苦の考察

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苦の考察
中道が理解できない人達は、楽(スカ)とは愛おしむべき目的物であり、苦(ドゥッカ)とは忌むべき災厄のごとく忌避するが、苦楽とは表裏一体なものを分別して捉えているだけに過ぎずない、だから楽を捕まえたと思って掌を開けてみれば苦であったりもする。

苦(ドゥッカ)とは[為すべき事をなせ]という刺激でもあり、もし仮に空腹という苦が生じなければ食事などせず栄養失調で死んでしまうだろうし、空腹を癒やし満腹となった後に苦が生じなければ排泄などせず糞詰まりや膀胱炎で死んでしまうだろう.
もし打ち身に痛みが伴なわなかったら全身.痣だらけとなり.皮膚呼吸が出来ずに死んでしまうような落ち着きのない人もいるだろう
つまりは人は苦(ドゥッカ)によって生かされているのである。
生.老.病.死と愛別離苦.求不得苦.怨憎会苦.五蘊盛苦という四苦八苦にしても.生存苦でも無意識にでも.死という苦があるから.生に価値が見い出せるのであり.もし死ねない存在であれば.生きる事は価値観の見い出せない苦痛となり.死ぬ事を夢見る事だろう。金銭苦でも日頃.身の丈にあった生活と備えを心掛け、苦しければ金策なり働くなり.策を巡らせれば生きて行けるものだし、元来、金銭など単なる便宜的な手段的価値の付随物に過ぎず.その多寡で満足を量る事も生きる価値も量る事も出来ない道具(アイテム)である金銭を、上手く使いこなすだけなのだから。
苦(ドゥッカ)に尻を叩かれながら、懸命に生きるから充実した良い人生を創っていけるのであり、苦がない人生とは無明で妄迷なまま無為に不毛な時間を浪費してゆくだけ。

人なり.物なりを失なう苦(愛別離苦)でも、常ならず無常に変化生滅してゆく理法でも、そうと受け容れる事が出来ない無明な自分が、当たり前の事を当たり前と思わず、当たり前ではない物事を当たり前だと錯覚しているだけである事に気付き.理解すれば.所詮は人間である自分の能力ではどうにもならない物事を.どうにかならないものかと執着してしまう愚かさに気付き、不毛な執着から解脱する事も出来るだろう。
苦とは負担量の問題であり、それは生きる意味.価値.目的を教えてくれて為すべき事をなすように励ましてくれるものなのである。

●希望と絶望
多少.話は脱線するが[昨今.不満のない若者が増えている]と言われるていますが、本来、[不満がない]とは[満足している][満ち足りている]こといを言うのですが、昨今は、夢や希望を見い出せず、希望を失った絶望の中で、努力と精進を諦め何も望まないから不満も起こらないという.実に消極的で退廃的な思考が蔓延しているが.これは苦行にも似た.苦に馴染み依存し、負担と感じる苦(ドゥッカ)を軽減させているだけに過ぎず.苦の中を彷徨いながら自分には不満がないからと.錯覚しながら.心の中には不満と怒りと貪欲(貪瞋痴の三毒)などを溜め込みながら絶望しているだけで、やがては自分の本音に気付くときには、必ずと言っていいほど.捻くれた正義を振り翳したり.社会を恨んだり憎んだり復讐を試みたり.自暴自棄に陥ったりする危うい道を歩んでいるのであり、自分の苦をよく前向きに見つめ.苦の本質.苦の正体を理解すれば脱出する事も容易なのであり、その道を説いているのが[四聖諦]である


●勘違いしてはいけない苦を考察したのだが、決して.苦行などの愚かで偏った思想や後遺を礼賛してはいない。
苦行という禁欲主義的(ストイック)なものは怒りに基づいて成立するものであり、人間の精神を歪め硬直化させ貶める事はあっても決して精神性を高めてはくれず、経験知として行ずるものであり、執着と偏りから解き放たれた悦楽の中に智慧の覚りは啓ける。
その為には、その時その時の自分に詳細に気付いてゆく必要があります
[今、自分は苦しいか.楽しいか.苦しくも楽しくもないか]
[今、自分は快いか.不快か.快でも不快でもないか]
[今、自分は落ち着いてるか.焦っているか.落ち着いても焦ってもいないか]
[今、自分は集中しているか.散漫か.集中も散漫もしていないか]
●[心の状態][感情][感覚(眼耳鼻舌身意)の状態][身体の状態]に気付いてゆくと自ずと真実(真理)が見えてくる