまま.更なる苦を造り出してゆくだけなのですから…


例えば煩悩(存在欲)は.[死]から逃れようと永遠の生命を妄想しているのです…
ですから、煩悩は.永遠に存在してゆく為に.プラスとなるだろう物事に対して[引き寄せよう]と貪りの欲望を生じさせ(貪欲)、永遠に存在してゆく為に.マイナスとなるだろうもの事に対して[遠ざけよう]と怒り不満を生命じさせ(瞋恚)、永遠に存在してゆく為に.プラスになるかマイナスになるか解らないもの事には(痴愚)を生じさせるのです(これを三毒と言います)
煩悩(存在欲)による[死への恐怖]に打ち克つには、三学(戒めを持ち.心を鎮め集中させ.よく考えて)により、その真理と本質をよく理解するだけなのですから…
♠人の心の無明の闇を根絶したならば、二度と煩悩(存在欲に起因する)は現れない…それは同時に輪廻(連鎖.継続運動)していたエネルギーの消滅でもあり、これが解脱(輪廻の激流からの脱出)であり、唯一の成仏法である。
♠今まで私は.苦(ドゥッカ)だということをしらなかった…知らなかったから.苦しんでいた…
全てのものが.苦(ドゥッカ)であると解った瞬間
.心は完全なる安らぎを体験した…
これから我が心には微かにでも悩み.苦しみは生まれない…堅固な平安を得た…
❖あらゆる現象(もの事)は.苦(ドゥッカ)であると、正しく理解する事によって、あらゆる現象(もの事)に対する[執着]の空しさ(空虚さ.無常さ)を理解する…それによって浄らかな道を歩む事が出来る…
♠愚かな人は、日々の世俗的.感覚的な満足を幸福だと思い込んでいる…
本当の美味に気付かず.雑草を美味い.美味いと食べて居るようなものだ…
死に直面せずとも、生きている事自体が.最高の快楽だという事を智者は弁えてる…
病み寝込まずとも、元気に駆け巡れる事自体.最高の歓びだという事を智者は弁えている…
騒動に巻き込まれずとも、平和な日々自体が.最高の安らぎだという事を智者は弁えている.
どうでもいい物事、下らないもの事、詰まらないもの事、今更どうしようもないもの事に、捉われず、拘わらず、執着.愛着することなく、今という瞬間.瞬間を満たされた心で、奥深く味わう価値を智者は知っている…
♠禍福は糾える縄の如し(苦楽一如)
[楽は苦の種.苦は楽の種]とも言われるように物事を[楽]という尺度で量りながら生きれば、そうそう思い通りには運ばない世の中で、苦や不満を募らす事となるが、[苦]を受け入れて[苦]という尺度を以って生きれば、大抵の苦とされる物事は当たり前の事であり、そうでない物事は[楽]を受け取る事となる、要は変化生滅してゆく現象の、苦の部分を受け取るか、楽の部分を受け取るかは自分次第なのです…


目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)