物 欲

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物欲は果てしなく.空しきものなりて.しかも物欲に満たされることなし   

人は[あれが有れば][これが欲しい]と生きる為には然程も必要でもないものにまで物欲に翻弄され短命な感覚的な喜びを積み重ねて幸福だと錯覚ながら真に満たされる事がない。
その本質を見極めて行けば、それは手段(付随物)としての便宜的な客体に過ぎないものであり、決して生きる主体的な目的でもなく苦(ドゥッカ)という本質が喜びという姿で一時的に現れている仮体に過ぎず、遠からず苦(ドゥッカ)は正体を現す。
それは取得した瞬間から毀損.劣化.破壊.盗難.喪失.維持.管理など汎ゆるドゥッカ(苦.悩み.心痛.哀しみ.不満…)の種は実ってゆくのだから。
物欲に魅入られる者は、主には金銭財欲に魅入られているだろう。金財があれば凡そ色々な欲を満たすことが出来ると勘違いしていて.便宜的な付随物に過ぎないものに魅入られて.恰も目的物や魔力を秘める宝だと錯覚し盲目的に貪り執着から目覚めることができない。
本質的には、金銭とは紙であり銅やニッケルなどであり、空腹を満たすことさえ出来ない代物に便宜的に価値観を付加させているだけであり.仮に動物に肉片と万札を差し出せば凡そ万札など欲しはしないだろうし、砂漠に行けば喉の渇きも癒せない。
それらの紙や金属片に、金銭という相互承認のもとに便宜的手段としての価値と威力を発揮させている夢幻的要素は、相互承認を喪失した途端に只の紙や只の金属片へと戻ってしまう本質のもの。
要するに「自分が幸せに生きたい」「自分の自我を安定化させるために喜びや快楽を得たい」という欲を満たそうとして魅入られたとき.短命で一時的ではあるが感覚的な喜びを与えてくれる現象に誑かされ目的物で有るかの如く錯誤して、物や金財を貪り執着してしまうのである。
しかしこれら[所有の次元の事物]とは.天から雨のように降り注ごうが.泉の如く湧き出て来ようが決して満たされる事など出来ない.更なる欲望を翻弄され儚い喜びと大いなる不満の中で.それでも必要以上に[所有の次元の事物]しがみついて生きる事に他ならない。
そして世の中には「愛」などという観念が満ち溢れて美徳の如く、持て囃されるが、これも本質的には自愛でしかなく、決して慈愛などではなかろう。
結局は自分が幸せに生きるための手段として欲している我欲に過ぎない一種の物欲でしかないのである。
人は皆、幸せや喜びを欲して生きているのである。これから死のうとする者でさえ、その中に幸せを見い出すからに他ならない。
しかし[物欲]や[愛]などでは真の幸せを得ることは出来ない。
物事や愛によって得た幸せは一時的なものに過ぎず、時間の経過(変化生滅)により苦や不満へと戻ってゆく性質(本質)のものなのである
物や愛により一時的に幸福感・快感・喜び・満足感などを得るが、やがては新しい物が欲しくなったり、飽きたり、維持管理に困ったり、喪失や破壊や窃盗の恐怖に悩んだりする、そんな一時の小楽と引き換えに多くの苦や不満の中を繰り返し流れてゆき最後の時には、皆が「こんな生き方でよかったのだろうか?もっと意味のある生き方があったのではないだろうか?」と後悔するのである。
それは歴史が証明しているだろう。天下を獲った人でも、大発明をした人でも、大金持ちになった人でもが最後は後悔して嘆いているではないか。
「幸福や満足とは、外からもたらされた物事の多い少ないではなく、どう感じるか、どう味わうか次第なのである。」
「たとえ天から湯水の如く金が降ってこようが、心が卑しければ満足など得られない」のである。仏教では「有無同然」と説かれる。「無ければ無いで苦しいと感じる者は有れば有ったで苦しいと感じる」「無ければ無いで楽しいと感じる者は、有れば有ったで楽しいと感じる」有っても無くても苦しいと感じる者と、有っても無くても楽しいと感じる者がいるということである。それは間違った見解や感性を正しい見解や感性へと表面の思考から潜在域の概念という思考に描いてゆくことなのである。「調った感性で眺める世界は山地水木、何処も清浄なり。」
「真に満足をもたらすものは.足るを知る心だけ」
●仏教を間違って捉えてはならない。
★仏教は欲望を否定してはいない。
欲望への[執着][拘り]がドゥッカ(苦悩)が生じる原因なのです。
人間は欲望を生存の素因として[力]として生きているのであり、生きる意欲も欲望であり[無欲]を間違った見解で捉えてはいけない。
★仏教は禁欲主義(ストイック)でも享楽主義でも刹那主義なく現実主義。
苦行とも通じ合う禁欲行為とは苦(ドゥッカ)の中に安定を求めようとする怒り.痛みの感覚で生きる事に他ならず、苦.怒り.痛みの中に真理を見い出そうとする偏った観念であり、悦楽の中に智慧の真理を顕現させる現実主義な教えが真の仏教なのです。
★仏教は断捨離とは違う。
仏教は[所有]を否定しているのではなく.生きるのに必要でないものを所有する事は負担を増やす苦悩の種でもあるのだから必要以上に欲し執着し貪らないほうが[楽]なのだよと説くのであり、苦痛の種を取り除いて行けば当然に無一物へと向かう(結果論)
断捨離も捨て去り離れる事により安心.安楽を得られる点では同じだが、折角の持ち物を無理に処分するのは不自然な偽善に他ならない