負のスパイラル

●負のスパイラル

人生とは平坦な道ばかりではなく.山もあれば谷もあるものです…

そして折角の人生.平坦な道ばかりを歩いているのも又.苦(ドゥッカ)でもあり.それは飽き.変化のなさ.刺激のなさ.感動のなさ.顕貴(ときめき)のなさなども.苦(ドゥッカ)に他ならないのですから…

例えば.人が無刺激な状態に置かれたら.果たして.どうなるかという実験を.科学者がしたそうです…

その時.人は.約一ヶ月の内に気が狂ったり.死んでしまったそうです…

また宇宙飛行士が.負担の少ない数日間の無重力状態で負荷運動を欠かすと.帰還して地上に降り立った時に.足腰が立たなくなるそうです…

例を挙げれば切りがないのですが.要は苦(ドゥッカ)によって人は生かされているとも言えるのです…

そして[苦楽一如]と言われるように.本当は苦も楽も同じものなのです…

その刺激や負担を.苦と捉えるか.楽と捉えるか.捉え方次第でもあるのです…

例えば普段.粗食で過ごす私が高級料理にありついたとしたら[ラッキー]とばかり.天にも登る食事を嗜むでしょうが.高級料理ばかり食べている人にとっては別に感動も喜びもなく.却って嫌悪を感じる事さえ有るかもしれません…

同じ.一つの食事を奥深く.喜びに包まれて味わえる私が幸せなのか.食べ飽きて感動も顕貴(ときめき)も喜びを持つ事も出来ない感覚が麻痺した人が幸せなのか.人それぞれの考え方と言うより.[捉え方]の問題だと言えるのです…

また多くの人は.主観で[自分の判断は正しい]と自己肯定しながら生きています…

そうでなければ先へ進むことが出来ないのですから…

例えば.そんな自分を人が非難したとします…
そんな時.素直に[よく教えてくれた]と歓ぶ人など居ず.大概誰が[何を〜っ!]と.自尊心を傷つけられたと怒ることだと思います…これは自己防御反応なので.仕方がない事なのです…

問題なのはその先であり.知覚が感知し.認知した五蘊(精神作用)による感覚.感情に捉われ.拘り.執着し.苦(ドゥッカ)を造り出すか.つまらない見解.下らない見解.どうでもいい見解.無明な見解.愚かな見解だと.毀誉褒貶に塗れずに捨て去るか.また[火のない処に煙は立たず]と言われるように.自分では気付いて居なかったが.愚かな処があるあるのだろうと.自我意識(エゴ)を手放し.楽の種として自分の向上の為に役立てる事が出来るかにより.人生は天と地ほどの差となって現れてゆくのです…

大切なのは無常な自我意識(エゴ)なのではなく.自分を抑制コントロールしてゆく自制心しだいなのです…

苦を積み上げてゆくも.楽を積み上げてゆくも.刻々と現れては.変化して消えてゆく現象側の問題なのではなく.自分の無明さの問題なのですから… 

また拙僧が辻に立っている時たまに[私には良い事がなく.悪いことばかりなのですが.どうすれば変わっていけるのでしょうか?]と尋ねられる事があります…
そんな時、その人物を見て陰気風だと、先ず表情を注意します…そのどんよりした無気力な表情を明るく努めるだけでも、運命は変わってゆくのです…また、物事は良いこともあれば悪い事もあるものなのに、良い出来事には気付かずに悪い出来事ばかりに目を向けて居ると、負のスパイラルへと入っていくのです…
物事は波動の流れなのです…小さな良い出来事にも軽んじることなく気を止め.感謝して喜んでゆくと運気は[良し悪し]という波動の中で上昇してゆくのです…一方.悪い出来事ばかりに捉われ苦しみ嫌悪していれば運気は[良し悪し]の間を流れながら益々、下降してゆくものなのです…
[福が来るから喜ぶのではなく、喜ぶから福が来る]のですから…

[気持ちを変える 捉われ.拘り.執着.雑念.妄想から解き放たれる]

 

●負の思考
①他人を非難する 
自身の自信のなさが他人への非難や攻撃に繋がってゆく
②他人と比較する(承認欲求)
自分の価値観と他人の価値観は違うもの、価値観は人それぞれのものなのに、自分の価値感や生き方に満足出来ないから、他人と比較して優越感や心の安定を図ろうとする
③無いものねだり
持ってない物への渇いた欲望、不平不満を抱いても何も解決しない…それが本当に必要なものなら目的意識をもって努力するだけ…
④過去の栄光や挫折に捉われ拘り、未だ到来しない未来を妄想的に幻想する
大切な時間を無駄に浪費するだけであり、今を見ようとしない…今に手を抜く事となる
⑤自分より他人を変えようとする
他人を受け入れ、自分が他人に合わせる位の心の豊かさを育成しよう
⑥現状に甘んじ満足してしまい.成長や向上を止める
絶対真理に到達し涅槃(ニルヴァーナ)に暮らしても尚.精進を欠かす事がないよう克己する
⑦廻りに同調しすぎて自分の意見を持たない
他人の意見と自分の意見が全く同じ事など有り得ないにも関わらず、結果を怖れて自分の意見を葬り去り.それが[和]だと錯覚してる
⑧考え過ぎ、その深み(負のスパイラル)へと陥ってゆく…ゴチャゴチャ.グチャグチャと考え過ぎたり、悩んだり、雑念や妄想に陥り、ストレス.不安症.うつ病などを招く
⑨物事を後ろ向きに捉える
物事を前向きに捉える、諸行無常…全ては現象であり変化しては消えてゆく移ろいゆく性質のものに過ぎない…因縁論や宿命論的な負の思考(マイナス思考)で物事を捉えない…
⑩路傍の如来 如来品正師 多々方路傍石を愛さない…冗談😂
●今ある幸せに気付く

人は皆、喜び.幸せを探し求めて生きているのでして、不幸になろうと不幸を探し求めてる人など.ほんの一部の変態以外には居ないのです.それは無明な苦行の中に明け暮れてる人達にしても.争いの中に身を窶している人達でも.これから自殺しようとする人でもその中に喜び幸せ安らぎを見い出そうとしているだけなのですから…
皆んな平然を装い.常識人を装っていても、心の中は喜びや幸せを探し求めて余念なく、不幸や苦しみに.くれぐれも出会わないようにビクビクしながら、それでも喜びや幸せを求めて五感器官を外界に向かって駆使していて.心は決して平静でも満たされてもいないのです…
しかし喜びや幸せは探し求めるものではなく[気付く]ものであり、堅固で安定的な喜びや幸せを達成する為には、先ず.今ある幸せに気付かねばならずく、それは堅固で安定的な幸せや喜びとは、今ある幸せの上に到達するものなのですから…
例えば[幸せの青い鳥]では、チルチルとミチルも[幸せの青い鳥]を求めて世界中を探し回ったのですが.何処にも居なかった(見つけ出す事が出来なかった)のですが、落胆して自宅へ帰ってきた時、庭先をふっと見上げた庭先の木の枝に.幸せの青い鳥はとまっていたと言うようなお話しですが…丁度、喜びや幸せを外界(世界)に向かって探し求めてる皆さんこそチルチルとミチルであり、心の中に在るのは不足と不満であり、心の充足の為に物質はの所有欲という欲望の中を旅しているのですが、幾許かの喜びや幸せと引き換えに多くの苦労を造り出しているだけで、決して心が満ち足りる事がないのです…

それはある意味、餓鬼心の中に居る事に他ならないのでして、例えば食事にしても.空腹という苦を癒せば.腹は満たされて.それ以上の食事は[苦]となるものなのですが、餓鬼とはいくら食べても満ち足りる事が出来ないのです、
それは今すでに在る幸せに気付けず、喜びや幸せとは本当は何なのかさえ解らないまま煩悩的な衝動に促されて、無闇に探し廻っているだけの状態と言え、先ず、今すでに在る幸せに気付いて幸せ.喜び.満足の中で、本当の幸せ喜びへの階段を一歩一歩登っていくものなのですから…
しかし夢や希望や理想を捨てた抑圧された幸せなど、本当の幸せではないのです…

物事の本質が真理見え、その無価値さに気付き、その無価値な物事に振り回されず、捉われず、拘らず、執着から離れた堅固な安らぎ(幸せ)と無明の闇を晴らした悦楽の中に
喜びや幸せとは、気付くもの。
既に沢山の喜びや幸せを持っているのに気付けずに、愚痴や不満ばかり言う人がいます…

愚痴や不満の中にいては新しいものなど創り出せる筈もなく、愚痴や不満な日々は楽しくも喜びも持てず、愚痴や不満ばかりを積み上げながら.益々不幸になってゆくのです…
そんな愚痴.不満.怒りなどの苦(ドゥッカ)は加速度をつけ.負のスパイラルへと陥ってゆくのです…
そんな人達が.自分の不幸の責任を社会や他人のせいにし、自分の不平不満を何かしらにぶつけて溜飲を下げようとクレーマー化するのです…

物質文明.競争社会.情報化世界の中では顕著な現象でもあります…

●幸せは気付くもの

今ある幸せが活力を生みだす
前向きに生き、他人を思い遣ったり.気使う[心の余裕]が持てる

豊かな心が育ってゆく(豊かな心と貧しい心)

●今ある幸せ(楽は苦の種. 苦は楽の種)

今、既にある幸せに気付く事が、楽しく幸せに生きる秘訣です。
※平和な社会は大いなる幸せ
阿呆な政治家が権力を握れば簡単に消え去る平和な社会
悪意ある者が増えれば造作なく破壊される平安な日々
※今日も元気に歩いてる
松尾芭蕉「旅に病み 夢は枯野を駆け巡る」
病んで覚ったが、元気に歩いて旅する事ができるのは、実に幸せなもの
※今日も生きている  
惜しくも早死する人もいる.事故や災害で無念に世を去る善人もいる.何故か今日も生かされている(人間なんて当たり処が悪ければ豆腐の角に頭をぶつけただけで死ぬ事もある脆い存在)
※今日も美味しく食事できた
笑い事でも当たり前でもなく世界では今でも餓死者が毎年.何十万人.何百万人も出るのです。
※人間、自分が他から独立して自分の力で生きているという思いは錯覚.過信.無明.思い上がりでしかなく.天地自然.他人様.他の生命のお陰様で生かされているのです。
※他にも etc…
無思考から脱出して智慧や記憶を駆使すれば幸せの種は、幾千.幾万と発見出来るはずです.
●四苦八苦は幸せの種
[楽は苦の種 苦は楽の種]
楽を尺度に物事を見れば、世の中は苦(ドゥッカ)だらけに感じ.苦(ドゥッカ)恐怖し.厭いながら生きる事となる…
しかし苦(ドゥッカ)を尺度として見れば、世の中は楽(スカ.安楽.幸せ.喜び)だらけに感じ.楽(スカ)を楽しみ味わいながら生きる事となる…
苦労は買ってでもしろと言われるように、後の報酬は大きいのです…
苦労を知らずに社会に出たような人は、ちょっとした負担にさえ耐えられず.人生に真正面から向き合えずに.苦(ドゥッカ)から逃げ回るような人生を送る事となるもの…
【四苦八苦】
生.老.病.死
愛別離苦 愛するものとも別れなければならない苦しみ
求不得苦 求めても得られない苦しみ
怨憎会苦 怨めしい人や憎らしい人とも出会ってしまう苦しみ
五蘊盛苦 五蘊作用(精神作用)が造り出す苦しみ
朝(あした)に道を聞かば 夕べに死すとも悔いなし
朝(あした)に生を授かれば 夕べに死すとも悔いなく過ごす

正 見

人、ひとたび正見を得て覚醒すれば草木山河.目に映るもの全ては清らかにある…
心が清らかにあれば.その赴く処.自ずと何処も清らかなり…
世界はひとえに人の心の在り方次第…
穢れて醜いものだと感じる人は.穢れて醜い処ばかりに目が向き…素晴らしいと感ずるならば素晴らしさを見い出すもの…
◆サティとサンパジャーナ(正念正知)
正見とは何であろうか…それは、苦に関する知、苦集に関する知、苦滅に関する知、苦滅道に関する知、これを正見と言う…
正念(サティ)と正知(サンパジャーナ)が組み合わさった正念正知は[覚照力]とも呼ばれる…
経典によれば正念正知は[殊勝な救済力のある功徳]であると描写されているが.それは正見の成就と八正道の体現.証悟に対し用いられる表現であり、これら三法は[明覚]とも[三心]とも言われる…

 

正しく見る[正見]とは、皆さんが無明(本質的無知)であるという前提の言葉なのです…

それは有名大学を卒業してようが.識者としての権威者であろうが.ノーベル賞を貰おうが.皆から揃って天才だと讃えられようが、真実を照らしだす光明を持たずに.一寸先は闇の中を怯えながら手探りで辛うじて歩いている存在に過ぎないからなのです…
◆正見するとは…
正見するとは、ただ因果律(縁起)に従った[現象]の生起や変化や消滅として物事を見る(捉える)ことであり、因縁に従った縁起の上での変化生滅という出来事に過ぎず…もっと言えば感知し.そして認知した瞬間には変化生滅してしまっていて、前の感知し.認知したものは既に無い(存在しない)にも関わらず.それを固定的.継続的に捉えようとする無明な認知能力による錯覚に過ぎない事に気付き.物事をそのように捉えてゆくのが[正見]であり、まして一日の内の大半を締めている[どうでもいい事柄][下らない事柄][つまらない事柄][大した事もない事柄]に何時までも捉われたり、拘ったり、ゴチャゴチャと執着してしまうのも無明だからなのです…

[正見すれば愚かな物事への厭離の心が生じ.自ずと解脱する]

◆眼耳鼻舌身意 (六竟)         視覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      聴覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      嗅覚は無常で(ドゥッカ)なり…       味覚は無常で(ドゥッカ)なり…       触覚は無常で(ドゥッカ)なり…       意識は無常で(ドゥッカ)なり…       六竟.何れも無常で苦(ドゥッカ)なり              ◆五蘊                 身体は無常で苦(ドゥッカ)なり…      感覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      感情は無常で苦(ドゥッカ)なり…      主観は無常で苦(ドゥッカ)なり…      五蘊.何れも無常で苦(ドゥッカ)なり…         これらを信じて世界を見れば、自ずと三毒(貪瞋痴)を生じ、三毒(貪瞋痴)に基づいて思考する事となる…              ◆四念処 (私という本質は無し)     [色念処]  身体は身体に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…[受念処] 感覚は感覚に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…                  [心念処] 感情は感情に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…                  [法念処] 五蘊(精神作用)は五蘊に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…

◆慈悲                 そして、こうした事実を明確にはっきりと見極めたときに「嗚呼、生存苦(生きる上で付いて周る苦しみ)というのは、ただ.ただ無明(本質的無知)によって生じてくるものだったんだ…」と目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放たれる(解放)ことが出来、そうだったんだ.「他人のせいでも世の中のせいでもなく、皆んな懸命に生きているのだけれど.無明(本質的無明)なままだから因縁の連鎖から出て行く方法を知らず、あるいは正見の理法(八正道)の実践をする機会もなくて、煩悩(貪瞋痴)に駆られたり.翻弄されたり.苦しみ悩んだりして、迷いながら苦しみ(ドゥッカ)の連鎖の輪の中を.ずっと廻り続けているんだね」ということもわかり、それによって、「人間って悲しい存在だね…無明って本当に辛いよね」と苦しみ(ドゥッカ)に苛まれる一切衆生への共感的な慈悲の心が生じてくるのです。      

●自我の妄想              色受想行識(五蘊)という五つの要素が結合して働くとき、そこに[自分.私]という概念を生じさせ実存的.実体的.実相的な存在という錯覚が自我意識(エゴ)を造り出し、本体的な魂.霊魂.霊体の存在という妄想へと繋がっていくのですが、正見を阻むのがこの[魂.霊魂.霊体]という得体の知れないものの存在への錯覚と自己暗示でもあり、それが因果律(縁起)に従った無常な現象に過ぎない感覚.感情.想念.概念.主観などを.本体的な存在(魂)の意志によるものだと錯覚させ.捉わらせ.拘らせ.執着させ.縛り付けて、[正見]を歪めてバイアスが掛かった偏ったり.誤認.誤智した物事の見方をさせてしまうのです.ですから自分は考える故に、自分という実存的な存在があるという錯覚こそ、自分を縛り付け.自分を苦しめる.自我意識(エゴ)の犯人でもあるのです…[思考はあっても、その思考の背後に本体的.主導的な思考者など居ないのです…]

●人生に勝つ              何を目指すにしろ.人生に勝つには[意志と信念と智慧]が必要です…そしてその為には[自制心と集中力]が欠かせず、[好事、魔の如し]と言われるように何をするにしろ[意志と信念と智慧]を以って物事に向かっていけば.何かしら形が出来ていくものなのですが、順分満帆なときに魔は忍び込み.自制心と集中力を削ごうと煩悩を刺激するのです…そんな煩悩に打ち勝って自制心と集中力を欠かさなければ、余程の運気に恵まれない因縁さえなければ(浄化)、殆どの理性に基づく願望は叶うものなのですから…もしそんな事はないと思う人が居るとすれば、それは自分の可能性を信じなかったか.努力を怠ったか…何れにしても自分に負けたのであり.決して 社会や他人に負けたわけではないのですから…

因果律(縁起.因縁)に従って生まれてきた自分とは現象に過ぎず、現象は成長し変化し消えてゆく性質のもの…           苦(ドゥッカ)のエネルギーによって生かされる身では在るけれど、それらが理解できる人の身に.折角生まれることが出来たのだから、ただ儚い[存在]を感謝し奥深く味わい、この時空.そして苦楽に翻弄されない処までの到達を目指すか、また.この時空に繋ぎ留められるとしても良い処へと再生してゆく為にも、目的意識を失わず[意志と信念と智慧]を以って[自制心と集中力]を育成して、功徳を積んで.心の汚れ[吝嗇(貧しい心.尊大.横柄).邪心.悪心.無知.貪欲.怒り.不満.迷いなど]を浄化してゆくことが、善い来世へと繋がってゆくのです…(三世の因縁により.たとえ此の世で成功し良い思いをしたとしても.心を汚したり.他の生命を蔑ろにしたり.無明の闇を晴らさないままなら、来世は真逆な境遇の処へと再生することになり、また此の世では余り恵まれなかったとしても、心の浄化に努め.他の生命を慈しみ.無明の闇を晴らしてゆき決して酔生夢死しなければ、必ず来世は再び人の身として善い処へと再生する事が出来ます(因果の理法) ●悟 り (大悟)            悟りとは真理(真実.事実.現実.実相)の究明であり、その向かう方向は物理学者と同じ方向でもあり…ただその方法が、外世界の観察と数学に依って到達するか、心の中に具する宇宙に人知を超えた智見に依って到達するかの違いだとも言え、物理学も約2500余年を経て.随分と仏教真理に近づいて来たとは言え、残念ながら今だ道半ばに過ぎず.人工的な電子.光学機器と数理での探求法により真理への到達を目指すには限界がある一方.一源の根源エネルギー自体の運動性(波動)により形成される心的エネルギーの情報の究明による到達(大悟)は真実の如来の教えに.その実相は語られる…

その為には悟り(大悟)への確信と智慧と勇気と努力か必要となるのです…       先ず、自分は何を求めて何処へ向かおうとしているのか明確に自覚しなければなりません. 修行者とか行者という名称により.悟りが啓けるわけではなく、明確な目的意識と確信と智慧と勇気と努力が無ければ到底.辿り着くことが出来ない涅槃なのですから…   魔の誘惑を退けつつそれらを正しく明らめ啓くには、冷徹厳峻に自分自身を見つめる正見が必要であり、それには勇気も必要なのです…しかしその道は決して難行苦行の道などではなく、その道は.他人様には禁欲的(ストイック)に映るようですが.安らぎと悦楽の中を春の麗らかな日差しに照らされながら歩くような中道と言われる道なのです…         ●多くの人達が誤解されている.瞑想.禅定.内観.観照などによって得られるサマーディ(三昧)は真理への入口ではありますが.決して悟り(大悟)の境地ではないのです…お釈迦さまも仰るように、それは変化生滅してゆく性質のものであり苦(ドゥッカ)に他ならず、しかしこのサマーディ(三昧)を得る処から仏の教える絶対真理の世界へと歩を進めてもゆくのです…ここで惑った人達はサマーディ(三昧)に沈殿し.立ち止まり世捨て人となってゆくのですが、サマーディ(三昧)もひとつの感覚でしかなく、主体.客体の分別からは離れても.やはり変化生滅しながら麻痺し.飽き.苦しみ(ドゥッカ)へと行き着いてしまう性質のものなのですから…                サマーディにあってもその変化生滅してゆく[無常]を直視する事を怠り、心地よい状態を保つことを求め続け目的化している限り.智慧(叡智)は顕現して来ないのですから…    [悟りしと 山を下りれば ただの豚]

無明な人達が喜びや幸せだと勘違いしているものは、藁束を煮て焼いて美味しい.美味しいと食べているようなものであり、心を浄めることもなく果てしなく便宜的な付随物に過ぎない所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権力…)を追い求めるのは愚かな事だし.わざわざ苦しみ(ドゥッカ)を造り出すだけなのです…
精神の向上、心身の調和を図ることなく唯、欲望のままに名利や財貨を追い求め享受していては内なる健全さと心の安定は永遠に得られないだろう…
人は自ら進んで内面に向き合い[心の充実]と[精神の向上]を図るべきなのです…
それは心の調和と安定や精神性を開発.向上することによって.もたらされる愉悦が如何に甘美で堅固な美味を奥深くあじわうものです.

如来の出世

私たちの生活を大きく一変させて、社会.経済.娯楽.教育.文化.芸術.思想に至るまで深刻な影響を与え続けています…
当たり前にあったものが脆くも崩れていくような怖さ.不安.ストレスを多くの人達が強く感じながら毎日を過ごしています…
社会的距離を保つことは大切ですが、心の距離までもが離れていくとエゴと怒りと心の貧しさに監視された生きづらい世の中を造り出していく事とも成りかねません…

今はそういう[大きな選択]の時を迎えたのです


邪教が世に栄えると…
大災害は頻発し.疫病は蔓延し.社会が破壊されてゆく.
悪が世に蔓延ると…
人心は荒廃し.社会は乱れ疲弊してゆく.
騙る如来を崇め、真の如来を謗るは…
運気尽きて.世は衰退と滅亡の道へと落ち込んでゆく.

これ万古不易の真実なり…


如来 その大慈悲心で出世して…
如来 憐れみ辻に立つ…
一切万象 因果応報

一切万法 自業自得
衆生 心 浄めたもう
貧しき心を 浄めたもう
卑しき心を 浄めたもう
衆生 徳を積みたもう
衆生 無明を晴らしたもう
衆生 自我を離れたもう
衆生 軛(くびき)を解きたもう
一切万象 因果応報

一切万法 自業自得
目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放て(解放)


楽と不楽を共に捨て
いと涼やかに依着(いちゃく)なし
全ての世界に勝てる雄者(おさ)
それを如来と我れは説く…


快と不快を共に捨て
人間界の縛を捨て 天界の縛をも乗り越えて
全ての縛から解き放たれし
それを如来と.我れは説く


■勝利への道
真の勝利への道を如来は説く…
如来とは、如実の道に乗じて、正覚を来成するが故に、如来という。 
(如来者乗如実道来成正覚故曰如来
真の勝利とは此れ即ちドゥッカ(苦)からの解脱であり、ドゥッカである輪廻転生からの解脱をも指し示す。
[幾百人の敵に勝つよりも、己自身に勝つ者こそ、真の勝利者である]
■束縛からの解放
思考と想念で造り上げている[自分]という幻想と、汎ゆる物事に対する判断.善悪.好嫌.優等劣などの価値基準.固定観念.既成概念など、自らを縛っている全ての束縛からの解放
■四種の束縛
①感覚による束縛(五欲)
五欲 眼耳鼻舌身が色声香味触に触れる刺激(感覚)への欲望に束縛される(意欲による)

五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)と意(心)が.六種の対象物[色(物質).声(聴覚).香(臭覚).味(味覚).触(触覚)]と[法(心処)]に対する欲望に束縛される
※生きるとは何かに依存する事と言え、依存しなければ生存は成立し得ないのであり…生きるとは.即ち束縛である…
他から独立して単独には存在できない.関係性の上に存在しているに過ぎない…
しかし五感覚器官(眼耳鼻舌身)に刺激を与え.その程良い刺激を意(心)に捉えさせる事が喜び.快感.幸せだと錯覚して.感覚器官に刺激を与える事に余念がなく、束縛され感覚器官の奴隷となっている…
②存在欲による束縛
生命には[生きていたい.生きてゆきたい]という根深い存在欲があります…
生きてゆく為には何かに依存しなければならないのですが、それは生きる為の便宜的な付随物(手段)に過ぎず、決して存在の目的ではないのですが、根深い存在欲は、無常な生きる為の依存に激しく執着させる依存症への束縛
※所有の次元の事物への執着(束縛)
(生きる為の便宜的な手段として存在する付随物としての価値を有すが目的物ではない)
金財.所有物.社会的地位.名誉.称号.身分.伴侶.家庭.権威.権利.承認.理解.権力.勢力.威力.健康.寿命.若さ.知識.情報…など
③見解.概念による束縛
生きてゆく為には見解や概念が必要です…
物事の良し悪しから安全危険.必要不必要.向き不向き…と、全ては見解や概念により判断して、それに従って生きています…更には人生観.世界観.社会観から.得体の知れない神仏や魂や怪しげな力(フォース)から.宇宙人の在不在まで、それぞれの持つ見解.概念.主観.嗜好により、皆んなが皆んな.自分は正しいと自分の見解や概念に強烈に束縛されているのです…
真理(真実.事実.現実.実相)は、なかなか表には現れて来ないものであり、現代社会では尚更だとも言え…真理を如実に見て知るのには物事の本質を私見を交えず、冷徹に集中してよく眺め観察し.分析し.思惟し.洞察し.検証し.確証を得て理解出来る多少.厄介でもあるものなので、多くの人は社会に出回るプロパガンダや染脳的(洗脳的)な知識.情報や、偏ったり.誤ったりした仮説や憶測に過ぎないものを鵜呑みにし盲信したり束縛されたりするのです.
④無明(本質的無知)による束縛

一切の現象は無常であり、苦であり、無我であると、理解出来ず、理解しようともせず、生命は無明に支配されている…
(一切は瞬間.瞬間に現れては変化成長し消滅してゆく現象に他ならず、固定的実体は存在しない…)
無明…それは煩悩が造り出す欲望に束縛され奴隷状態で生きている事に他ならない…
※煩悩の欲望とは、永遠に存在していたい.永遠に生きていたいという存在欲が造り出す幻影に従った、永遠に存在する為に.プラスになると感じた物事へは、自分の元へと引き寄せたいと貪り、永遠に存在する為に.マイナスになると感じた物事へは、自分の元から遠ざけたいと怒り、永遠に存在する為に.プラスマイナス0ないし判別出来ないものへは不満や痴愚を生じさせる、貪瞋痴の三毒を栄養とする次元に依存し束縛されている事に他ならない…
★執着に束縛されない…とは…
放っておくこと…なり…ポクポク…
■参考   四念処
【サティパッターナ.スッタ大念処経】 

■解脱とは、如実知見を得て.この四種の執着への束縛から解放される事なのです。

★そこで昔から愚かな人達は言うのです…[それでは、世の為にも他人の為にもならない単なる自分の悟りとか解脱とかへの拘り.捉われでしかないものであると誹謗して、世界を救うとか.人々を救うとか.片隅を照らすとか観念的で空論に過ぎない能書き.戯れ言(プラパンチャ)を宣いながら、迷信的で無明な人々を、更に迷妄で無明の闇に包まれた得体の知れない神や仏への信仰世界へと誘うのです…
しかし全く違うのです…この世界、自分という存在、この世界な本質が[無常であり、無我であり、本質的には苦であり、空である]と理解できてこそ、真の自分の存在の価値とは、自分への捉われ.拘り.執着を離れた[世の中の為、他の生命の為、他の苦悩する人々の為]に生きる事こそ自己存在の意義と価値を見い出せるなですのではないでしょうか…
六道で言えば、自我へ捉われ.世の中を汚し.自分を省みず.他人を蔑ろにし.他の生命を不必要に殺め傷つけ害する心が地獄界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、我欲に拘り理解.評価.所有などを.もっと欲しいもっと欲しいと執着し満足する事を知らない心が餓鬼界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、人間性を喪失した倒錯した心が畜生界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、世界.社会.他人.他の生命と協調し和そうとしない心が修羅界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、他人への慈しみがあり又.自分への執着もあるプラスとマイナスのエネルギーが打ち消し合いながらも人間性を保っているエネルギー状態が人間界へ輪廻させるのであり、自分への捉われ拘り執着を離れ社会.他人.他の生命な為に役立ち.奉仕する心が.天界(安楽界)で休息し.その後に善い処(良い境遇)へと輪廻させるエネルギーを蓄積させるのです…
因みにお釈迦さまが何故、集い(サンガ)を造り教え導きはしたが、教団化するのを避けられ.亡くなられる直前まで.自らの食は自らの托鉢で賄われたのかと言えば、教団化すれば教団経営を主要な行となり、集客.集金が行となり、その為には真理を歪めてまで大衆迎合的に得体の知れない神仏や怪しげな力への信仰や脅し込みやらご利益という果報を謳わなければならなくなり、それによって自らを穢す事を厭われたからに他ならず、それは現在の各宗教.各宗派.各教団の教祖や経営者の有り様を眺めれば明瞭なのではなかろうか…
■如実知見 

束縛から解放されるには、物事を在りのままに観察し.分析し.思惟し.洞察し.検証し.理解してゆくことです。
そこには思惑.妄想.私見.判断などを一切はさまず、在りのままに[生きる]という事自体と、生きるという変化生滅を理解してゆく事です。
生きるという事が理解出来てくると、物事を正しく如実に見ること知ることが出来ます。
如実に知見するならば「一切の現象は、無常であり、無我であり、苦という本質のものであり、空なるものである」という真理を発見して解脱します…
[生きる]とは因果律(縁起)に従って紡がれた一時的に現れる瞬間瞬間の現象に過ぎず、そんな瞬間瞬間の現象を実存だと錯覚し、瞬間の現象に執着し.束縛され.それを最大原因として、輪廻転生という激流を流れ続けているのですから…
如来の徳は積み上がらじ…

如来はその徳を.衆生にと振り向けん…
如来の徳は授かりし衆生の功徳とならん…
■天界(梵天界)  
意識は五集合要素(五蘊)を必要とする
天界(梵天界)では非物質的な精神性の集合要素を形成する…しかし六道輪廻を輪廻する 五集合要素(五蘊)を具えた存在   
■仏界

一源のエネルギー世界
高次元の集合要素を形成
彼岸(外世界
■六道世界
彼岸の淵(宇宙の外淵に形成される天界)輪廻
此岸の淵(宇宙の内淵に形成される迷界)輪廻

承認と期待

最大の味方であると共に…
最大の敵でもあるもの…
それは自分なり…
世の中の毀誉褒貶に、塗れず.気を取られず.惑わされず.捉われず.拘らず.執着せずに.在るがままに.善の法香を放ち続ける…     
多くの人は毎日の生活の中で.或いは仕事の中で[私のこの努力を人に認めて欲しい]と他人からの承認を欲したり期待したりしながら[貪瞋痴思考]で生きているのですが、それは期待が外れたり、理解が得られないと、[自分はこんなに頑張っているのに人は何で解ってくれないんだ]とか[こんな筈じゃないのに…]とか、ドゥッカ(苦しみ.不満.怒り.哀しみ.悩み.虚しさ.憂い...)を生み出し続け.しかもそんな思いを積み上げながら生きていく事となります…
こういった承認欲求とは.幸せの三階層(精神性・絆.関係性・所有)の内の二階部分の絆.関係性.距離感に由来する欲望だと言え、期待とは三階部分の所有(思惑)に由来する欲望だと言え、多くの場合、殆どの人達は日々の暮らしの中で、周囲の人や社会や環境に、過度の期待や理解.承認を欲していないでしょうか?   
他者や環境.社会などへの過度の期待とか理解.承認は、自分で自分を窮屈にさせ.息苦しくもさせてゆくだけであり、因果律(縁起)に従って刻々と変化生滅してゆく此の世界に於いて.そうそう毎度、自分の思い通りに物事は運ばないものなのに、[努力は必ず報われる]などと短絡的な思考で猪突猛進したりと頑迷に生きれば、良し悪しの間を流れながら、いつか必ずドゥッカ(苦.不満怒り哀しみ憂い…)へと行き着いてしまうのです…
 仏教では[諸行無常][因果律(縁起)]と此の世界や私達の姿(実相)を現わしているように此の世の全ては留まる事なく常に移り変わっており、原因や条件が相互に関わりあって存在しているのであり、そんな中においては、この私の身体も感覚も感情も精神作用さえも常に変化し続けており、固定した私という実体的な存在などないのです…

しかし私たちはこの[在りのままの真実]に気づくことができず、常に自分の欲望の赴くままに自分の好き嫌いや、少しでも自分が楽になるように、自分が得するようになどと利己的で自己中心的な考え方でのみ物事を捉えてしまっている現状があります…

 他者(環境)に対する期待は、「恒常不変な私が存在する」という思い込みや全てを自己中心的に見てしまう我執(執着心)から生じています…我執があることで貪瞋癡(とんじんち)をはじめとする欲望が生まれるのだと仏教は教えています…

貪は貪り貪欲,瞋は怒り,癡は愚かさや妄想を意味します。例えば,期待をして(貪)応えてもらっても、自分の思いと違えば期待外れとなり不愉快に感じ(瞋)[何もわかってもらえない][地獄へ堕ちろ〜](癡)となります。まずはそんな自我意識(自己)から離れ、たとえ自分を認めてはもらえなくとも.相手を受け入れ相手を認めていく事が大切であり、そうすることで物事の本質に近づけるのではないでしょうか。

[この身は無常なり、受想行識もまた無常なり、無常なるものへの執着は即ち苦(ドゥッカ)なり]

「承認を期待しない」という考え方で日々を過ごしてみると、思うような結果にならなくとも、その原因を自分自身に探し出す習慣がついてゆくのではないでしょうか。言い換えれば[周りを変えてゆこうというスタンス]から離れ、先ず.少しでも周りから認めてもらえるような自分になれるように.冷静に現状を見つめ直して、今、身の周りで起こっている事や、当たり前(本当は当たり前ではない日々)だと錯覚している物事に気付き、感謝してゆく事から.たとえ凡俗に認められずとも真に価値ある自分を築いてゆく機会として頂きたいと願って居ります…

 


燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや…

目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)

プラパンチャ(戯れ言)

如来の前に如来なく.如来の後に如来なし…

 

真理の法は一法なれば...
一因に縁らず.一法に立せず…
然し明々歴々.一因一法を晦まさず...
仏教とは偏った極端な修行を避けるよう戒めています…その一端は怠惰な道であり.もう一端は苦行の道です…

しかし中道とは苦行と怠惰の中頃と言う意味ではなく.それは両極を乗り越え超越した究極の道の存在を示しているのです…
お釈迦様はその為には.実践に依らない[プラパンチャ]という単なる論理.能書き.戯れ言.観念論.空論.綺麗事に陥らないよう注意するよう仰ったのです…

それは世の中と言うものは実践による事実を素直に受け入れて認める性格を有して居ないものであり.論理.観念論.妄想的仮説とか伝統的な物事.思い込み.権威.信仰.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観.風格...などが優先的に信頼され.実践的事実や真理を包摂しようとさえする風潮があり.人々に単なる思い込みや仮説が.事実や現実を包摂することなど有り得ない事を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものであるからに他ならないのです…


例えば[無一物]にしても.負担のない安らぎの心境を.短絡的な人達はそれを[苦行]だと勘違いして忌嫌い怖れて.それがドゥッカ(苦)を生み出していると気付く事もなく所有に余念がなかったり.また変化生滅してゆく流れの中での.単なる無常な本質のものに過ぎない所有による喜びや幸せを.堅固なものと勘違いしたりしない為に.無一物であっても堅固な喜び.幸せ.悦楽の中に在る事が出来る事を.実践的に実証的に検証するのです…
⚫たとえ得るものが少なくとも不満を抱かず.清らかで勤勉な生活を送る者こそ讃うべき修行者である…

無一物の境地に至れば.苦悩はもう生じようがないのですから…


もし空気を失えば空気が如何に有難く甘露なものか心から気付くでしょうし.自ずと[お互い様とお陰様]の意味も見えてくるものなのです…
水の中に暮らす魚には.外の世界を理解することなど出来ないように.単なる観念論や戯れ言を美辞麗句で見事に修飾しながら.巧みに宣いながらも.その実は凡俗に馴染んでいては遂には真理に到達するもなく真理をプラパンチャ(戯れ言)となし.酔生夢死する結果となるのです…

因みに.折角.人の身に生まれながら欲望の充足に魅入られて[酔生夢死]してしまうような愚行は.輪廻の理法により微生物から捕食の関係性に則り転生を繰り返す事となるのですから…
[たとえ多くを語るにしても.その様に生活して居ないのであれば.彼れは修行者の部類にも入らない…]
今でも新たな在家組織や新興宗教やらが.正道から落ちこぼれた僧侶たちを巻き込んだりしながら雨後の筍の如く増えていますが.そもそも大乗仏教なるものを紐解けば.往時のそんな在家組織から発展している信仰集団なんですから…
真に仏教を理解せんと欲するなら.自己を啓発して.せめて五戒ぐらいは守っていく位の自覚が必要なのではないでしょうか…
●[何とかにも三分の理]と言われるが、その三分の理を乏しい根拠として自己正当性を主張.肯定して八正道を語るは論ずるに値しない…
それは煩悩(自戒.存在欲)による貪瞋痴思考に他ならず、愚か者であっても真実に準拠することもなく先に進む為に[自分は正しい][自分は間違ってない]と自己暗示を掛けながら生きているのである…しかしその先にあるのは真理(真実.事実.現実.実相)を蔑ろにした[何でも有り]の偏った世界なのだから…
維摩経勝鬘経などは凡そ釈迦尊(ブッダ)の教えと相反する教義を編纂した新興宗教団体が.それでも釈迦尊(ブッダ)の権威と名声には阿ろうと捏造した経典であり、仏説とは言い難く、それは多くの日本人が愛して止まないほど大好きな般若心経などにも窺えるのである…
[自分を真に救うものは自分だけ]であり、それを人々の救いを優先するという美辞麗句はプラパンチャ(戯れ言.能書き.観念.空論.綺麗事)に他ならない…
そしてそれらを盲信する人とは、本当には物事が見えていない人だとも言えるのです…
もしプラパンチャ(戯れ言.能書き.形而上観念.空論.綺麗事…)で人が真に救われるという人が居るとするなら、それはヤクザ映画でも見た後に肩を怒らして歩いている愚か者の錯覚を.真に強くなったと勘違いする事にほかならず.それらの理解した.救われた.目覚めた.乗り越えた.解き放たれた.覚ったという錯覚など、現実の前には無力なものであり、故にそれらを[寝呆け]とか[酔っ払い]と表現するのです…
折角の人生…酔生夢死する事が.果たして幸せな人生と言えるのでしょうか…


寝呆け.染められ.縛られたバイアスに気付き、

目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)

ドゥッカ(不安定)とスカ(安定)

生きるとは不安定さ(ドゥッカ)からの安定化(スカ)運動であると言え、この不安定さ(ドゥッカ)からの安定化(スカ)運動が、幸せや喜びを欲するのです…
この安定.幸せ.安楽.喜びを意味するスカ(sukka)とは、車輪(チャクラ)の軸穴を意味し、良く造られた軸穴(スカ)によって回転してゆく車輪は、円滑に.そして快適に自分を運んでいってくれるのです…

例え、ためになる事を多く語るにしても、それを実践しないならば、その人は怠惰な愚者に過ぎない…
牛飼いが他人の牛を幾ら数えても、自分の牛とはならないように、その人は修行者の部類にも入らない…
いくら修行を積んだ徳の高い僧侶と尊称され
徳の高い説法をしていても、そのように生活していないのならば、その説法は飯の種の詭弁に過ぎない…

♢プラパンチャ(戯れ言.能書き.詭弁.空論.…)

 

♠匹夫もて応えん…
 功徳を積まずして、何の成仏やあらんと
          如来品正師
功徳とは
善根を積むことによって得られる功能.福徳や、現世.来世に幸福をもたらす元(原因)となる善行.布施
●効能/功能 とはよい結果をもたらす働きやきき目.はたらきや人の質
●吝嗇りんしょく
もの惜しみ けち 粗末 価値がない人 心が卑しい 心が貧しい人 心が狭い人

 

世間の人が喜びだと言うものを、如来は苦しみと観る…

世間の人が苦しみだと観るものを、如来は喜びと観る…
世間の道と出世の道…この二つの道が向かう先は真逆なのですから… 

一つの道は僅かな利益と名声を追い求める無常な道であり、もう一つの道は「心の安らぎ」に至る真理の道…本当の幸せや喜びとは心の安らぎなのですから…

どちらの道も.充足を求めてゆく道なのですが[心の充足]と[欲望の充足]とは.実は真逆の道であり、しかも心の充足は無明の闇を晴らす心の育成で到達できる堅固な[実像]ですが、欲望の充足とは永遠に到達できない[虚像]だとも言えるのです…

つまり[幸せや喜び]とは[心の充足][心の安らぎ]に他ならないのです…

そして[心の三要素]でも解説したように、[心を充足させる要素].[心を安らげる要素]は3階層構造であり、[一階部分]の存在の次元の事物である精神性.人格.度量.人間性がしっかりさえしていれば、[二階部分]の他の生命との良い絆や関係性も[三階部分]の所有の次元の事物(金財.持ち物.地位.名誉.承認.権威.権力.知識.情報.健康…)も最低必要量以上には必要とせず、却って心の一階部分が脆く.不安定なのに、二階.三階部分の比重が増せば、一階部分の精神性.人格.人間性を歪ませたり崩壊させる事ともなるのですから…

つまりは自分自身の[幸せや喜び]を得るために、精神性や人格を高めてゆくのであり、心に安らぎが現れ.心が充足してくると不満は消え去り、たとえ無一物であったとしても.満ち足りた日々を送ることが出来るのです…ですから心の貧しい人格の低い人間は、満たされる事のない不満な心が、尊大に振る舞ったり、物事に難癖をつけたり、クレーマーになったりして、自分の不満を発散しようとしながら益々、人格を下げてゆくのです…それは争いの修羅界から、動物なみの畜生界、餓鬼界、地獄界(自業苦界)まで何処までも堕ちてゆき.苦しみ藻掻くことも自分の[心の安らぎ]の問題なのです…

誰でもが.幸せになりたい…楽しくいきて行きたいと思いながら懸命に生きているのです…


折角の命なのですから苦しんで生きたいと思っている人など居ないのです(一部の変態者やストイックな人が行なう自虐的な行為にしてさえも.幸せ、喜びの為の行為に他ならないのですから)

しかし、人生を幸せに生きるのも.楽しんで生きるのも、現実はそう簡単にはいきませんね…

何故、生命が現れて約そ40億年、人類へと進化して約そ10万年.これ程切望して.これ程探し求めているというのに、手に入れるのは短命で.不安定で一時的で無常でしかない僅かな幸せや喜びと、引き換えに多くの悩みや苦しみなのではないでしょうか…

人類の社会.科学.哲学.心理学.思想も、この幸せや喜びというものを追求し.頭を悩ませ.発展もしてきたとも言えるのですが、結果的には.こうすれば幸せや喜びを得られると宣いながら、得体の知れない物事とか.無常な物事への執着を深めさせるだけでしかなく、欲望の炎を煽り.人々を苦しみ.悩み.恨み.哀しみ.虚しさで焼き尽くしただけに過ぎないのではないでしょうか…

仏教では.それを無明(無知)と言うのです…

つまりは本当の幸せや喜びというものが何なのかも解らずに幸せや喜びというものを切望して探し廻りながら、それを手に入れた時に短命.一時的.無常ではあるけれど.幸せな気分や喜びの感覚を与えてくれる.手近にある所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権威.権力.称号…)という僅かな幸せや喜びを得ることは出来るが、それと共に.苦しみ.悩み.虚しさ.飽き…という副作用を伴う事物の所有および所有量こそが幸せや喜びだと錯覚しながら、苦しみや悩みを深めていることに気付けない、それは真実という灯す明かりがないまま暗闇の中を手探りで幸せや喜びを探し求めて、手近な便宜的で.付随的な価値のものでしかない所有の次元の事物を目的物と勘違いして盲目的に握り締めようとする無知を無明というのです…

一般的に「楽しみだ」と思われているもののすべてが、我々をだますからくりです。たとえば財産があれば楽しいと思う人がいるとします。財産は、空からは降ってこないのです。大変苦労して獲得しなくてはならないものです。どんなに苦労しても、成功する場合もしない場合もあります。 財産を得たとしても、その管理にずっと苦労しなくてはいけないのです。 結果として、わずかな楽しみがあっても、その本人が財産の奴隷になってしまいます。


 

平和な家族があれば幸せだろうと思う人がいるとします。 しかし、自分の性格に、また好みに、ぴったり合う相手がそんなに簡単に見つかるでしょうか。家庭を作って子供が生まれてからも、育児は楽しみだけの仕事でしょうか。 家庭の平和を守るために、一生苦労して生活しなくてはならないでしょう。 自分一人の気持ちだけでは、何の行動もできなくなるでしょう。

家族だけでなく、親戚や隣人のことも考慮して、行動する必要が出てくるでしょう。

平和な家庭を作るために努力する人が、結局、家族の奴隷になる羽目になります。

また、健康と長生きを幸せの基準にする人がいるとします。 生きること自体が、とてつもなくおもしろいものであるのなら、健康も長寿も意味がありますが、健康で長生きしたいと思う人自身が、何のために生きているかということをわかっていないのです。 たとえ生きることがおもしろくても、健康と長寿はまったくあてにならない不確定なものです。 健康を維持しようとする努力自体が苦しいものであって、その苦労はまた歳とともにエスカレートしていきます。 努力の結果健康でいられるかもしれませんが、維持する苦しみも増えていくのが現実です。

財産があれば幸せ、健康・長寿であれば幸せだと、多くの人達は短絡的に考えるみたいですが.
財産があまりない人は不幸なのでしょうか?

失なう心配、騙し取られる心配、減らす心配もなく気楽に生きるのは果たして不幸なのでしょうか?

ジャングルで何の財産も持たないで生活する人々は不幸なのでしょうか?

では何故、そんな彼らのほうが不満もなく笑って暮らしているのでしょうか?
家族を持たない人は不幸なのでしょうか?

家族の為とか子供の為に生きて、それが果たして自分の幸福な生き方だと言い切れるのでしょうか?
長生き出来ない人は不幸なのでしょうか?

充実して50年生きるより、無駄に100年生きるほうが果たして幸せでしょうか?
そのように生きる人の中にも、幸せな人はたくさんいます。財産、長寿、遊ぶことなどを、幸せの基準にする考え方は差別的です。なぜならば、皆が平等には得られないものだからです。結果として、人類の一部を不幸だと決めつけているからです。 結局のところ、幸福か不幸かということは主観的な見解にすぎません。

 

人間は一向に理解しようとしないのですが、幸せの本当の意味は心の安らぎです。心に悩み苦しみがない状態です。 嫉妬・怒り・憎しみなどで、病んでいない心です。
ものではありません。ものをいくら追っても、心が病んでいるなら、そこにあるのは単なる苦しみだけです。 心の安らぎは万人に得られるものです。それに、誰かと競争して誰かを負かして勝ち取る必要はないのです。

人類は、幸せに対して盲目です。 幸せと一向に関係のないものが幸せだと勘違いしているのです。我々は日々歳をとっていくのです。 知識も体力も衰えていくのです。 必ず病気に襲われるのです。 いつどこで死んでしまうかわからないのです。これらは、決して避けられない事実です。

それなのに、本当の幸せとは縁も関係もない物質(所有の次元の事物)を追いかけているのです…

覚醒し目覚めれば、人類はずっと錯覚していて物質に振り回され、追いかけられ魅入られる結果になり、物質の奴隷となって自由を失って生きている事実に気付くでしょう…

しかし軟弱な豆腐などが.拠り処(支え)とはならないように、夢幻な妄想的なものも堅固な[心の安らぎ][心の充足]とはなり得ないのです…信じるとは物事が本当には見えていない事でもあり、物事が明確に見え.知り.理解できて初めて疑いなく信じる(信頼する)ことが出来るのですから…

如来 沙門に問う            人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、数年の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う       

人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、数日の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う        人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、飯食の間なり…      如来いわく、汝いまだ道を知らず     如来 また他の沙門に問う       

人命いくばくの間にか在る…       応えていわく、呼吸の間なり…      如来いわく、汝、道を知れり…


 

 

宗教と宗教観

宗教と宗教観
言うなれば.ここが仏教の真骨頂でもあり.仏教を仏教たらしめている処でもあるのですが.ここが一番.理解し難い処でもあると言え.その為に多くの仏教を称する低次元な異端の教えを生み出してきた所縁でもあるのです…
宗教と宗教観とは本質的には天と地ほども違うものなのです…
それは[拠り処]の章でも述べている通り、神や仏とは人間の持つ根深い生きていく事への恐れ.不安.虚しさ.無明さが、子供が親に縋るように保護.安全.安心.恩恵を求めて妄想したものであり、そんな妄想的な物への信仰.崇拝を否定した宗教こそ仏教なのですが、それは仏教の成立当時に於いて迷信的.隷属的に人々を脅しこみ.縛りつけていたバラモン教の神々の否定であり、世の中に溢れ返る得体の知れない神仏や眉唾な力などの否定であり、決して宗教観を否定している処か、却って無明の闇の中を手探りで生きている人々には、宗教観が絶対的に必要なのであり、それは共産主義思想とか全体主義思想を見れば明らかであるように.人間存在とは.大宇宙の片隅の.その一銀河の片隅の太陽系という星系の地球という惑星に生きかされている.大宇宙的に見れば微生物にも等しい儚い存在でしかない事実を大いなる存在というタガが外れ病的な増上慢になると無明な人間はパラノイアな人のごとく.自分達の神格化を欲し、自分の主観に逆らう人々を何百万人.何千万人抹殺しようが、意にも返さない愚かな本質を現わす[人の心の奥底に仏も住むが鬼も住む]そんな存在であり、具わった理性という仏心により.得体の知れないものにではなく、人間などという存在には理解し得ない.計り難い.大いなる存在への正しい崇め.畏れ.敬い.感謝という宗教観がなければ人の心から修羅.畜生.餓鬼.地獄へと堕ちて行くか、糸の切れた凧のように激しい流転を繰り返してゆく事になるのですから…
この大いなる世界を司る[理法]に対するとき、不完全で.不安定で.弱く.脆く.儚き人間という存在として.大いなる存在(理法.天地自然.森羅万象の法則)に対する崇め.畏れ.敬い.感謝の心の象徴であり、主観的に神や仏という象徴的な概念を我々と似せて擬人化して自分達に依り近い存在であって欲しいという願いからに他ならないのです…

しかし象徴化し、また擬人化してしまった事により大いなる理法への信仰が、いつの間にやら得体の知れない神や仏という存在への信仰と化し、絶対神やら何たら仏やらパパラッチでも在るまいし我が神と他の神とか何たら仏のご利益と分別.分断化して、妄想にすぎない俺らが神は偉くて他の神は偉くないと争い.競い.戦争までして他人を多く殺戮したほうの神さまが偉いと位置付けられる罪造りな存在でもあるのですから…
しかし決して宗教や宗教観の否定している訳ではなく、寧ろ正しい宗教や宗教観や拠り処が無ければならないといっているのです…
それは言い換えれば.ドゥッカ(苦)という本質により生かされている人間としての自覚、この
なまじ発展した社会に暮らす愚かな人達は、得体の知れない神仏への信仰から解き放たれた時、人間を人間たらしめている宗教観まで喪失してしまい、この大宇宙の片隅に生きる微生物に等しき存在に過ぎぬ自分というものを尊大に捉えて、心を貧しくさせ、この大宇宙を存在させしめている[大いなる理法][大いなる意思][大いなる存在]への崇め.畏れ.敬い.感謝を、得体の知れないものへと振り向けたり、そんな宗教を捨て去った時、同時に宗教観までも捨て去ってしまい、苦しみ.怒り.不満の根源である貪瞋痴思考という無明な生き方をする事になるのですから…
げに怖ろしきは無明なり…
[人は無明なるが故に宗教観を必要とするのです…]
宗教それは人間の無明な心を慰める為でもある一方、修羅心.畜生心.餓鬼心.地獄心にも容易に貶めてしまう人間の心の本性を善へと導くものなのですから…
人間の無明な本性が暴走するとき、人は自分を基準とした尺度と範疇の中でしか物事を見ることが出来ない…それは大いなる真理の一片を以って、真理の全てであるかの如く錯覚している[井の中の蛙]に他ならないのである…
またそんな主観的で片寄った知識や情報が決して真実とは限らないにも関わらず.そのことに気付けず.気付かす、鵜呑みにして盲信する無思考な者達が大勢を締めるのも怖ろしいことであり.そんな愚かで.短絡的で.偏った者の一人が.その狭い了見で下した無常で短絡的な主観に過ぎないものであっても、煩悩は[自分は正しい][自分の判断は間違ってない]と根拠もない自己肯定感を乗り越えることが出来ないものなのです…
無常な現象でしかない感覚.感情.主観を尺度として物事を測れば、視野の狭い自我意識に翻弄されることとなり、それが苦と不満を造りだしているのですから…