清濁

清濁も一如なりて、心の表裏一面の分別に如かず
清濁併せ呑むは.器量(度量)を要するものだが、当今は清濁を使い分ける者を.優れしと嘯く.小賢しき者多し....
清濁を使い分ける者とは、表では立派な事(プラパンチャ・戯れ言.能書き.綺麗事.観念.空論)を宣いながら裏では打算と我欲に終始する.他人からは見えにくいが.不誠不実なダークな闇を抱えている.真には心が不健康で.貧しい人を言う。
[医者の不養生]と.お医者様にも喩えられるように他人には養生や摂生など.立派なことを説きながら.自分の本意は別の処にあり.養生や摂生などの実行が伴わない人を事をいうが、確かに学者や医者というものは.いつの世でも他人の偏った学説を.さも最っともらしく自説の如く唱えるが更に新たな学説が主流となると又候、自分の自説のように宣うもの、例えば身体の健康にとって一番の害が[ストレス]であり.万病の元となる免疫系の働きを低下させる事は2500年も前から知られてる事でありお医者様にも判っている筈なのに.作為ある学説であっても学閥や医療費を優先させ、検査と投薬に終始しながら自分は少しでもストレスを溜め込まないように心の養生に励んだり、一見すると不養生な生活を送る人は案外多いものだ..
又、宗教家とか僧侶の中にも仏教が何を説いているのか真には理解していない人達は多く、神仏に祈って幸せを恵んでもらう方法が説かれていると本気で思い込んでいる人もよく居るし慚愧な心など持てないが.作法や儀式を習得すれば教義や理にも適っていると無思考に錯覚している人も多いが、突き詰めて言えば、心が健康で.心が豊かな人は、自ずとストレスも軽減され免疫系を始め.心身共に調ってゆき.当然として幸せへと向かうし.輪廻の激流も穏やかな流れとしてゆければ、来世へも穏やかな良い流れを運んでいけるという天地自然の摂理(自然法則)を説いているのである。
来世などないし.輪廻もないと宣う刹那的で短絡的な者が増えて主流をなすと、そちらへとぶれたり、魂論が人気を博してくると.魂論へとぶれたり.各論的な考察に過ぎない見解で全体性を分断したり破壊したりしながら. 科学や実験で証明されても.天動説や創造神などの妄想から乗り越えられない本音を隠して清濁を分断.分別して使いわけようとする。
この世界は、すべての両極を分断.分別して捉えることは偏り(偏見)であり、この世界は、相補的に両極が対立しながらも溶け合いながら現象として全ての物事を形成しているのであり、生死も.善悪も.清濁も.陰陽も.苦楽も.....全てが一見、単独的に個々に現象しているように存在しながら.天地自然の理法(自然法則)に支配されているのである。
分断化.分別化.各論化という全体性を切り刻み取った観念や、数字に置き換えられた天地自然の摂理は.もはや真実の姿を現してはいないのである。
つまりは全ての現象とは.全体性により成り立つ現象であって、断片的な現象.各個的な現象を以って.全体性を把握することは出来ないのである。
故に相補的関係性とは確率的にしか予測する事が出来ず、その確率の低さ.高さを以って.有る無いを論じようとする事は短絡的であり、他から独立して単独では存在し得ない現象を生死を分別して捉えようとする事は刹那的であり[木を見て森を見ず]という全体性の破壊.分断化に過ぎないのである。
この世界は膨大で途方もないエネルギーの流動による現象世界であり、生への渇望.渇愛.欲望がある限り生命もまた生きてる間も.死んでる間も.輪廻し.流動してゆくのである。