渇きと潤い

肌の渇きはニベアでも塗っておけば潤いもするが、心の渇きは欲望の火焔(ほのお)に煽られたままでは、何を得て凌いだとしても空しい一時の安堵でしかなく、煩悩を火種とした欲望の火焔は.鎮まる事なく、.潤いを探し求めながら.益々と火焔は勢いを増してゆくものである。
今の豊かな社会を見渡せば、物.情報.知識は溢れ返り、趣味.娯楽にも事欠くことがない実に豊かにな社会であるが、その物質的な豊かさに従って、得る事により得られる短命で空虚な喜びが幸せ.潤い.癒やしだと勘違いしたり、その所有量が人間的価値観の基準と錯覚したりして、欲望の火焔で心は焼き尽くされ.喜びを欲しながらも.却って潤いや癒やしや幸せ満足から遠ざかって居る事に気付かない…
癒え満たされる事のない尽きない渇望により.心貧しく、[所有の次元の事物]に翻弄されながら苦と不満と不安などを生みだしている…
仏教とは幻の如きものへの信仰ではなく社会という熱砂の砂漠を翻弄され彷徨い歩く者達の渇いた心を癒やす、尽きる事のない泉であり、オアシスであり、甘露なる永遠の真理の言葉である…
潤いとは癒やしなり…
潤いなくば慈悲の心はなく、潤いなくば満ち足りる事はなく、潤いなくば愛もなく、潤いなくば優しさもなし…
人は先ず自分が潤いて初めて、他を思い遣理慈しむことが出来るのである…
煩悩の火焔に焼き尽くされた心には.真の意味での愛や慈悲や満足などは存在し得ないのだから…
そこに在るのは利己的な自我意識か、やはり得る事を欲した策謀に他ならないだろう…
人々に必要以上の欲望を煽り.惑わせ.魅入らせ.誘い込もうとする汎ゆる媒体は悪魔の囁きと確かに識って、無警戒に近付かず、よく吟味すべきである…
空しく渇いた心は、刺激と潤いを欲して却って心を渇かせてしまうのだから…
渇いた心を潤わせ、傷ついた心を癒やし.不満と苦しみから救ってくれるものは、物事の所有量などではなく、自らの智慧と足るを知る心だけなのだから…