生存苦

 生きていれば苦は纏わりついて来る…
生きるとは苦であると確かに識って…
苦(ドゥッカ)から目を背けてはならない...
苦(ドゥッカ)に誑かされてはならない…
苦(ドゥッカ)に翻弄されてはならない…
不安定で.不完全で.一時的で.短命な[楽]とは、苦が楽の姿をとって現れている仮りの姿に過ぎない…
苦を本当に理解し.受け容れた時、堅固なる大楽は訪れる…

【苦は無明から生じ、愚心に付き随う】

⚫[艱難辛苦]を厭わず

[願わくば我に七難八苦を与えたまえ]と神仏に祈った武将の話は有名ですが、
願望を適える為には、兎角.楽な方へ流れようとする自分の心の弱い部分を.鍛える苦労や努力が必要な事を言っているのであり、仏教では[所有の次元の事物]の所有量の多寡により.人間としての価値を量ることは出来ず、所有の次元の事物とは目的のための便宜的な付随物(手段)に過ぎない虚しく儚い本質のものだと説かれ、一般社会(俗世)では、私は金持ちになりたい.私は知識を身につけたい.私は高い地位につきたい.私は幸せな家庭を築きたい.私は権力や勢力が欲しいというような我欲を肯定的に捉えていますが、仏教では自分と他とが両立共存する自利利他を善とし我欲への執着を[苦の根源]として戒めます。
そしてそれら欲望を成し遂げようとする時に、必要となるのが苦労を伴う努力であり.努力を惜しまずに智慧を伴って続けていけば運や縁に翻弄されながらも誰でも必ず何かしらの良い未来が開けてくるものです…しかしそれが判っていても現実には苦や努力を続けてゆくことから逃げてしまい、中々できないものなのではないでしょうか。
成功する為には、他人と同じことをしているだけでは[その他大勢(大衆)]から抜け出すことなど出来る筈もなく、まして決められ.パターン化したレールの上を無思考に走っても.そこからは何の発見も.進歩も.改革も.生き甲斐も生まれないのです。
自己の成長.自己の存在性のためには、生存苦を真正面から受け止めて乗り越える覚悟が必要であり、それなりに苦しみと努力の継続が要求されるのです。ほんの少しの努力で成し遂げられる事など多寡が知れたものでしかなく、そんな努力ばかりしている人が大きく成長することなどありません。
自利利他の伴った自分の為にも社会の為にもなるような夢や目標の達成のために必要な苦労だと思い、苦労から逃げず.寧ろ苦労を買ってゆく位の姿勢が、苦労だと思っていた事が実は快楽だったと気付いたり、成功や自分の成長に繋がってゆくのではないでしょうか。
生きるとは苦のエネルギーによって成されているのであり、腹がすくと苦しいから食事をし、満腹になって楽を得ても.暫くすると苦しいから排泄し.楽を得るを繰り返しているだけで、眠くなると起きているのが苦しいから眠り楽を得て、睡眠が充分とれば寝ているのが苦しいから起き上がり楽を得るを繰り返しているだけ、立っていれば苦しくなり座り楽を得て、座り続けていれば座っているのが苦しくなり立ち上がって楽を得るを繰り返してるだけ、生きるとは凡そ苦と楽を繰り返しているだけであり[苦がなければ楽もなく.楽がなければ苦もなく][苦あれば楽あり.楽あれば苦あり][苦は楽の種.楽は苦の種]
陰陽が一如なように苦楽も一如なり、分別.分断して苦なり楽なりにフォーカスを当てて捉えてるだけ...つまりは冷徹厳峻なる生存苦とは、捉え方しだいで生存自体が最上の快楽でもあり、苦を願い求めるとは.それ即ち苦の先にある楽の追求なのである、しかし苦行など[苦]を主体的に捉えてはならない...苦の本質は[怒り.不満]であり、楽の本質は[喜び.満足]である...苦(怒り)を主体.尺度とした生き方は人を穢れ.汚してゆき、楽(喜び)を主体.尺度とした生き方は人を清め浄化してゆくのだから...
苦とは現われている現象を.[苦しい]と感じた時からが苦なのであり、苦と感じるまでは楽なのである…つまりは苦を客体として捉え、苦の負担量に注意して負担量を減らせばいいだけ…
現象的存在ならばこそ.楽しく清く存在した生命から成仏してゆくのですから…

【定義】

🔵ドゥッカ

不安定さ・不完全さ・苦しみ・悩み・憂い・難儀さ・迷い・心痛・嫉妬・憎しみ・恐怖・哀しさ・悔い・飽き・退屈・儚さ・脆さ・弱さ・空虚さ・惨めさ・実質のなさ・不満・不本意・怒り・無常さ・無明・欲・渇きなど

 🔵所有の次元の事物 

金銭・財産・物欲・地位・名誉・称号・身分・権威・権利・承認・理解・権力・勢力・威力・家族・仲間・健康・長寿・容姿・知識・情報など

🔵存在の次元
人間性・精神性・人格・人の質・人柄・器量・知性・存在感・本質的性質など

🔵真実を歪めるもの(色フィルター)

思い込み・勘違い・欲目・固定観念・既成概念・錯覚・誤解・無知・主観・感覚・感情など